第7話 檻の中の魔法使い

 頭がクラクラする。アタシはどこにいるんだ? 地面がやけに冷たくて、固い。目をゆっくり開けると、警察署で見たような檻が広がっていた。周りを見ても、コーラもアイツもいない。はっ、ちょうどいい。今はアイツらの顔なんか見たくなかったんだ。あんな呆れるほどお人好しな奴らの顔なんかな。檻の中は窓一つなくて、息苦しい空気が漂っている。施設にいたときのことを思い出す。あそこも都会の悪い空気が入らないように、窓を閉め切っていて、その代わりに変な機械で換気をしていた。まるでアタシ達を、ウィルス一つ入ることも許されない実験動物みたいに扱っているようで、いい気がしない。アタシは檻の外に出ようとするが、何かが手に付いていることに気づいた。警察が犯人にかけるような手錠だ。アタシは引きちぎろうとするけど、ビクともしない。檻の中に手錠をしたガキ……か。本当に囚人みたいだな。このままずっと檻の中にいたら、頭がおかしくなりそうだ。アタシは助走を付けて、檻に体当たりした。檻は大きく揺れるが、折れる気配はない。すかさずアタシは、何度も檻に向かって体当たりをかました。全身がしびれるように痛む。金属を揺るがす鈍い音が、檻中に響き渡った。何回か体当たりをし終えて、ついに力尽きてアタシは地面に倒れる。走ったせいか、全身が熱い。アタシの行動を馬鹿にするように、檻はキズ一つ付いていない。胸の奥がムカムカする。せめて手錠がなければ。どうにもできないこの状況に、さらに腹が立った。助けを呼ぶ真似なんて死んでもしたくない。ましてや助けを待つなんてまっぴらごめんだ。そんな真似をするのは、あの甘ちゃん達だけで十分なんだよ。

 その時、檻の外側の通路から誰かの足音が聞こえた。洞窟で会ったあの弱虫な犬の怪物みたいに大きな足音だ。アタシはとっさに壁際に離れる。あの大きな足音は人間のものじゃない。馬鹿でかい怪物のものだ。足音は一直線にこっちに向かってくる。


「お嬢ちゃん、怪我はないかい?」


くぐもった低い声で、足音の主はアタシに向かって話しかける。アタシはおずおずと檻の向こうにいる怪物の姿を見た。それは大きかったが、あの犬の化け物ほどじゃない。でも、背中を丸めてやっとアタシと同じくらいになるほどだ。そいつは全身毛むくじゃらの大きい羊の怪物だった。悪魔みたいな大きい二本の曲がった角に、縮れた黄土色の鬣。顎も鬣と同じ色の、もじゃもじゃの髭が生えていた。緑色の目を光らせて、そいつはアタシを見ている。ハロウィンの仮装で施設の奴らが着ていたような、三角帽子とローブを着ていた。探検家のような茶色いリュックを背負い、そこから杖がはみ出ている。羊の大男には恐ろしく似合わない。


「それ以上近づくな」


アタシは追い詰められた動物みたいに、羊の大男を威嚇した。羊を威嚇する動物なんて見たこともないけどな。腰をかがめて、大男が手を伸ばした瞬間つかみかかれるような体勢でいた。


「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。私は君を傷付けたりしないからね」


羊の大男は駄々っ子をなだめるような穏やかな口調で語りかけてくる。信じるもんか。散々怪物共に酷い目に遭わされたんだ。あんなお人好しそうな顔をして、いざ近づいたらアタシを八つ裂きにするに違いない。アイツの口から覗いている羊に似つかわしくない牙と、毛だらけの手から生えた鋭い爪が何よりの証拠だ。アイツは羊の皮を被った狼。信じるはずがない。


「来んな! それ以上近づいたら……!」


アタシはとっさに手錠の付いた両手でポケットを漁る。そして、閉まっていた花を前に突き出す。間抜けなもんだ。手当たり次第とはいえ、花を化け物に突き出すなんて。その時、花は菓子の家で起こったように光った。明かりに包まれたまま。花はその形を杖に変えていく。大男も驚いていたが、アタシはそれ以上に驚いた。あのキザ野郎が言ったことは信用できないが、これも魔法なのか? 杖は大男がいる鉄格子に向かって、紫色の衝撃波を放った。衝撃波は大男の目の前にある鉄格子を粉々に破壊する。砂埃が舞い上がった。コーラを治したときとは明らかに違う。アタシが目の前にいる大男をぶっ飛ばしたいと思ったら、花が杖に変わった。これなら、大男に攻撃される前にぶっ飛ばせる。だが、一発撃った反動なのかアタシの体には、だるさが重くのしかかっていた。頭の中がぐらぐらする。目眩もしてきた。魔法とやらを使うのはこんなに体力が消耗するものなのか。くそっ、アイツをぶっ飛ばす方法を見つけたのに。


