第2話 僕達はヒーロー!?

 「……リアム……クリスティン……。起きて……」


透き通った声が聞こえる。一体誰だろう。僕は目をこすりながら起き上がる。視界がぼやけてはっきりしない。分かるのは、かび臭い湿った匂いがすることだけだ。誰かが明かりを消したように薄暗い。かび臭いって言っても、図書館にある古い本の匂いとは違う。もっと土が混じったような匂いだ。


「な、なんだ!? ……ここは」


クリスティンの声に、僕の視界は一気に開けた。氷柱のような石が、天井から伸びている。地面にはびっしり、赤黒い苔が生えていた。ここは……洞窟なのかな。少なくともあの図書館じゃない。図書館にこんな魔境があったなんて聞いたことがないからね。水滴の落ちる音が、洞窟の奥から不気味に反響する。クリスティンは泥がついた髪を乱暴に掻き上げた。


「こっちよ、二人とも」


またあの声だ。僕はあたりを見回した。岩……石……岩……。声の主は見当たらない。ふと、空中に小さな星のような光を見つけた。星はよく見るとヒスイ色の目が二つ付いていて、口と思しき部分もある。虹色に輝く体は、洞窟のライト代わりになっていた。クリスティンは恐る恐る、星(のような何か)に近づく。


「こんにちは。リアム、クリスティン」


星はあろうことか、僕たちのほうを向いてしゃべったんだ。僕は驚いてその場にへたり込む。クリスティンは猫みたいに後ろに下がって、いつでも攻撃できるように腰をかがめた。星(みたいなもの)は僕らの様子なんて意にも介さないで、宙にふわふわ浮いている。


「大丈夫、私はあなた達を攻撃したりはしないわ」


宇宙人のような淡々とした口調の星(……なのかな)。当然僕たちも警戒は緩めなかった。クリスティンも星の宇宙人と一定の距離をとっている。星の宇宙人は野球ボールぐらいの大きさしかなかったけど、もしかしたら僕達を不思議な力で消しちゃう能力があるかも知れない。図書館の本で宇宙人にさらわれる男の人だって見たことがあるもん。


「お前……何者だ……」


クリスティンは地面に落ちていた石を掴み、脅すように宇宙人に突きつける。だめだ、刺激しちゃ。猛獣みたいな妹も怖いけど、相手はもっと得体の知れない生き物だ。何をされるか分かったものじゃない。でも、脅されても宇宙人は何食わぬ顔のままだ。


「私はコーラ。あなた達の案内人よ」


コーラ? 変な名前だな。……とは言っても宇宙人だからなのか名前だけよく聞こえなかったんだ。あえて僕たちの言語に置き換えると、“コーラ”が一番近いような気がした。コーラは僕たちに“付いてきて”って合図するように洞窟の奥を照らす。コーラの光が苔を鮮やかに照らしている。


「詳しい話は後でするわ。まずはここから出ないと」


僕は訳が分からず、その場で立ちすくんだ。クリスティンも頑なにコーラがいるほうへ向かおうとしない。珍しくクリスティンと意見が合った。もしかしたら僕たちをだまして、落とし穴にはめるかもしれない。相手は僕らと違う宇宙人だからね。


「誰が得体の知れない星クズの話を信じると思うか? 答えはノー、“付いて行く訳がねぇ“」


「ここ以外に出口はないわよ。それに、いつまでもいるわけにはいかないの」


突然、猛獣のような低いうなり声が聞こえてきた。僕は慌てて近くの岩陰に隠れる。唸り声はしばらく続いていたけど、声の主の姿は現れなかった。クリスティンもレンガを引きずるような低く恐ろしい音に、耳を塞ぐ。確かに、いつまでもここにいたらそこにいる星の宇宙人より怖いものに出くわしちゃうかもしれない。驚いたよ。妹も猛獣みたいだけど、あれはまさしく本物の猛獣のような声だった。


