変容
春風細工
変容
「なんでも経験だからね、どんどん読もう」
これは、僕が母さんの本棚に手を出した時の言葉。
「出てこないでよ。そのためにあるんでしょ、部屋」
これは、僕が部屋から出てきた時の言葉。
「今日は誕生日か! どこに行く? 映画か?」
これは、僕が誕生日を迎えた時の言葉。
「しょうもない。顔見せんなっつったろ」
これは、あいつらが望んだ学校に行った時の言葉。
中学二年生の冬、ちらほらと雪の降る寒い日。僕の運命は……いいや、僕たち家族の運命は歪んだ。
僕には仲の良い女の子がいた。お互いの家に行くぐらいは仲が良くて、あの子の家に行った時、彼女の弟と怪獣ごっこで遊んでやるのが、僕の日課だった。
彼女の母親とも仲が良かった。いつも来てくれてありがとう……なんて言葉は、ただの世辞だったのだろうけど。あの頃の僕は、心の底からのものだと思っていた。
「湊くんといると、私、安心するの」
中学二年生。恋とか愛とか性とか、そういうものに興味を持つ年頃。それに、僕も彼女も、自慢ではないが成績が良かった。頭の良さが誇りだったのだ。
一歩進んだ、そういうことをしてみたい。同じ男女が二人きりで仲良くしているなら、そんな感情が互いに芽生えることは、仕方ないと言えるだろう。
僕たちは、気付けば恋仲になっていた。
「そりゃあ、キスしたり。するだろ、恋人なら」
「休みの日に出掛けたりとか、楽しいよ」
「夜の電話とか……俺は好きだぜ」
でも、僕は致命的に恋心が分からなかった。
子供故に膨れ上がる承認欲求と、周りと違うことがしたいという歪んだ欲望。だから、周りと違うことをするために、まずは周りが何をしているのか聞いた。
その通りのことをした。夜の隙間時間に電話をした。彼女の部屋でキスをした。静かに抱き合って、彼女の歳にしては大きく膨らんだ胸を揉んだ。
あの頃の僕たちは、確かにそれだけで良かったはずだった。互いの心に抱える“醜いもの”は、そうするだけで笑って引っ込んでいたはずだった。
バレンタインの日から、彼女はずっと僕から距離を取っていた。忘れもしない、運命の二月十八日。僕が、彼女の態度に強い疑問を抱いていた冬の日。
「桃花さんがね。あなたのこと、その……ストーカーだって言ってるの。何か……心当たりは、ない?」
僕たちはどうしようもなく離れ離れになった。
桃花。桃花という名前の彼女は、僕に対して恐怖を抱き、ストーカーだ、なんて根も葉もないことを言った。
あの時の先生が向けてきた……優しげな、しかし、瞳の奥に汚物を見るような感情を込めた視線は。
今でも時折、夢に見る。
なんてことはない。夜に電話をすることも、彼女とキスや抱擁を交わすことも、胸を揉むことも……他の人にとって普通だったことが、彼女にとっての異常だったというだけのこと。何も、おかしなことではない。
けれどその“何もおかしくないこと”で、僕は中学三年生に上がると同時に転校することになってしまった。
あの忙しい時期に、僕の両親は転校の手続きや、相手方への謝罪。親戚への説明回りに追われて、いずれ、僕と、七歳差の妹の世話をする気力すらなくしていた。
「絶対に許さない! ウチの娘はねえ、お宅の息子さんのせいで、一生普通の恋愛が出来ないかもしれないんですよ!? まだ中学生なのに……あんまりです!」
「申し訳ございません。本当に、本当に申し訳ございませんでした。申し訳ございません、申し訳ございません」
半狂乱になって喚く彼女の母親に、ペコペコと頭を下げる二人の姿を。僕はどこか遠くを見つめるようにして見ていた。怖いな、なんて。他人事のように思った。
僕は当時十四歳だったから、相手がしようとしてきた裁判は開かれることすらなかった。これ以上僕たちが被害を被らないように雇った弁護士も、僕がしてきたことを聞いて、何もおかしくはない、と言ってくれた。
何がいけなかったんだろうか。僕は何をしてしまったんだろうか。ただ、恋を知らずに恋をしようとして、必死に頑張っただけで、どうして、こんな。
大好きだったバスケ部の友達に別れを告げることも出来ず、僕は転校した。中学三年生からクラスに馴染むことなんて出来るはずがない。僕は一人になった。