「おやおや、そんな強い魔法を使ったら君の身が持たないよ」


羊の大男は大きな足でアタシの元に寄ってくる。アタシはせめてもの抵抗で杖を向けたが、疲れているせいなのか魔法は出てこない。あと一撃でも食らわせれば……。足がもつれて、ついにアタシは地面にへたり込む。


「く……来んな……。近づくな……」


心臓の鼓動が早くなり、呼吸も乱れてくる。杖もただの花に戻った。こんな時……こんな時にアイツらがいたら……。いや、馴れ合いはごめんだ。アタシはあんな甘ちゃん共なんかじゃない。アタシはアタシ一人の力でここを出る。そんな空意地だけが、アタシを動かす気力だった。


「大丈夫、落ち着いて息を吸うんだよ」


羊の大男はなおも穏やかにな口調で語りかける。絶対信じるもんか。羊の大男は人の頭なんて握りつぶせるくらい大きな手で、アタシの背中をさする。アイツに肩を撫でられた時みたいに、優しい手つきだった。化け物に撫でられているはずなのに、呼吸が落ち着いていく。何で気を許しているんだ。あの大男は怪物だ。そのはずなのに、どうしてアタシは逃げないんだ。自分でも分からなくなっていた。


「怖かったんだね。よしよし」


大男は丸太みたいな腕でアタシを抱きしめる。いつもだったらその腕を引っぱたくのに、今は何故かこのままでいたいと思った。濡れた犬みたいな匂いかと思ったが、羊の大男からはいい匂いがする。昔、母さんが入れてくれた紅茶みたいなふんわりとした匂いだ。アタシはそのまま黙っていた。


「さあ、ここは危険だ。早く外に出よう」


聞き分けのない子供を説得するように、大男はアタシに言い聞かせる。あの緑色の目に見つめられたら、言うことをすんなりと聞いてしまいそうだ。大男は背中から杖を取り出して、アタシ目掛けて振った。すると、手錠はいとも簡単にアタシの手から外れる。あれも魔法なのか? わざわざアタシを逃がすようなことをするなんて、変な怪物だ。確かに、ここがどこだか分からないが、良い気がするような所じゃない。むしろ施設にいた頃を思い出させてくるから不愉快だ。でも、あの大男を完全に信用しているわけじゃない。コイツもあのニット帽の幽霊男と同じ怪物だ。いつ本性を現すか分かったものじゃない。


「待て、お前は誰だ? どうしてアタシを助けようとする?」


「私はセオドリック。このライブラ城は魔王がいる。君みたいな子供が来ちゃいけないんだ」


セオド……覚えにくい名前だな。羊なのに体が大きくて牛みたいだからムウムウでいいか。アタシは魔王の城の牢屋に捕まっていたのか。ということは、アイツらも、もしかしたら捕まっているのか? いや、アタシが助ける義理はない。もうアタシはアイツらの仲間じゃないからな。


「こっちから音がしたぞ!」


「あの子供が脱走したのかも知れない。探せ!」


通路の奥から無数の足音が聞こえてくる。鎧のガチャガチャと鳴る音が、ひっきりなしに牢屋に響いた。見つかったらどうなるんだ。今度こそ殺されるかも知れない。


「さあ、行こう」


ムウムウは迷子の手を引くようにアタシの手を取る。信用できないが、一人でいても魔王の手下に殺されるだけだ。アタシはためらいつつも、ムウムウの手を取る。羊のくせに、ムウムウの手には蹄の代わりに肉球が付いていた。アタシとムウムウは牢屋の外に出て行く。我ながらでかい穴を開けたんだな。鉄格子は衝撃波のすさまじい跡を残すように穴が開いていた。残った鉄格子もクリスマスの棒付きキャンディのように曲げられている。こんなすさまじい力だったなんて。何よりもその魔法を放ったのがアタシなのが信じられなかった。