「こうしてはいられないわ。さあ、行きましょう」


コーラの言葉に、僕は戸惑いながらも頷いた。今はコーラだけが頼りだ。僕もクリスティンも、ここがどこなのか、どうして図書館からここに来たのか、それすら分からない。でも、とりあえずはこの洞窟を出ないと、僕らの命も危ないんだ。クリスティンは露骨に嫌そうな顔をしたけど、観念したのか渋々僕らの後を歩いた。僕らとの距離は限りなく離していたけど。意外と物分かりはいいんだ。てっきりこの宇宙人を捕まえてランプ代わりにこき使うかと思ったけど。


 洞窟は進めば何か変わるかと思ったけど、石と岩ばかりで何も変わり映えしなかった。これなら僕の家の近くの公園の洞窟の方が百倍楽しいよ。歩くと、苔が僕の足を絡み取るようにスニーカーの裏に張り付く。洞窟に響くのは僕らの足音と、水滴が落ちる音と、たまに聞こえるあの恐ろしいうなり声だけだった。


「ねえ、ここは一体どこなの?」


沈黙にたまりかねて、僕は口を開く。僕は静かなところは好きだ。でも、息が詰まるような静けさは嫌いなんだ。さっきっから耳鳴りのように猛獣の声が聞こえて、そろそろ頭がおかしくなりそう。ただでさえ変な場所にいて、頭がこんがらがっているのに。


「ここはモーガンの洞窟。魔獣、モーガンがうろつく危険な洞窟よ」


「でも、僕達は図書館にいたんだよ。どうしてこんな危険な洞窟にいるの?」


やっぱりあの声は猛獣の声だったんだ。それも魔獣だなんて。にわかには信じ難いけど、あのうなり声を聞いていると不思議と嘘じゃないように思えてくる。自分でもおかしいと思ったよ。魔獣なんて、絵本でしか見たことがないからね。


「それは、あなた達がこの世界に呼ばれたからよ。あなた達は魔王からこの世界を救うことができる存在なの」


「えっ……」


突然告げられた事実に、僕は思わず驚きの声が漏れた。魔王? 世界を救う? 一体どういうことなんだ。僕らにそんなことができるはずがない。


「冗談じゃねぇ! アタシ達はそんな事のためにこんな所に連れて来られたのかよ!?」


クリスティンが地面の石ころを蹴飛ばし、雄叫びのような怒鳴り声を上げる。洞窟が野獣の雄叫びに身を震わせるように振動した。クリスティンがああ言うのも無理もないと思う。僕らはまだ子供だ。それも特別な力も何もない、ただの子供。被っているマリンキャップが、ぶかぶかなほど小さい子供なんだよ。そんな僕らに、絵本で勇者が魔法の剣でドラゴンを倒す真似なんかできっこない。コーラには悪いけど、人違いだと思うんだ。僕らなんかより世界を救うのにふさわしい人間はごまんといるはずなんだよ。


「そうよ、あなた達にしかできないことなの。私は、あなた達を導くべくこの洞窟に来たのよ」


重要な真実を語ったにも関わらず、コーラは態度を全く崩さない。僕はますます戸惑うばかりだ。一刻も早く図書館に戻りたい。こんな所にいたら、この先どんな危険が待ち受けているのか分かったものじゃないよ。それに、パパもママも迎えに来てくれる。図書館にいないと分かったらどんな顔をするだろう。僕の胸は不安でいっぱいになった。


「フン、伝説の勇者ごっこなんかどうでもいい。さっさと図書館に戻せ」


「私は案内人よ。あなた達がいた世界へ戻すことはできないわ」


クリスティンの脅しをきっぱりはねのけるコーラ。クリスティンはコーラに殴り掛かりそうな勢いだった。つくづく融通が利かない宇宙人だ。それじゃあこっちの選択肢は世界を救うしかないじゃないか。