教室の隅で本を読んだ。言われていない悪口に心を病んだ。これからの未来に、どこまでも絶望した。
「死のう」
僕は自分の部屋で、迷わず手首に刃を押し当てた。
ゆっくりと意識が薄れていく中で、僕は、偶然部屋に入ってきた母親の、大きなため息を聞いていた。
「……見つけなければ良かった」
――――――
「へえ、県内から。なんでわざわざ寮なんか」
「寮に入りたかったんだ。一人暮らしの練習さ」
僕は寮のある学校に入った。
入りたかった訳じゃない。僕としては、あの場で死んでしまいたかった。もしくは、一人で誰も僕のことを知らない場所で、ゆっくり死んでいきたかった。
世間体が、あるのだという。
『あんたの顔とか、見たくないから。お金は出すから寮入って。進路の相談とかも、しなくていい。お金は出すから好きにして。連絡も、しないで』
僕はどこにも居場所がなかった。
親戚は全員、僕の身に起きたことを知っている。同情してくれる人もいるかと期待したけれど……全員、僕のことをゴミを見るような目で見るようになった。
年に一度、僕の家系の長でもある祖父の誕生会にだけ顔を出す。呼ばれもしないのに、僕の親がいつも気にする世間体のためだけに、地獄を見るために顔を出す。
そんな僕にとって、寮は案外悪い場所じゃなかった。友達も出来たし、コミュニティも出来た。
久しく忘れていた感覚を取り戻したような気がした。
「部活どうすんの? 帰宅部はないっしょ」
高校に入って初めて出来た僕の友達。
確かに僕は、帰宅部として高校生活を送る気はなかった。中学で失った青春を取り戻したかった。
「……少し考えるよ。色々、見て回ってから」
弓道部の見学に行った。
先輩たちは凛とした佇まいで弦を引き、シュピ、と風を切る音と共に矢を放つ。タン、と的の中心に突き刺さった矢を見て、僕の心はどうしようもなく躍った。
顧問の先生が見守る中、僕は和弓を手に取った。弦は思いの外固く、ギ、と音を立てるだけで動かない。
「初めは難しいよね。それは、こうすると」
「ひっ!」
二年生の、女の先輩。僕の手に手を重ねて教えてくれようとしたのだろう。けれど僕は、女性がその距離まで近付くこと自体、もう、耐えきれなくなっていた。
「あー……蓮? 教えてあげて」
「お、おう……弦はな、こうして引くと」
僕は呆然と目の前の光景を見ていた。
ひそひそと陰口を叩きながら離れていく同級生。こちらを訝しげな目で見る先輩たち。そして。
あの先輩は、明確な敵意と共に僕を睨んでいた。
パスっ。
僕の放った矢は、的を大きく逸れて落ちた。
――――――
高校二年生。
消灯後の自室で、僕は妹の写真を眺める。
日課だった。何も知らない妹だけが、家の中で居場所のない僕の隣にいてくれる。いつか、離れていってしまうのだろうけど……でも、今だけはせめて、愛する。
人の愛はいつか変わってしまうから。
「僕は何もしていないのに。僕は何かされた側の人間なのに……はは、絵里がいてくれないと耐えられないな」
絵里は僕の妹だ。
僕の両親はちゃんと子供を愛する人“だった”。家族のイベントは開くし、誕生日には好きなところに連れて行って好きなことをさせてくれた。
それが、今はこうも変わった。弁護士だって僕は悪くないと言ってくれたのに……今の僕は、彼らの家の中に踏み入ることすら出来ない。最早他人だ。
暴力だって振るわれた。おまえさえいなければ、なんて……典型的なセリフ。部屋の中で蹲る僕の背中を撫でてくれる、絵里がいなければ僕はとっくに死んでいた。
僕が何をしたんだろうか。親戚たちと顔を合わせると気まずくなる。世間体が悪くなった。だがそれだけのことじゃないか。生きるのに支障はないし、あいつらが何か害を被った訳でもないだろうが。
頭を下げるのがそんなに屈辱だったか。謝罪の言葉を口にするのがそんなに耐えきれなかったか。だとするならば今の僕の……この、苦しみは。
「湊〜? おい漫画貸してくれる約束だろ〜?」
「ん、ああ……ああ、ごめん! 今開ける!」