 廊下に灯る白い炎の光を頼りに、アタシ達は歩いて行く。と言っても、ムウムウの一歩は大きくて、アタシは駆け足だったけど。追っ手の足音はどんどん迫っていた。だけどムウムウは顔色一つ変えないで、とぼけた顔をしている。さすがにずっと手を掴まれるのは嫌だ。スーパーで迷子になった子供みたいだからな。


「おい、もう手を離せよ。馴れ馴れしいのは嫌いだ」


「ああ、すまないね」


ムウムウは案外すんなり離してくれた。ちょっと肉球の感触が恋しいな。あんなに手を握られたのは、植物園で迷子になって母さんに見つけられて以来だ。あの時の母さんは、泣き腫らして顔が真っ赤になっていたな。どうしてかこの毛むくじゃらと一緒にいると、昔のことを思い出すんだろう。ずっと前に忘れたはずなのに。


「いたぞ!」


ふいにアタシの背後から、鋭い声がした。振り向くとそこには、鎧を着た白い幽霊のような兵士がいる。兵士は紺色の鎧を鳴らして、アタシの肩に手を伸ばした。アタシは抵抗しようとしたが、向こうの方が速い。その時、不思議な音が廊下に響き渡った。何かの歌みたいだ。歌を聴くと、兵士の体はぐらつく。なんだか安心するような歌声だ。母さんがアタシを寝かせるときに歌った子守歌みたいに。母さんはいつも、アタシが寝るときは柔らかい唇でおやすみのキスをして、透き通るような声で子守歌を歌ってくれた。そう、フカフカのベッドに腰を下ろして、電気スタンドの光に照らされながら本を開いてくれたっけ。茶色の長い髪を揺らして、吸い込まれそうなほど澄んだ焦げ茶色の目で……。


「おっと、大丈夫かい?」


アタシの体を、何かフカフカしたものが包んだ。ハッとして、アタシは辺りを見回す。周りには幽霊みたいな兵士が何人も倒れている。これはアタシがやったのか? それともムウムウがやったのか? 


「私の眠りの魔法は強力だからね。今度使うときは耳を塞いだ方がいいよ」


ムウムウがアタシから手を離す。このフカフカしたものは、ムウムウの腕だったのか。アタシは目をこする。いつの間にか寝ていたみたいだ。周りにいる兵士も死んだかと思っていたけど、気持ちよさそうな寝息を立てている。ずいぶん懐かしい夢を見ていた気がした。あと一歩で兵士に殺されていたのかもしれないのに。ムウムウに助けられたな。


「……ありがとよ。助けてくれて」


アイツの真似事をするように、アタシはムウムウに礼を言う。なんか小っ恥ずかしいな。アイツはこんな思いでアタシに礼を言ったのか。海兵の真似事みたいな青いマリンキャップを自信なさげに揺らして、そばかすだらけの頬を赤く染めて。アイツは悪い奴じゃないことは、アタシでも分かる。でも、弱いくせに兄貴ぶったり戦おうとしたりするところがムカつく。そんなことをするなら、部屋の隅で震えていればいいのに。ムウムウはしばらくアタシの様子を見ていたが、やがてにっこりと微笑んだ。


「兵士達もいずれは起きる。今のうちに行こう」


ムウムウは廊下を進んで、アタシを手招きする。アタシは眠っている兵士を起こさないように、忍び足で進んだ。暗闇の中で炎に照らされているムウムウの後ろ姿は、なんだか大きく見えた。そういえば、もう手はつないでくれないのか。手をつないでいる間だけは、ムウムウが怪物だっていうことを、忘れられたのに。

 

 廊下を抜けると、階段があった。階段は螺旋状になっていて、アタシ達を翻弄するように渦巻いている。石造りの壁を触ると、酷く冷たかった。小綺麗ではあるけど、逆にそれが無機質で不気味だ。ムウムウは追っ手が来てないか後ろを確認する。兵士達はまだ寝ているのか、足音一つ聞こえない。でも、ムウムウはどうしてこの城に来たんだ? こんな薄暗いところ、普通だったら来るはずがない。


「なあ、お前はどうしてここに来たんだ?」


アタシの質問に、ムウムウは一瞬顔が曇る。何か言えない理由でもあったのか? 気のせいか、その様子が少し心苦しげに見えた。


「実は、娘とはぐれてしまってね。魔王に攫われたんじゃないかと思ってここに来たんだ」


ムウムウは悲しげな顔をする。“娘”という言葉を聞いて、アタシの体は凍り付いた。ムウムウが“父親”だったなんて。頭の中には、思い出したくもない記憶がどっと溢れる。違う、ムウムウはそんなことをする奴じゃねぇ。そうだったらあの時兵士からアタシを助けてくれるはずがないじゃねぇか。心の中で必死に自分に言い聞かせる。だけど、思い出は頭の中でしきりにフラッシュバックした。たまらず、アタシはそれをムウムウに悟られまいと、先に進もうとする。


「あっ、待ちなさい。この階段は走ると危ないよ!」


階段を上るアタシを、ムウムウは手を引いて引き留めようとする。まずい、このままだと様子がおかしいことがバレる。ムウムウは嫌な奴じゃない。分かってる。……分かってんだ!


