おじさんはエスパーだった!
銀狐
1話 - 月下の遭逢 - 不幸なる探索者の第一歩
片桐勉は、満月の夜に死体を探しにきた。
いや、正確には死体そのものではない。死体が引き起こすという怪異、あるいは死体が流れ着くという噂の残滓、その気配の欠片でも嗅ぎつけられれば御の字、というのが彼のささやかな、しかし切実な願いであった。今宵は三度目の正直、というわけでもないが、禍浜漁港の廃倉庫群にその身を投じていたのである。
「よし…これで三ヶ所目だ」
深夜のコンビニでくじ引きでもするかのような軽い呟きは、しかし彼の内心の期待と、それを上回る恐怖の裏返しでもあった。禍浜漁港の廃倉庫街。そこは打ち捨てられた鋼鉄の獣たちが、潮風に骨を軋ませる墓場であった。
錆びたトタン屋根が、遠い悪夢の中で誰かが歯ぎしりでもしているかのように、ぎしり、ぎしりと不規則な音を立てている。片桐は、その音すら心霊現象の前触れではないかと疑い、懐中電灯を神経質そうに顎に挟み込み、脂汗の滲む額を拭った。手元のスマートフォンには、安っぽい赤文字で「旧・禍浜漁港の廃倉庫群 海難事故多発地帯 夜中に漁具が動く」と踊る、三流オカルトサイトの記事。
傍らには、震える手で書き殴られた自作の心霊スポットマップが広げられている。まるで宝の地図でも見るかのように真剣な眼差しだが、その宝とは、大抵の場合、無残な死の記憶か、さもなくばタチの悪い悪戯の痕跡に過ぎないのだ。
「おっさん、何してんの?」
古井戸の底から響くような、それでいて妙に間延びした少女の声――否、少年の声だった――が、片桐の鼓膜を打った。
「ひぃっ!?」
蛙が潰れたような奇声と共に、片桐は文字通り飛び上がった。それはもう、物理法則を無視したかのような跳躍であった。背負っていた古びたリュックサックが、意志を持った生き物のように彼の肩から滑り落ち、中から厄除けのつもりで詰め込んでいた業務用サイズの塩のパックが飛び出した。
パックは空中で無惨に破裂し、白い結晶の細雪が、月光の下、片桐自身の頭上へと降り注いだ。清めの塩のはずが、彼の目には悪意ある凶器と化した。
「ぎゃあああっ!? し、塩が目に染みるんですけどぉっ!?」
片桐は両手で目を押さえ、その場で無様に転げ回った。涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだ。
「あははっ! 超リアクション! 茹でダコみたいじゃん!」
薄闇の中から、からからと笑いながら現れたのは、季節外れのサーフパンツにビーチサンダルという軽装の少年だった。
日焼けした小麦色の肌が、青白い月光を浴びて、どこかこの世のものならざる燐光を放っているように見える。少年――風見隼人は、涙目で自分を睨みつける中年男を面白そうに見下ろしていた。
「お、おい! き、貴様! 人を驚かすでない! 亡霊かと思ったではないか!」
片桐は涙声で抗議するが、その声は情けなく震えていた。隼人は肩をすくめる。
「霊よりおっさんの方がよっぽど奇声あげてたって。風見隼人ってんだけど、おっさんも、もしかして『あの噂』を確かめに?」
その口ぶりは、まるで秘密の合言葉を交わすかのようだ。