ドス黒い感情に支配されかけた僕の心を、どんどんと扉を叩く音が浄化した。僕は、貸す約束をしていた漫画を手に取って扉を開ける。
随分と昔の漫画だ。僕がまだ親と仲が良かった頃に買ってもらったもの。一昔前のものに興味が湧く心情は分からないでもないが……わざわざこんな場所でまで。
「面白くなかったら、いつでも返してくれていい。それじゃあ僕はそろそろ寝るから……また明日」
「湊」
扉を閉めかけた僕の名前を呼ぶ声。
心配そうな瞳が、こちらを覗き込んでいた。
「泣いてたのか?」
「……なんでもないよ」
バタン、扉を閉めた。
一人きりの部屋の中、痛いほどの静寂に襲われる。
風呂に入れない、ご飯が出ない。そもそも家に入れないし小遣いなんてある訳ない。ブラウザまで禁止されたスマホ一枚だけが、あれからの親の愛情だろうか。
まあ、要するに僕は被虐待児に“なった”訳だ。
最初から虐待されていた人と、途中から虐待されるようになった人。どちらが辛いか苦しいかとか、多分、比べられるものでもないけれど。
僕は、途中からの方が辛いと思っている。
「出たわ。出たんですよ。アレクシア」
「マージか、俺ヴェルシアだぜ? いいな〜」
扉の向こうから聞こえてくる、流行りのソシャゲのキャラの話。当然、僕は輪の中に入れない。
僕のスマホはソシャゲが禁止されているからだ。こんなにも制限された、同年代の輪に入ることすら禁じるようなものを、僕は愛情と呼びたくはないが……
でもこれ以外に、何もしてもらってはいなかった。
「……寂しいな、とても」
つい零れ出た独り言に反応するように、僕のスマホから通知音が聞こえた。文字が行き交うだけの鉄の板でしかない僕のスマホでは、通知音だけがただの鉄ではないことの証明となる。
友達からか、あいつらからか。僕は軽く深呼吸をしてから、薄暗く光る液晶の画面を見つめた。
『お義父さんの誕生会があります。二週間後、帰ってくるように。交通費は自分で出しなさい』
ふとカレンダーを見ると、祖父の誕生日がもうすぐに迫っていた。ため息混じりにスマホを布団に埋めて、僕はどかり、と乱暴に椅子に座った。
知っていた。僕の友達に、この時間に連絡をしてくるような奴はいない。いいや、もしかすると、向こうから連絡してくれるような友達はいないのかもしれない。
「僕は、あいつらの子供だからな」
自嘲気味に笑って、スマホを充電器に繋いだ。
無機質な電子音が、妙に腹立たしかった。
――――――
電車に揺られながら、ふと考える。
高校から寮に入るような人間は、軒並み家庭環境に難がある。無論それほどの労力をかけてでもウチの学校に来たい、という熱心な生徒もいるのだろうが、残念ながらウチの高校には海が見える以外の特徴はない。
僕の周りにも被虐待児は多い。二歳の頃に母親が目の前で飛び降り、幸か不幸か生き残ってしまったが故に、未だに虐待が続いている女の子がいる。
何をしても殴られ蹴られ、少年法が適用される年齢の内に父親を殺すため家から離れた男の子がいる。
そういった子たちは、最初から虐待されていた。最初から親の愛を受けず、最初から痛みと共に育ってきた。言ってしまえば、それが日常だったのだ。
けれど、僕の場合は違う。
「アレがなければ僕は、今どこにいたんだろうな」
消え入るような小さな声で、そう呟いた。
たらればは嫌いだ。そもそも論も嫌いだ。僕はあの日ストーカーと呼ばれ、裁判沙汰で我が家の関係を破壊し尽くし、愛しの息子ではなくなった愚か者なのだ。
それでも考えずにはいられない。僕がまだあの人たちにとって愛する息子だったのなら、僕は何をしてもらっていて、どんな夢を見ていたのだろうか。
僕だって幼少期は親の愛を受けていた。もらいすぎなぐらいだった。その幸せを知っているから、彼らの子供に向ける笑顔を知っているから、余計に考える。
たった一つの事件で、人は、親は、あそこまで自分の子供への愛を捨てることが出来るのだろうか。
親から他人へと変容することが出来るのだろうか。
もし、それが当たり前なのだとしたら、僕は。
「こんなにも悲しむべきじゃないのかもしれない」