「ぐずぐずしている暇はないわ。魔獣に追いつかれてしまうわよ」


コーラは入り組んだ洞窟の岩肌を縫うように舞う。獲物が見つからず、痺れを切らした魔獣の声が、クリスティンの雄叫び以上に洞窟を揺るがした。聞きたいことは山ほどあるけど、コーラの言うとおりだ。もたもたしていると行き先は図書館どころか魔獣の胃の中になる。僕はスニーカーの紐を結び直して、コーラの方へ歩く。だけど、クリスティンは僕らより先にドタドタ走っていった。


「お前に言われるまでもねぇ。アタシはアタシだけで出口を探す。勇者さんご一行様はゆっくり洞窟探検でもやってな」


クリスティンは吐き捨てるように言うと、僕らのペースなんて気にせず進んでいった。水たまりをブーツで踏みつけているのか、あちこちから水しぶきの音が反響する。困ったな。いくら荒々しい猛獣でも、一応僕の妹だ。妹に世話を焼くのが兄の務めだ、って隣人の長男のジョージ兄さんは言ってた。だけど、実の妹でもないじゃじゃ馬の妹を見たら、いくらジョージ兄さんでも匙を投げ出すだろう。今の僕も同じだ。僕はどうしようもない兄だよ。妹を怖がって、面倒も見れないなんて。


「心配なの? あの子のこと」


コーラに痛いところを突かれて、僕はドキッとする。珍しいな、今まで説明口調だったコーラがそんなことを聞くなんて。人間の感情なんか気にもとめない宇宙人だと思っていたよ。


「……うん。あんなだけど、僕の妹なんだ」


僕はくぐもった声で答える。妹とは言ったけど、僕にクリスティンを妹と呼べる資格はあるのかな。


「きっと大丈夫だわ。この洞窟は一本道よ」


無表情のまま僕を励ますコーラ。実のところ淡々としていて励ましているのかどうかは分からないけど、僕にとっては少し嬉しかった。僕は頷き、コーラに向かって笑ってみせる。コーラは訳が分からなそうにしていた。分からなくても大丈夫だ。これは僕なりのお礼だからね。


 魔獣の声がどんどん近くなる。僕はぬかるみに足を取られつつも、一歩ずつ歩を進めていた。乱暴に水たまりを弾く音はだんだん遠ざかっていく。その代わり、レンガを引きずるような音がだんだん近づいてきた。それと同時に、圧迫するような空気が辺りを包む。コーラは空中を漂っていたけど、重い空気を感じ取ったのか後ろを振り返る。


「大変だわ。すぐそこまで来ている」


コーラの声は心なしか普段より少し不穏だ。体を包む光も少し弱まっている。洞窟の奥の方から、魔獣の唸り声のような音が、すきま風に運ばれて聞こえてきた。苔むしたかび臭い匂いが、一層強くなる。僕はその場から離れようとするけど、苔が僕らの行く手を阻むように足にへばりつく。僕は足を振ってしきりに苔を落とそうとした。レンガを引きずる音が大きくなる。その時、洞窟の奥から二つの緑色の目玉がこっちをみてギラギラ輝いていた。僕はたちまち全身の毛が逆立った。あれは確かに猛獣の目だ。猛獣の目なんだけど、作り物のように無機質な目だ。石をすり砕くような唸り声が、天井の岩を揺さぶる。唸り声に混じって、僅かに言葉のような音が聞こえてきた。


「ヴォォォ……ン……。……ドコ……。ガァァ……ゴ……イヨ……」


良く聞き取れなかったけど、甲高い子供みたいな声だ。唸り声と一緒に聞こえたせいか、言葉の一つ一つは意味をなしていなかった。僕は声を聞くなり恐怖で足がすくんだ。……動けない。

