第5話 あの日の旋律
放課後の音楽室は、しんと静まりかえっていた。壁に吊るされた譜面、陽の傾きかけた窓、少しだけ埃の匂い。その中に、彼女の背中があった。
柚月は、ピアノの前に座っていた。鍵盤に触れては離れ、また触れて……まるで迷っているように。
奏はそっとドアを閉め、静かに近づいた。その足音に、彼女は気づいて顔を上げた。
「あ、相沢くん?」
「ごめん、勝手に来た」
「ううん。ここ、たまに来たくなるの。誰もいない時間が好きで」
柚月は無理に笑った。でも、奏はそれが“つくりもの”だと、わかった。
彼女の目は少し赤くて、睫毛が濡れていた。
「……泣いてた?」
「えっ?」
「いや、もしそうなら、無理に笑わなくてもいいよ」
柚月は目を見開いた。けれど、すぐに視線を落とし、少しだけ唇を噛んだ。
「ほんと、バレバレなんだね、私って」
「うん。ちょっとだけ、ね」
二人の間に沈黙が落ちる。だけど、以前よりもその沈黙は苦しくなかった。
奏は、彼女の隣のベンチにそっと座った。そして、ポケットからピックを取り出し、手の中で転がす。
「この前言ってたよね。音楽、誰かと一緒にやってみたいって」
柚月はうなずく。
「でも、もうすぐ……」
言いかけて、言葉が途切れる。その「すぐ」の先に、何があるのか。奏は知っている。
——転校。別れ。そして、何も伝えられなかった後悔。
「何か、ある?」
柚月は少しだけ迷ったあと、小さな声で言った。
「家のこと。ちょっと、いろいろあって。まだ誰にも言ってないけど……たぶん、転校すると思う」
その言葉に、胸が締めつけられる。
やっぱり、来たんだ。この“別れ”の記憶が。でも、今度は逃げたくなかった。
「じゃあさ、最後に一緒に演奏しない?」
柚月が驚いた顔をした。
「えっ、今?」
「うん。どうせなら、“始まり”があったって、思いたいから」
彼女は戸惑いながらも、そっと鍵盤に手を置いた。奏は、ケースからギターを取り出す。
目が合う。微笑む。そして——初めての音が、重なった。
不器用で、ぎこちなくて、でもやさしい音。それはたしかに、ふたりだけの“春”の記憶になった。
演奏が終わったあと、柚月がぽつりと言った。
「ありがとう。なんか、ちょっと救われたかも」
「それならよかった」
その瞬間、耳の奥でミューの声が小さく響く。
『記憶の感情値、安定を確認。第一修復段階——完了』
奏は胸の中で、そっと拳を握る。
これはただの演奏じゃない。 “未来を変える”ための最初の鍵だった。
もう一度、きみに会うために。
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