電車のブレーキ音。
耳障りな音で思考は停止させられ、僕は荷物を持って席を立った。どうせ物置小屋同然の荒れ果てた部屋で一晩を過ごすだけだが、移動に荷物は欠かせない。
親しき仲にも礼儀あり、という。それは親と子であっても同じだ。親は子に嫌われぬよう、子は親に見放されぬよう、その時々の最大限の礼儀を持って接する。
故に多少の失敗は許される。僕だって、その礼儀を欠かしたことはないと自負している。自慢じゃないが、母の日と父の日に花を贈らなかったことはない。
足りなかったのだろうか。冤罪のストーカー疑惑を晴らすために、あの地獄を乗り越えて、僕を自分たちの子供だと愛するには、花と感謝では足りなかったのだろうか。抱きしめでもするべきだったのだろうか。
僕は無償の愛を信じない。妹だって、無垢に僕を心配して愛してくれるから愛している。愛や思いやりは等価交換だ。親子でも兄妹でも他人でもそれは変わらない。
ああそうか、それでは彼らにとって僕の事件は、僕の貢いだ愛では等価にならないほどの大事だったのか。
「深く……考えたことがなかったからな。怖くて、目を逸らしていたから……気付けなかったのか、ああ」
気付いてしまうとなんともまあ。
空虚で、単純で、滑稽で、醜悪な。
「面白いぐらい、気持ちの悪い話だな」
電車が駅に着いたのはPM18:04。僕が家にいる時間を最低限にしたいあいつらは、祖父の誕生会を駅から徒歩十五分のイタリアンの店に設定していた。
荷物をリュックに詰め込んで歩き出す。まだこの街で息をしている、桃花といつ出会うとも知れぬ静かな街を。
僕が転校したからか、桃花が根も葉もない噂を流したからか知らないが、僕はこの街に友達もいない。いなくなったと言うべきだろうが、まず僕は胸を張って友達だと言えるような存在がいなかった気がする。
冬と春の狭間、三月の冷たい空気が頬を撫でる。半分黒に支配された夕焼けは、やけに灰色の雲の存在を強調している。
「予約してた萩原です。18:30、二十人」
「お待ちしておりました。お席の用意は出来ております」
店員の態度が一番優しいと感じるとは不思議なものだ。
僕が最初からいることをあいつらは好ましく思わないだろうが、早く着いたものは仕方ない。一人荷物を下ろして席に着き、静かに目を瞑って俯いた。
数分後、ガヤガヤとした声が聞こえる。僕は静かに目を開けると、他のテーブルに固まっている親戚たちの姿をチラリと見て、また目を瞑った。
(……絵里がいない)
それに気付いたのは食事が始まってからだった。
絵里は大のおじいちゃんっ子で、こういう場に出てこないことは有り得ない。病気だろうか。病弱な子だし、この季節の変わり目に体調を崩してもおかしくない。
三月三十一日、祖父の誕生日。僕の誕生日は三月二十八日。日が近いのに誰も祝ってくれないことは予想通りだが、絵里がいないのは少し辛いものがある。
どうせ今日は実家に泊まる。祖父の家は近いし、どちらかにはいるだろう。顔だけ見ておこう。
それぐらい許されるだろう。許されるべきだろう。
僕は咎人なのかもしれないが、罪も犯していないのだから。
――――――
「……帰ってきてたんだ」
僕はあいつらの運転する車に乗ることもなく、徒歩で帰路に着いた。絵里の部屋の窓を叩くと、どこか気怠げな表情をした絵里が緩慢な動作で顔を出した。
「どうしたんだよ。やっぱり気分が悪いのか」
「聞いたよ」
世界が崩れていくような感覚がした。
分かる。分かってしまう。絵里が僕のことに関して聞くことなど、一つしかない。
どういうことだ。こんな小さな妹に、あいつらはあのことを教えたのか。こんな小さな子供が、理解出来るほどに詳しくあのことを教えこんだというのか。
あいつらのそんな所業が信じられなくて、まだ残った可能性から目を背けることが出来なくて、僕は、
「何を、聞いたんだ」
想像通りの答えが帰ってきたのなら。
どうしようもなく壊れてしまうと分かっている。
それでも僕は、問わずには。
「ストーカーだって……最低」
気付けば僕は玄関のドアを蹴っていた。
開けろ、開けろ、開けろ開けろ、開けろ!