片桐は、隼人の馴れ馴れしさに若干の不快感を覚えつつも、鼻を啜り、ずり落ちた安物の眼鏡を押し上げた。確かに、この廃倉庫には密漁者の溺死体が満月の夜に流れ着き、仲間を求めて徘徊するという、陰湿な都市伝説があった。しかし、片桐が今夜追い求めていたのは、それとは少し毛色の違う、より「映える」怪異だったのだ。
「ち、違うんだよ、若いの。わ、私はだな、ほら、例の…! この前SNSでバズってたじゃないか、『月夜に現れる幽霊船の巨大な錨』! あれを探しに来たのだよ! スクープだ!」
胸を張って言い放つ片桐だったが、その声は自信なさげに尻すぼみになっていく。
「あー、港のコンクリートにでっかい錨が突き刺さってるってやつ? それ、とっくにガセだって結論出てるよ。古い係留杭が、ちょうど干潮の時に変な角度で写り込んだだけだってさ。まとめサイトで見た」
隼人はこともなげに言い放った。
「なっ…!? そ、そんな…! あの動画の投稿主は『命懸けで撮影した本物の心霊映像』だと…!」
片桐は、世界の終わりでも告げられたかのように、がっくりと膝から崩れ落ちた。安物のスーツの膝が、油と錆の混じった地面で汚れるのも構わずに。四十男の純粋な(そして浅はかな)期待が砕け散る音が、侘しい潮騒に混じって聞こえた気がした。
隼人は、そんな片桐を半ば呆れたように横目で見ながら、ひょいと身軽に波止場の縁へと歩み寄った。その瞬間、どろりとした生臭い潮の香りが、粘液のように鼻腔にまとわりついてきた。尋常ではない。少年の首元で揺れる、粗末な貝殻のネックレスが、不意に青白い光を放ったように見えたのは、気のせいだろうか。
「でもさ、このへんマジでヤバいのは本当だから。特に、こんな満月の夜はね」
ふと、隼人の声のトーンが低くなった。先程までの軽薄さが嘘のように消え、ひやりとした警告の響きを帯びている。
波の音が、吸音材に阻まれたかのように、不自然なほど遠のいた。世界から音が奪われていくような感覚。片桐の首筋を、冷たい汗が一筋、蛇のように這い下りていく。空気が変わった。否、変わるべくして変わったのだ。禍浜という街が纏う、日常という名の薄皮一枚下にある「異物」が、今まさにその粘ついた触手を伸ばし始めている。
「ほら、来た」
隼人が、顎で静かに水面を指し示した。
その先、満月を映して鈍く光る黒い海水が、不自然に、まるで巨大な何かが呼吸でもするかのように、ぶくりと盛り上がった。油のように粘稠な水面が裂け、そこから…白く、水膨れした、骨と皮ばかりの手首が、にゅるり、と音を立てて現れた。関節のない軟体動物のように、空を掴もうと指を蠢かせている。
片桐の喉が、ひゅう、と奇妙な音を立てて引き攣った。足が、古びたセメントで塗り固められたかのように、地面に吸い付いて動かない。見間違いではない。トリックでも、CGでもない。あれは本物の、忌まわしい、まがい物のない――
「ぎゃああああっ!? 出たーーーーーっ!! 本物が出たぁぁぁぁぁっ!!!」
片桐勉の絶叫は、彼の内に秘められた(そして本人も全く知らない)厄介な力を呼び覚ます鍵だった。悲鳴が引き金となり、周囲に散乱していた廃材――錆びたドラム缶、朽ちた木箱、用途不明の金属片――が、意志を持ったかのように一斉に宙を舞い上がった!
