第11話 さよならじゃない

 春の風が、校舎の隙間を抜けてゆく。放課後の音楽室には、もう柚月の姿はなかった。 


 転校の前に、しばらく休むことになったと聞かされたのは、その翌日のことだった。


 空っぽのピアノ椅子を見て、僕はそっと深呼吸した。


「変わらないままで、変わっていくんだな」


 ミューの声が、そっと脳内に響いた。


『君はもう、過去に戻りたいとは言わなかった。なぜ?』


「たぶん、気づいたから。過去に何度戻っても、本当にやり直したいことは、“今の僕”の手でしか変えられないって」


 僕は手帳を取り出し、ページの隅に書き足す。

〈今日の気持ちを忘れない。前に進めた日だ〉


 記録しておきたかった。ミューと出会った意味を。柚月にちゃんと気持ちを伝えた勇気を。そのすべてが、僕という人間を形づくっているのだから。


 教室に戻ると、窓際には佐倉涼さくら りょうがいた。涼は僕の親友で、時々うるさくて、でもいつも誰よりも真っ直ぐなやつだ。



 彼はいつもどこか他人事みたいに笑っていて、けれど肝心なときには、鋭く核心を突いてくる。


「おせーぞ。音楽室、また行ってたんだろ?」

「うん。ちょっとだけ」

「ふーん……おまえさ、最近なんか変わったな。前より力が抜けてる。いい意味で」

「そう?」

「うん。なんか、ちゃんと立ってる感じ。自分の足でさ」


 その言葉に、照れくさくなって、つい目をそらした。でも、きっとそれはミューや柚月だけじゃなく、涼や、この毎日がくれたものだ。


 誰かと出会って、ぶつかって、笑って、悩んで、音楽と一緒に生きてきた。その全部が、僕の中で響いてる。


 その夜、僕は自分の部屋で、あらためて“最後の曲”をもう一度聴いた。祖父・陽一が残した音楽。封印してまで手放した過去。


 それでも、ミューに託してくれた未来のヒント。


〈この先に何があっても、自分で選べ。〉


 あの日、祖父の書斎で見つけた手紙の最後の一文を思い出す。


「うん。俺、選ぶよ。ちゃんと」


 そう呟いて、僕はギターを抱いた。静かに、ゆっくりと、未来へ向けてコードを鳴らす。


 窓の外では、春がもうすぐ終わろうとしていた。でも僕の中には、新しい季節が始まっている。


“さよなら”は、もう言わない。だってこの気持ちは、ちゃんと心に残ってるから。

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