何故そうまでして僕を苦しめる! 大して上手くもいっていなかった家庭が少し苦しんだだけで、僕は、ぼ、僕はこんなにも苦しまなくてはいけないのか!
絵里がいるから耐えられたのに。絵里がいるからせめて下を向いて笑っていられたのに。僕から、そんな、最底辺の人生を送る道すら奪うのか、おまえたちは!
「ッ……開け」
「やかましい!」
バキャ、と懐かしい感触がした。
ドアを開けた父が僕の頬を殴った感触。僕は立ち尽くしたまま父の姿を見て、その拳を掴んだ。
「教えたのか……絵里に、教えたのか!」
「それがどうした! なんの問題がある!」
「僕からこれ以上、何を奪おうって言うんだよ!」
「おまえは……死ぬべきなんだ、おまえは!」
嗚呼……分かっていたはずだろうに。
そう思われていたことは。そうするべきだということは。彼らの中で決して許せぬ事件として存在したあの冬の日は、それほどのことをせねばいけないことだと。
けれど、実際にその言葉を聞くまで忘れていた。
忘れようとしていた。そんなはずはないと。人の親であるあいつらには、せめてもの情が残っていると。
僕はそう思い込んで、思い込んで……!
「……分かった」
そこから僕が何をしたのか、僕は覚えていない。
もう夜も遅いのに、僕はひたすら歩いた。凍えるような感覚の中、膝を抱えて蹲る。僕がこれから何をするべきなのか、言葉には出来ないけど分かっている。
おまえたちが僕から奪うなら、僕も奪おう。
そうして命を終えて、そして、終わらせてやろう。
「……僕、どうしたんだ? こんな遅いのに」
「どうした……どうした、のか。どうしたんだろう」
三月も末の三十一日。とても寒いような日。
時が流れど彼らは僕の罪を忘れなかった。時は流れど僕の家に僕の居場所はなかった。
ただ時が流れることを許したから、僕は。
「何も残らなかったな」
僕の、真に大切なものを失った。
「おじさん……近くで屋台をやってるんだ。今日はもう店じまいしたんだが……何か、食ってくかい」
僕に声をかけてくれる人がいる。
何か食べるような気分ではない。
何も食べられるような気はしない。
けれども僕は確かに、何かを食べなくては。
戦の前には、腹ごしらえをしなくてはならない。
「辛い……辛い何かがいい。良ければ、肉が」
「若いねえ。分かった、おいで。僕、名前は」
「
「そりゃまた、どうして」
幸せだった小さな頃を知っているから。
今も幸せな絵里のことを知っているから。
僕はもう耐えられない。僕の居場所を排除した、かつての僕の居場所がそこにあることが耐えられない。
「きっと嫌なことに巻き込まれるから」
次の朝日が昇る頃、僕は。
かつての僕の居場所を破壊した。
二度とこの世で真っ当に生きることは出来ない
消えない罪業を背負いながら。
変容 春風細工 @Luaden
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