バチバチと火花を散らしながら、それらは狂ったダンスを踊り始める。打ち捨てられた巨大な漁網が、幽霊船のマストに掲げられた帆のように不気味に膨らみ、空き缶の群れが雹のように降り注ぎ、片桐と隼人の頭上でけたたましい音を立てた。
隼人は、猫のような俊敏さで身を翻し、降り注ぐ瓦礫の雨を紙一重で避けていく。しかし片桐は、恐怖と驚愕で完全に硬直し、自らが引き起こしたポルターガイストの渦の中心で、ただただ立ち尽くすばかりであった。その背中の安物スーツには、既に地図のような歪な汗染みが大きく広がっている。
「おいおい…マジかよ…まさか、このおっさんが元凶…?」
隼人の呆然とした呟きは、再び押し寄せてきた波の音にかき消された。だが、状況は悪化の一途を辿る。
海からは、最初に現れた手を皮切りに、次々と無数の白い手が、まるで水底から生えてくる雑草のように伸びてきたのだ。それらは濡れたコンクリートに生々しい爪痕を刻みつけながら、じりじりと二人へと迫ってくる。
「やばいやばいやばいやばい…!に、逃げなきゃ…お母さん…!」
片桐は半ば錯乱し、意味不明な言葉を呟いている。しかし、足は依然として鉛のように重い。恐怖が胃袋を直接握り潰すような感覚。もはやこれまでか、と諦めかけた、その時だった。
隼人の姿が、一瞬、陽炎のようにぐにゃりと揺らめいた。かと思うと、次の瞬間には、彼は片桐のすぐ隣に立っていた。その動きは、人間の眼では捉えきれないほどの速度だった。
「うだうだ言ってんじゃねえ! とりあえず走るぞ、おっさん!」
有無を言わさず、隼人は片桐の腕を掴んだ。
その瞬間、世界が猛烈な速度で歪んだ。風が、固い壁のように片桐の顔面を殴打する。耳元で轟音が鳴り響き、足元では砕けた波飛沫が弾けるのが見えた。何が起きているのか理解する前に、気がつくと二人は――信じられないことに――満月を映す黒い海面の上を、疾走していたのである。
「うわああああ!? ななな、何これぇ!? 浮いてる!? いや走ってる!? 海の上ぇ!?」
片桐は、もはやパニックの極致に達し、意味のある言葉を発することもできなくなっていた。
「しゃーねーだろ! こうでもしなきゃ追いつかれる! 後ろ見るなよ! 絶対に見るな!」
隼人は叫ぶが、見るなと言われれば見てしまうのが人間の性、というものだ。片桐が恐る恐る振り返ると、そこには地獄があった。
黒い潮が、無数の白い腕を蛇のように蠢かせながら、猛烈な勢いで二人を追ってきていたのだ。その光景を目にした片桐の恐怖は再び沸点に達し、彼の無意識下の力は更なる混沌を生み出した。
周囲に漂っていた夥しい量の漂流ゴミ――ペットボトル、発泡スチロールの破片、正体不明のプラスチック塊――が、まるで巨大な掃除機に吸い込まれるかのように集結し、禍々しい竜巻となって渦を巻き始めたのである。
竜巻は、追ってくる手の群れを巻き込み、破壊しながら、二人の逃走経路を確保しているかのようにも見えたが、その光景はあまりにも異様で、狂気に満ちていた。
この一連の騒動を、約三百メートル沖合に伸びる、苔むした防波堤の上から、一人の少女が静かに眺めていた。長い黒髪が、そこには吹いていないはずの夜風に、するりと靡いている。読川心音。彼女の大きな瞳には、常人には見えないものが映し出されていた。
海の底から湧き上がるような、深く青い怨念の奔流。そして、それを引き寄せ、さらに掻き乱している、あの男――片桐勉から放たれる、不安定で、しかし強大な、黒みがかった恐怖のエネルギー。二つの異なる「歪み」が、禍浜の夜の海で、絡み合う毒蛇のように蠢いているのが、彼女には視えた。
「また、あの人が…厄介なものを引き寄せている…」
心音の小さな囁きは、寄せては返す単調な潮騒の中に、儚く吸い込まれて消えた。彼女の白く細い手には、スマートフォンの冷たい感触があった。
画面には、匿名掲示板の禍浜市スレッドが表示されており、「【速報】旧漁港でヤバいポルターガイスト発生中!? 動画あり」というスレッドが、猛烈な勢いで更新されている。誰かが隠し撮りしたのだろう、片桐が引き起こした瓦礫の乱舞と、海から伸びる手の群れの映像が、低画質ながらも再生回数を刻一刻と増やしていた。
片桐勉の不幸と、彼が呼び起こす怪異は、いつだって見えざる観衆の格好の娯楽となる運命にあるのかもしれなかった。彼の長い、そして奇妙な夜は、まだ始まったばかりである。
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