第7話 夜の手合わせ
久しぶりに山を下りた。
必要な食糧と道具を買うため、麓の町まで歩く。
街灯が点り始めた夕暮れ、
剛は、懐かしくもどこか異質な空気に包まれた。
喧騒。足音。排気音。笑い声。
それらが皮膚に貼りつくように纏わりついてくる。
ふと、細い路地の前で声をかけられた。
「……あんた、九頭竜だろ」
振り返ると、痩せた男が立っていた。
首筋には刺青。腕には薄い傷。
懐かしい空気――裏試合の常連。
名前は思い出せなかったが、過去にどこかで拳を交えたことがある。
「一発だけでいい。俺の今をぶつけさせてくれ」
剛は答えず、ただ静かに路地裏へ歩を進めた。
男はそれを“承諾”と受け取り、ついてくる。
路地の先、人通りのない場所で向かい合う。
剛は構えなかった。
ただ、立っていた。
男が踏み込む。
拳が走る。
だが、剛の中に“反応”は起きなかった。
避けようともせず、迎え撃とうともせず、
ただ、意識が静かに後ろに退いていく。
身体がわずかに揺れ、男の拳は剛の肩をかすめて空を切った。
その瞬間、男の動きが止まった。
「……え?」
男はもう一度拳を構えようとするが、腕が上がらない。
自分の呼吸が乱れているのを、本人が最も驚いていた。
剛は何も言わず、何も構えず、ただそこにいた。
「……なんでだよ……。何にもしてないじゃねえか……」
男は呟き、しゃがみ込んだ。
肩を震わせ、手を握り締めたまま、下を向いていた。
剛は一歩だけ前に出た。
男が怯えるように身体をすくめたのを見て、
そっと背を向け、歩き出す。
何も残らなかった。
勝ちも、負けも、怒りも、誇りも。
ただ、虚ろな空間だけがあった。
山を登る夜道、剛は考えていた。
あのとき、もし木刀を持っていたらどうしていただろう。
あの男を倒していたか?
いや、そうではない。
戦っても、何も残らなかっただろう。
そして、それこそが“恐ろしいこと”だった。
闘争の末に虚無があるなら、
そこに至る道に意味はあるのか。
それでも、祠の前に立つあの男の木刀には、
確かに“意味”があった。
それが何か、まだ言葉にはできない。
だが、だからこそ――
また明日、山に登ろう。
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