「そんなことは分かってる! アタシに構うな!」


気持ちとは裏腹に、強い口調でアタシはムウムウを突き放した。手を払いのけようとして、その弾みでアタシは階段から足を踏み外す。階段の角に腕がこすれ、二の腕の部分が破けて血が出た。鋭い痛みに、アタシは膝を押さえて丸くなる。それを見て、ムウムウは慌ててアタシに駆け寄った。


「ほら、言ったとおりだろう? 傷口を見せてみなさい」


ムウムウはアタシの袖をまくって傷口を見ようとする。アタシは必死に隠そうとあいている方の手で抵抗した。差し伸べた手を弾かれて、ムウムウは困った顔になる。


「止めろ! 手当てなんかいらねぇ!」


強い口調でアタシはわめき散らす。惨めなのは分かっている。恩知らずなのも分かっている。自分を助けてくれた人にこんな仕打ちをするなんてどうかしてる。そうだとも、アタシはどうかしているんだ。頭から吹き出す忌々しい記憶に支配されているんだ。


「! ……これは……」


ムウムウの驚いた顔が飛び込んでくる。その手元からは、めくれ上がったアタシのジャンパーの袖が見えた。ああ、ついに見られちまった。アタシの手を。ずっと見たくなくて隠していた自分の手を。目の前にある傷だらけの腕。点々と付く火傷の跡に黒ずんだ痣。さっき付いた切り傷よりよっぽど目立つ大きな傷跡。……何年ぶりに見ただろう。ムウムウは言葉を失っている。そうだ、この顔をされるのが嫌なんだ。アタシの腕を見る度に、みんなそんな顔をする。それがたまらなく嫌だった。アタシは観念して、抵抗するのを止めた。自分の腕を見て、さらに鮮明に溢れる記憶。それがいっぺんに、アタシの胸を突き刺した。


 アタシ、クリスティン・ノーマンは突然クリスティン・スタンフォードになった。厄介者がいなくなるせいなのか、妙に上機嫌なヘザー院長に連れられて、アタシは施設の玄関で、見知らぬ家族と対面した。一人は気弱そうな背の高い男。縮れた黒髪を掻いて、馴れ馴れしくアタシに話しかけてきた。もう一人は仕切りに院長と話していた神経質そうな女の人。青い目で、哀れむようにアタシの方をチラチラ見ていた。そして、その二人の側にいた、怯えた目でアタシを見る背の小さいアイツ。院長にあの三人がこれからあなたの家族よ、って言われたときはぞっとした。だってアタシにはもう父さんも母さんもいたんだからな。

 

 施設に来る前、アタシは父さんと母さんと一緒に住んでいた。アイツの住む田舎町なんかとは比べものにもならない、ブルーステイツっていう大きな町に。家も大きくて、アタシはよく家の庭で母さんと花を育てていた。どの種がどんな色の花を咲かせるのかは、ぜんぶ母さんに教わったんだ。母さんは体が弱かったけど、いつも料理を作ってくれた。母さんったらアタシの大嫌いなブロッコリーを、オムレツの中に入れたりするんだ。食事の時にアタシがブロッコリー入りのオムレツを何も知らないで美味しそうに食べていたとき、父さんと母さんはいたずらっ子みたいに笑っていた。父さんもよく、アタシをドライブに連れて行ってくれた。父さんは背が高かったから、動物園で前がよく見えないときにアタシを肩車してくれたんだ。あの時はとても楽しかった。


