彼方の郁
@banibani03300
第1話
XXXX年。
空を見上げれば、銀色の軌跡が幾重にも交差していた。都市の上空を縫うように、光の流れが走る。
東京は今、空間転移技術――通称“ワープ”の中枢都市となっていた。
その日も、伊東郁は歩いていた。
制服の襟を軽く整え、通学路を外れて一本裏手の川沿いを進む。モノレールや地下鉄道に乗れば、学校まで十数分。だが彼女はいつも歩いた。時間がかかっても、汗をかいても。
「……歩いてると、生きてる気がするんだよね」
そう言って笑う郁を、友人たちは理解できなかった。理解しようともしなかった。
この世界ではすべてが速く、効率的で、管理されていた。
人間の身体には出生と同時にICチップが埋め込まれ、それによって全てが記録される。身分、健康、行動、購買、移動――もちろん、ワープも。
ワープ技術は国家が独占しており、その原理は秘匿されていた。表向きは「安全で即時の移動手段」。
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放課後、郁が川沿いの舗道を歩き続けるうちに、空気は次第にひんやりとし始めた。冷たい風が頬をかすめ、まるで自らの存在を確かめるように胸の奥で震えが走る。空には相変わらず無数のワープ航跡が描かれ、その光は街の輪郭をぼんやりと照らしていた。
川沿いのベンチに腰を下ろし、郁は小さな水筒を取り出して口をつける。ぬるくなった緑茶の味に、わずかな安堵が滲んだ。
ふと、反対側の岸辺に視線をやると、見慣れた人影があった。
「あ……朝倉さん」
郁は思わず立ち上がった。背の高い青年――朝倉燿(あさくら よう)は、彼女の視線に気づいたのか、軽く手を挙げて応える。
郁の家の近所に住む大学生で、昔から家族ぐるみの付き合いがある。彼は郁にとって、兄のような存在だった。
大学生である彼は、郁がこの裏道を通ると知っていて、時折こうして顔を出すのだった。
「今日も歩いてるんだね、郁ちゃん」
「うん。朝倉さんこそ、こんな時間に?」
「研究の帰り。転送装置、メンテしててさ」
朝倉は工学系の大学に通っており、専攻は量子通信と空間工学――つまり、ワープ技術の周辺分野だ。だが、その詳細はいつも言葉を濁していた。国家管理の分野という建前もあるが、それ以上に、彼自身が何かを抱えているような雰囲気があった。
「ねえ、朝倉さんはさ、ワープって、本当に“安全”だと思う?」
唐突な問いに、朝倉の表情が一瞬だけ揺れた。けれどすぐに、穏やかな笑みが浮かぶ。
「どうして?」
「なんとなく……ね。あれ、便利すぎて、速すぎて、人間がついていけない気がするんだ」
郁はそう言いながら、空を見上げる。光の線がまたひとつ、瞬いて消えた。
朝倉は少しの沈黙のあと、小さく呟いた。
「郁ちゃんは、やっぱり普通じゃないな」
「え、それどういう意味?」
「褒め言葉だよ。僕の研究室でも、そういう感覚を持てる人は貴重なんだ。……いや、“必要”なんだ」
郁は眉をひそめたが、朝倉はそれ以上は語らなかった。
ただ、その日を境に、彼の視線は少しだけ変わった気がした。
まるで、何かを託そうとしているような――そんな眼差しだった。
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翌朝。
郁はいつものように制服の襟を正し、学校までの長い道を歩いていた。冷え込んだ朝の空気が指先をかじる。それでも彼女は、移動手段にワープやモノレールを使おうとは思わなかった。身体を動かしている時だけ、自分が“今ここにいる”という感覚を確かめられる気がするのだ。
「ワープってさ、結局、どうなってるんだろうね……」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。
それはここ最近、郁の中で繰り返し浮かんでは消える疑問だった。
ニュースでは、日に何百万人もの人々がワープで移動しているという。都市間の通勤は当たり前で、物流も人も、一瞬で地球の裏側へ。けれど、その技術の“中身”は一切公開されていない。民間の研究者たちですら、本質には触れられない。
「郁、おはよー!」
後ろから元気な声。クラスメイトの高橋雪(たかはし ゆき)が駆け寄ってきた。小柄で明るく、郁とは中学からの付き合いだ。
「今日さ、物理の授業でワープの話ちょっとだけ出るって! なんか“導入理論”とかで。先生、昨日わざわざ言ってたんだよ〜」
「へえ、楽しみ……っていうか、“理論だけ”で済ませられる話じゃないと思うけどね」
「また出た、郁の思考深掘りモード」
雪は笑いながら言うが、郁の眼差しは真剣だった。
「だって、あんな便利なものが、なんでここまで秘密にされてるのか、気にならない? なんでもかんでも“国家管理”って言われると、逆に怪しく思えるっていうか」
「うーん、私は速くて便利ならそれでいい派だけどな〜。ワープなしの生活とか、想像つかないし」
「……だから、なのかも」
「え?」
「ううん、なんでもない。教室行こっか」
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三時間目の物理は、都市開発とエネルギー工学の応用についての授業だった。
教師がホログラムを操作すると、空間に立体映像が浮かび上がる。東京上空を走るワープ軌跡が、白い線となって交差しながら、鮮やかに輝いた。
「さて、今日は“ワープ技術の理論的背景”について、少しだけ触れます。もちろん、実用技術の核心部分は国家機密なので、あくまで旧理論に基づいた想像の話ですが……」
教師の言葉に、教室の空気がわずかに緊張する。
生徒たちのほとんどは、興味本位で耳を傾けるだけだが、郁の視線だけは別だった。彼女は筆記端末を握りしめ、スライドの一語一句を見逃すまいと食い入るように見つめていた。
「理論上、空間転移には“物体の情報化”と“情報伝送”、そして“再構築”の3段階が想定されます。これはあくまで非実用理論の話ですよ」
“再構築”――
その言葉が表示された瞬間、郁の背筋に微かな寒気が走った。
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昼休み。
教室の隅で、郁は弁当を開きながらも、手元のタブレットで物理論文のアーカイブを開いていた。
「量子転送」「情報複製禁止則」「空間位相差」――
無数の専門用語が並ぶ中、ある言葉だけが、ずっと頭の中で点滅し続けていた。
再構築。
“物体情報を元に転送先で再構築する手法”――
それはつまり、「元の身体」は一度完全に消去される、ということではないのか。
「別の場所に同じ“記録”で身体を作る」なら、それはただのコピーではないか?
「……そんなの、ただのコピーじゃん」
思わず呟いた声が、空気を震わせた。
その瞬間、自分でも気づかないまま、郁の中で何かが目を覚ました。
“じゃあ、あの光の軌跡を通っているのは、本当に“私”なの?”
ふと、雪が郁の席にやってきて、のぞき込む。
「何見てんの? また難しそうなの読んでる〜。……“身体再構築理論”? うわ、こわ。これって実際に使われてるってこと?」
「いや、建前上は“使われてないことになってる”んだけどね」
「えっ……、やめてよ。そういうゾッとするの」
雪は肩をすくめて去っていった。
郁は目を伏せ、もう一度タブレットに視線を戻す。
ページの下部、注意書きのように記された一文が目に飛び込んだ。
「この方式は倫理上の問題により、旧時代において封印された理論である」
彼女の胸の奥で、小さな恐怖がかすかに芽吹き始めていた。
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