第43話 居合

 剛が山を下りたのは、霧雨の午後だった。

 “殺さない剣”の余韻を胸に抱えたまま、谷の村に降りると、一人の男が待っていた。


 仲介者だった。かつて何度か剛に闘技場の話を持ってきた男。


 「今度の相手は……真剣使いだ」


 その一言に、剛は立ち止まる。


 耳の奥で風の音が消えた。

 その言葉の意味が脳に届く前に、身体がわずかに緊張を走らせていた。


 「居合の達人。試し斬りじゃない、本物の一太刀で勝負する」


 真剣。 その二文字は、技術でも勝敗でもない、もっと根源的なものを呼び起こす。


 剛は、かつて伝承者と真剣を構えたときに感じたあの“死の気配”を思い出していた。

 だが、あのときとは違う。


 あれは教えだった。制御された“境界”の中での問いだった。

 だがこれは、競技ですらない。相手は——殺す気で来る。


 そんな確信が、言葉の裏から滲み出ていた。


 仲介者の声には、かすかな緊張が混じっていた。

 それがかえって、この話の“本気”を証明していた。


 「断ってもいい。だが、あんたにしか受けられねえ話だって、俺は思ってる」


 剛は答えなかった。

 胸の奥で、何かが軋む音がした。


 戦わずに在ること。

 殺さずに立つこと。

 その境地に、ようやく手が届きかけていたはずだった。


 だが、だからこそ試されるのかもしれない。


 “斬らずに、死を受け止める”ということを。


 剛は空を見上げた。


 灰色の雲が低く垂れこめていた。

 滴がひとつ、額に落ちた。


 「斬らずに、受けられるか……」


 それは、問いであり、決意だった。


 再び、剛の足が動き出した。

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