 でも、楽しいときは一瞬だ。おとぎ話じゃないから、その後幸せに暮らしました、なんてない。ある日、アタシが庭から戻ってきたら、母さんが台所で倒れていた。母さんは酷く咳き込んで、体中を痙攣させていた。その光景だけは今でも覚えているよ。台所にあった作りかけのオムレツ。アタシはどうしようもできなかった。救急車に運ばれていく母さんを黙って見届けるしかなかった。病院に行こうと焦る父さんの顔。ベッドの上で苦しげな母さん。病室に鳴り響く心電図の機械音。その機械音が鳴り止んだ時、それが何を意味するのか、アタシには分からなかった。ただ、苦しげな表情がなくなった時に、病気が治って眠っただけかと思ったんだ。だから、父さんやお医者さんが悲しそうな顔をしている理由が分からなかった。しばらくして母さんが変な箱に入って土の中に埋められるときに気づいたんだ。母さんは死んでしまったってな。


 それから、この家はおかしくなった。父さんは母さんを喪ったショックで、仕事に身が入らなくなったんだ。アタシは掃除洗濯、買い物、全ての家事をやらなくちゃいけなくなった。父さんの恰幅のよかった顔はだんだんやつれて、はつらつとしていた赤茶色の目は死んだ魚のような目になった。身なりもだらしなくなって、髭の手入れもしなくなったんだ。父さんはアタシが作った食べ物を一切口にしないで、泡立つ黄色い液体ばかり飲むようになった。それが何だか分からなかったけど、それを飲むと父さんは顔中火が付いたみたいに真っ赤になったんだ。父さんはそれから事あるごとにアタシを殴った。帰ってくる時間が遅れたら本を投げつけ、お使いで買ってくるものが売り切れていたときには、吸っていた火の付いた白い棒を腕に押し当て、お風呂の掃除ができていなかったときには、浴槽に沈められる。そんな毎日が続いた。アタシは家事をしていない間は、自分の傷に包帯を巻いて、破れた服を縫ってばかりだった。父さんが仕事に身が入らなくなってからは、学校にも行けなくなったんだ。先生に読み書きを教えてもらう代わりに、父さんから罵詈雑言を教えられた。“お前なんて生まれてこなければよかった”、“母さんが死んだのはお前のせいだ”。ここまで言われると逆に今までの生活が嘘みたいに思えたよ。アタシ達は母さんが死ぬまで、“家族ごっこ”をやってたってな。

 

 でも、家族ごっこも役者が揃わなければ終わりだ。母さんがいなくなってからは、生活がどんどん苦しくなった。父さんも仕事に行かず家にいることが多かったよ。そんなある日、アタシはいつも通り買い物から帰ってきた。父さんに殴られる覚悟で居間に行ったけど、その心配はなかった。居間には天井から垂れ下がるロープに吊された父さんがいたんだ。骨と皮だけになった腕をだらりと垂らしてな。アタシは驚きのあまり、買い物で買ってきた牛乳を落とした。父さんの足下には、数字がたくさん入った書類が落ちていた。その意味は何だか分からなかったが、“ファイアー”と書いてある書類が嫌に目に付いたよ。父さんは首にロープが巻き付いたまま、空中で揺らいでいる。返事が返って来ない様子を見て、アタシは気づいた。自分は一人になってしまったと言うことをな。父さんからの暴力がないことにせいせいする前に、酷い喪失感が襲った。あの家族ごっこは確かにアタシの記憶にあったんだ。あの思い出は本当だった。いくら暴力を振られても、その思い出だけは忘れられなかったんだ。


 しばらくして、警察がアタシと冷たくなった父さんを見つけた。警察はアタシの話なんか気にせずに、せっせと父さんの体を運んでいったんだ。その後、眼鏡をかけた神経質そうな女の人が、取り繕うような笑顔でアタシを迎えに着た。


 待ってたのは、あのつまらない施設での生活だったよ。アタシは今までの暮らしを忘れようと、集めた花の種をぜんぶゴミ箱に捨てた。父さんと同じブロンド色の髪を消すために、茶色に染めた。施設は狭いくせに、嫌に清潔な白い服を着た子供でいっぱいだったよ。アタシが遊ぶような物じゃない幼稚な遊具で、動物園みたいに子供達が騒いでいた。アタシは騒がしいのは嫌いだった。もちろん口うるさいヘザー院長も。だからアタシはいつも、施設の隅で寝ていた。寝ているときだけは、何もかも忘れられるから幸せだったよ。つまらない読み書きの授業も、がやがやうるさい休み時間も、これで乗り切れるからな。でも、時折そんな時間を邪魔する奴がいた。ある日、背のでかい小太りの子供がアタシに話しかけてきた。歩く様子が、まるで足の生えたドラム缶みたいだったな。ドラム缶小僧はアタシを指さして、“お前の父親は借金を背負って自殺したんだろ?”って言った。アタシはそれを聞くなり頭にきて、そいつの頭を殴ってやった。父さんを侮辱したから殴ったわけじゃない。ただ、アタシに余計な探りを入れたから腹が立ったんだ。ドラム缶小僧はアタシに殴られるなり、大泣きしてヘザー院長を呼んだ。その後は傑作だったよ。ヘザー院長はあのドラム缶小僧の言い分を鵜呑みにして、アタシだけを叱ったんだ。言い訳する気にもなれなかったよ。よかったな、ドラム缶。アタシを悪者にできて。おかげでアタシに誰も近づかなくなったよ。本当に独りぼっちだ。アイツが来るまでは。