今すぐにでも逃げたいけど、足が言うことを聞かないんだ。まるで蛇に睨まれた蛙みたいに。


「何しているの? 逃げるわよ」


コーラが僕の元に寄って、僕に催促する。僕は足が動かないことを説明しようとした。だけど、唇が震えてうまく言葉が出てこない。喉に言葉が詰まって窒息しそうだ。そうこうしているうちに緑色の目が近づいてくる。暗闇からヌッと、大きな犬の前足が出てきた。かび臭さと一緒に、水遊びで濡れた犬のような匂いが僕の鼻に入ってくる。前足の持ち主は地響きを上げて僕の目の前に現れた。その姿を見て、僕は腰が抜けそうになったよ。だって、僕らの目の前に現れたのは、象ぐらいの大きさの犬だったんだから。それもただの犬じゃない。いつか図書館で借りた東の国にある古い建物の門に置かれている石像みたいな犬なんだ。おまけに両肩には博物館に飾ってある恐竜の頭の骨みたいなものが、鎧みたいに生えていた。ずっと洞窟を歩き回っていたせいなのか、石像のところどころからはみ出ている灰色の毛には泥と苔がついている。

犬の魔獣は僕らの姿を見ると、(犬なのに)鳥のようにけたたましい声を上げた。


「ガォウゥゥ!! ガゥ……レ……!? ……ケテ……!」


犬の魔獣の咆哮には、また意味の分からない言葉が混ざっていた。意味は分からないけど、きっと僕たちを食べてやるって言っているに違いない。僕はその場を離れようとしたけど、やっぱり足が動かなかった。怪物から目をそらそうとしても、あの恐ろしい顔が嫌というほど目に張り付く。作り物の緑色の目、僕らを一飲みできそうなほど大きな口。目元には涙の跡のような水色の模様があって、それがより恐ろしさを掻き立てていた。


「魔獣モーガンよ。話し合いが通じる相手ではないわ。逃げましょう!」


コーラが僕の背中を押して、ようやく僕は一歩踏み出すことができた。僕らはそのまま振り向くことなく、洞窟を走り始める。ぬかるんだ泥が靴下についてもお構いなしに、僕は走った。コーラは僕の先を照らし続ける。今はこの光だけが頼りだ。後ろからは魔獣の恐ろしい声と足音が迫ってくる。


「ガァッ……テェ……! グォオル……デヨ……」


まただ。また吠え声に交じって何か言っている。聞き取れそうで聞き取れない声だ。あの声が聞き取れたら、話し合いで解決できるかな。“この洞窟に生えているありったけの苔をあげますからどうか食べないでください”って? ……無理だね。あの化け物がそんなもので満足するわけがない。現に魔獣は地面の苔を踏み潰しながら向かってきている。コーラの光がだんだん見えなくなってきた。僕は足を速めようとしたけど、ぬかるみに足を取られて転んだ。地面がぬかるんでいたおかげで怪我はなかったけど、顔と服が泥まみれになった。苔が口の中に入って、思わず僕はせき込む。口の中が青汁を一気に飲み干した後みたいだ。


「リアム、どうしたの!?」


コーラがいつまでも僕が来ないことに気付いたのか、僕の元に戻ってくる。それと同時に魔獣も僕に追いつき、荒い息を吐いた。相当興奮しているのか、吐く息が白くなる。魔獣は獲物に追いついたのが嬉しいのか、フリスビーをご主人様のために取ってきた飼い犬のように尻尾を振っていた。コーラは僕の目の前に立って、魔獣を威嚇するように発光する。


「この子は大切な人よ。あなたには渡さないわ」


コーラは魔獣の顔がすぐそこまで来ても動こうとしない。魔獣は目の前にいる食べられなさそうな星を見て、ぎこちなく首をかしげる。だけどコーラのことなんて意にも解さず、僕の方へ顔を近づけた。両肩の恐竜の骨も、大きく口を開ける。僕はぬかるみの中でもがいたけど、うまく動けない。魔獣のかび臭い息が僕の顔に吹き付けられる。

 その時、怪物の来た方向とは反対側から、水を弾く音が聞こえた。音はだんだん僕らに近づいてくる。それが僕らを助けてくれるのかは分からなかった。魔獣も音がする方を向く。すると、小さな石が魔獣めがけて飛んできた。石が目に当たって、魔獣は大声をあげて悶絶する。僕は起き上がって、石を投げた相手を見た。途端に僕はもう一度転びそうになったよ。それはかっこいいスーパーヒーローでもないし、大きな剣を持った騎士でもない。あの身なりのだらしない僕の妹だったんだから。


「何をもたもたしている。そこにいる星クズしか、この世界について知らねぇんだろう。さっさと行くぞ」


目の前にいる象並みのサイズの犬の石像なんか気にせず、クリスティンは僕の手を強引に引っ張る。爪が少し伸びてて痛かったけど、僕はほっとした。本当に自分だけで出口を見つけて、もう図書館に帰っちゃったものだと思っていたよ。僕は服についた泥を落とす。クリスティンの手は僕より大きかった。ジャンバーの袖でほとんど見えないけど、日に当たったことがほとんどなさそうな白い手が見え隠れしている。


「クリスティン。よかった、戻ってきてくれたのね」


コーラもクリスティンの元へ寄る。不思議とさっきまで無表情だったコーラの顔が、少し和らいだような気がした。クリスティンはコーラに気付くと僕の手を乱暴に離して、後ろに飛びのく。さっき手をつかまれて気づいたけど、クリスティンも怖いんだ。僕をつかむ手が震えていたよ。


「グワオォォン! ガァ……イヨォォン……。グルゥ……イヨォォ……」


魔獣が痛みのあまり、耳をつんざくような鳴き声を上げる。そして闘牛士の持つ赤旗を見た闘牛のように、僕らめがけて突進し始めた。


「モーガンは痛みで我を忘れているわ。このままだと危険よ。走って!」


コーラは僕らを先導する。今は別行動をとっている場合じゃない。僕らはコーラの光に導かれて走った。苔に足を取られないように、僕はなるべく乾いた地面を踏む。クリスティンは木に飛び移る豹のように、乾いた足場から次の足場へ器用に飛んでいく。魔獣は絶叫しながら、岩とか苔とか自分を阻むものすべてを粉砕して走ってくる。その様子を見てぞっとしたよ。サーカスのショーの途中でネズミにびっくりした象みたいに見境がないんだからね。


「もうすぐ出口よ!」


コーラの視線の先にはかすかに光が見えていた。光の方からは暖かい風が吹いてくる。でも、僕らはそれを見ているわけにもいかなかった。魔獣が、もう僕たちのすぐそばまで迫っているんだ。僕の頭の中は、この魔獣からどう逃げようかでいっぱいだった。

 そんな時、クリスティンが魔獣に向かって石を振り上げた。無茶だ。さっきと違って、あの魔獣は今、我を忘れているんだ。石なんて簡単に粉々にしちゃうよ。


「止めるんだ、クリスティン。今は逃げることに集中しよう」


「うるせぇ! アンタに指図されるいわれはねぇ! 黙ってろ!」


クリスティンに凄まれて、僕は縮こまる。助けに来てくれてちょっと見直そうと思ったけど、やっぱり猛獣だ。野生動物みたいに、尻尾なんて一切振ろうとしない。クリスティンは石を渾身の力を込めて投げつける。でも、彼女が狙ったのは魔獣じゃなかった。クリスティンの視線の先には天井から生える、あの氷柱のような岩だった。乾いているのか、いまにも崩れそうだ。クリスティンの投げた石は、岩の根元にぶつかった。石は岩の根元を削り取る。すると、支えがなくなって、岩はいとも簡単に落ちていく。落下する岩の先には、荒れ狂う魔獣の頭があった。頭上に岩がぶつかり、魔獣は突然の刺客に驚いてひっくり返る。僕は唖然として、この一部始終を見ていた。魔獣は地響きを上げて、じたばたともがく。コーラも背後で起きた出来事を、目を丸くして見ていた。


「キャウゥン。……タイヨ……。イタイヨォォオン!」


子犬が鳴くような声の魔獣。今度ははっきりと鳴き声に交じった言葉が、僕に聞こえた。痛い……? この魔獣は痛がっているのかな。いかつい顔に似合わず、子供のような口調と声で泣きわめく魔獣。そんなことも気にせず、クリスティンはずかずかと魔獣の前に出る。バキバキと鳴る拳の関節から、僕はクリスティンが次に何をするのか、想像がついてしまった。