 ムウムウは黙ったまま傷口を見ている。さあ、これでアタシがろくでもない奴だって分かっただろう。殴ればいい、独りにすればいい。お前も怪物だ。子供一人痛めつけてもなんとも思わないだろう? でも、いつまで経ってもムウムウは殴りもしないし怒りもしない。それどころかさっきの切り傷に向かって、優しく手をかざしていた。手から淡い光が漏れて、アタシの腕を包み込む。胸が温かくなる。すごく心地よい感覚だ。思わずアタシは、目の前にいるのが怪物だということを忘れていた。たちまち、傷口は塞がって元通りになる。治療が終わると、ムウムウは優しげに微笑んだ。血も涙もない化け物からは想像も付かないほど温かい笑顔で。


「……辛かったんだね」


ムウムウはそれ以上根掘り葉掘り聞こうとしなかった。ただ、先に行こうと手を差し伸べている。それが嬉しかった。これはアタシだけの秘密だ。アイツにも、コーラにも知られたくない。アタシはあの星屑がやっていたようなぎこちない笑顔を浮かべ、ムウムウの手を取る。そうだ、この手が人を傷付けるはずがない。こんな温かい手が。


「なあ、お前の娘ってどんな奴なんだ?」


「私にはもったいないくらいの娘だよ。ちょっとお転婆さんだけどね」


ムウムウは物思いにふけるような口調だ。本当に自分の子を大切にしているんだな。でなきゃこんな所に来ねぇよ。そういえば、アイツも無事なのかな。アイツはどうしようもないお人好しだから、アタシがいなかったらすぐに怪物にやられちまう。あの星クズも頼りないからな。


「どうしたんだい? そんな寂しそうな顔をして」


「し……してねぇよ! そんな顔」


ムウムウに顔を覗き込まれて、アタシは顔を真っ赤にする。いつの間にそんな顔をしてたんだ。みっともねぇ。アイツらのことを考えていたばかりに。


「ただ、アタシの兄ちゃん達はどうしているかな……と思ってな」


「兄ちゃん?」


「ほ……本当の兄ちゃんじゃないけどな! ヒョロヒョロで頼りなくて、でもいい奴なんだ」


ムウムウはアタシの発言に、急に険しい顔になる。あのボケーッとした顔からは想像も付かない。アタシとしたことが、アイツを兄ちゃんなんて呼んじまうとはな。ムカつくけど、いい奴なのは本当だ。クマのボロ人形に襲われたときに、アイツはアタシを庇ってくれた。コーラだって、宝石まみれのドラゴンからアタシを助けてくれたんだ。悔しいが、それは事実だ。あの時の剣を捨てて身代わりになろうとしたアイツの後ろ姿は、本当の兄ちゃんみたいだった。そんな奴に、アタシは実の兄じゃないとか言っちまったんだ。


「……そっか。きっと大丈夫だよ」


ムウムウはさっきの気難しそうな顔が嘘のように、アタシに笑いかけた。無理して笑っているようにも思えたけど、それでも嬉しい。アタシは階段を上がりきるまで、ムウムウの手を離さなかった。

  

 階段を上がりきると、倉庫のような場所にたどり着いた。倉庫は樽が大量に置かれていて、その中にはリンゴがいっぱい詰まっている。ムウムウは倉庫の扉を開けた。扉を開けた瞬間、暖かい空気が入ってくる。外だ。


「ここを出れば、城の外に行けるよ」


ムウムウはアタシに頬笑みかけたけど、目は何処か悲しげだった。城の外には、三つの人影があった。その内二人には見覚えがある。アイツらだ。アタシはその影に向かって走って行った。その後ろでムウムウがどんな顔をしていたのかは、知るよしもなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る