「随分とアタシ達を追い回してくれたな。ボコボコにされる覚悟はできてるか?」


クリスティンは魔獣の頭を乱暴に踏みつける。どっちが魔獣かわからないよ。魔獣もクリスティンの迫力に負けたのか、尻尾を後ろ足の間に埋めた。クリスティンは苛立たし気に魔獣の頭に足を押し付ける。赤茶色の目がまるで逃げることは許さないと言わんばかりに燃えていた。


「グオォォン。……ゴ……メ……ン……ナ……サ……イ……」


段々蚊の鳴くような声になる魔獣。もはや目の前の茶髪の猛獣には、魔獣の懇願は届いていないみたいだ。拳を握り締めるクリスティン。それでもなお、魔獣は何かを訴えていた。コーラにも魔獣の声が届いていないのか、事の成り行きを黙って見ている。……ダメだ! その魔獣は何かを僕らに伝えようとしているんだ。僕は思わず魔獣とクリスティンの拳の間に立ち塞がる。パンチが飛んでくる覚悟だったけど、クリスティンは驚いたのか拳の勢いを止めていた。コーラも僕がとった行動が意外だったのか、目を見開いている。


「どういうつもりだ? どけ」


クリスティンは顔をしかめていたけど、すぐに標的を僕に切り替えた。うう、正直言ってあの赤茶色の目で睨まれるとやっぱり足がすくむよ。図書館で感じたのと同じ恐怖が、僕の全身を走った。……いや、怖がっちゃだめだ。僕にだって考えがある。勇気を出すんだ!


「この魔獣は……怖がっているんだよ。だ、だから……もう見逃してあげよう……」


「魔獣は魔獣だ。放っておいたら、またアタシ達を襲ってくる。さっさとどけ」


クリスティンは目を細めて僕を射抜くように見る。妙なことを言ったらアンタから先にぶん殴ってやる、そう脅しているみたいだ。魔獣は自分の前に立ちはだかる人間を物珍しそうに見ていた。僕が今どいたら、目の前にいる茶髪の猛獣は、きっと魔獣を殴り殺すつもりだ。僕は震える手を広げて、頑としてどかなかった。


「お……お願いだよ……。クリスティン、その手を下ろしてよ……」


「ふざけんな! どかねぇならアンタからぶっ飛ばすぞ!!」


クリスティンは火が付いたように怒って、図書館でやったように僕の胸ぐらをつかんだ。そして僕めがけて拳を構える。ああ、やっぱり殴られるのか。でも、後悔はない。魔獣の命を少しでも延ばせたんだから。鋭い八重歯を覗かせて、クリスティンは歯軋りをする。


「ちょっと、今はそんなことしている場合じゃないわ」


コーラが僕とクリスティンの間に割り込む。クリスティンはしばらく拳を降ろそうとしなかったけど、邪魔が入ってもう殴る気にならなかったのか、僕を地面に振り落とした。僕はお尻を打って少し痛かったけど、殴られるよりかはましだ。クリスティンは腑に落ちない顔をしながらも、魔獣から足を離した。


「フン、つくづく甘ったれた奴。そのなけなしの勇気で、どこまで行けるか見ものだ」


クリスティンは呆れ顔で腕を組む。もう魔獣には興味がなさそうだ。僕は胸を撫で下ろして起き上がった。魔獣は頭上の脅威がいなくなった事に驚いたのか、恐る恐る僕らの方を見る。さっきの暴れっぷりが嘘みたいにおとなしい。僕はおずおずと魔獣に近づいた。


「さっきは驚かせてごめんね。もう大丈夫だよ」


僕は魔獣の頭を、犬の頭を撫でるように撫でる。魔獣は最初ぶたれると思ったのか、体を震わせたけど、すぐに尻尾を横に振り始めた。図体は象みたいでおっかないけど、意外と慣れると可愛いな。


「……ガトウ。……アリ……ガトウ」


魔獣はたどたどしい口調で感謝の言葉を述べて、僕に身を寄せる。ざらざらとした石のような体をこすりつけられて少し痛かったけど、どうやら大人しくなってくれたみたいだ。


「信じられない。魔獣モーガンを大人しくさせるなんて」


コーラは目の前で起こっていることが信じられないような顔をする。宇宙人でもあんな顔をするんだ。魔獣、モーガンは起き上がって、子供っぽく甘えるような声を上げる。


「用が済んだならさっさと行くぞ」


クリスティンが僕の肩を叩く。モーガンはさっき自分を襲った猛獣が近づいてきて、僕の後ろに隠れる(大きいせいで端から見たら僕が隠れているようにしか見えなかったけど)。


「何怯えてんだ。お前を殴る気はもうねぇ。無抵抗の奴をいたぶる趣味はねぇからな」


モーガンの態度を見て、ため息をついてたしなめるクリスティン。よかった、てっきりまたモーガンの頭を踏みつけるかと思ったよ。クリスティンは面白くなさそうに側にある石を蹴飛ばしながら、洞窟の出口へ向かう。


「ごめんね、もう行かなくちゃいけないんだ」


「……ウン、助けてくれてありがとう! お兄ちゃん」


モーガンは嬉しそうにはしゃぎ回って、一吠えする。やっぱり年少の子供みたいな声だ。見た目は犬の石像そのものなのに。でも僕が耳を疑ったのは、その石像が発した言葉だった。今まで片言でしか聞こえなかった言葉が、今度は鮮明に聞こえたんだ。


「リアム、行きましょう」


コーラに急かされ、僕は仕方なく出口へと向かう。コーラは僕とクリスティンを、出口の方へと先導する。クリスティンは相変わらずしかめ面をして泥だらけのブーツを踏みならす。


「ね……ねぇ、クリスティン」


「……なんだ」


僕はおずおずとクリスティンに話しかける。珍しくクリスティンは、僕の呼びかけに答えた。心なしか以前より警戒心は消えたような気がする。


「ありがとう……。僕の頼みを聞き入れてくれて」


意外な発言に驚いたのか、クリスティンは細い眉を上げて僕をじっと見ていた。思い切って言ったのはいいけど、ちょっと照れるな。こんなに人にジロジロ見られたことはないからね。


「……あれはただの気まぐれだ」


クリスティンは僕から顔を背ける。本当はどんな顔をしているのか見たかったけど、覗き込んだらどんな目に遭うか予想が付いたから止めた。


「ね……ねぇ、クリスティンって言うのもちょっと堅苦しいだろ? だから、クリスって呼んでもいいかな?」


「…………好きにしろ」


僕の提案を面倒くさそうに返すクリスティン……じゃなくてクリス。ぶっきらぼうな口調だったけど、まんざらでもなさそうだ。ホッとしたよ。クリスティンって言うのはちょっとよそよそしい感じで違和感があったんだ。それに、クリスって言う方が呼びやすいし。


「もうすぐ出口よ。リアム、クリス」


さっきまでの会話の一部始終を聞いていたのか、茶化すように僕らを呼ぶコーラ。クリスはちょっと顔を赤らめて、ふんぞり返りながら歩く。コーラもなんだか少し楽しげだ。宇宙人も冗談を言う口があったなんて。そもそも本当に星形の宇宙人なのかどうかも分からないけど。風が吹き付ける洞窟の出口を、僕らはくぐり抜ける。後ろからは僕らを後押しするように、モーガンの遠吠えが聞こえた。コーラが何者なのか、僕らが本当に世界を救うヒーローなのか、そもそも僕らは図書館に戻れるのか。それはまだ分からない。でも、一つだけ分かったことがある。クリスは僕が思っていたよりかはいけ好かない妹じゃなかったっていうことだ。

   

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