純情マリオネットに糸はない
ぱん
1
大人も、同級生も、下学年の子であっても。
これが正しい評価だよと小さな頃から植え付けられた意識は、今も変わることはない。
反発はしない。
言い訳などもしない。
それこそ、憧れを抱くこともしない。
羨む時間があるなら、自分を磨け――高遠の家に続く呪いのようなしきたりは、堅実にこなせてしまう自分が嫌になるほど、身に染み渡っている。
脱け出すことはできない。でも、しようと思うことはない。
だってこれが、私の世界だったから。
みんなが言っている〝自由〟を知ることは、今後一生ないのだろう。
ここが私にとっての自由な世界だから。
怒られることもなく、蔑まれることもない。
言うことを聞いていれば、何不自由なく人生を送れるような、素晴らしい世界なのだから。
不満なんてない。
つまらないこともない。
ただ。
「……た、だ?」
ぽつりと口に出た言葉を反芻して、私は、高遠つむぎは自分を再確認する。
いつからか親の目を盗んで見始めたファッション雑誌。
本棚の奥に隠すケースに収納したイヤリング。
ドラッグストアで手にしてまだ一度も使っていないリップクリームの包装を解きながら、ベッド横の学習テーブルに置いた、小さな置き鏡をのぞき込む。
――自分は一体、何をやっているのだろうか。
化粧を覚えるのは大人になるのに必要なことだった。
どれだけコミュニケーション能力に優れていようとも、容姿まで優れていなければ対話相手として満足されない。パーティー会場ではいつもそう。化粧を覚えるのは、社交場を知ることにも繋がっていた。
だから、これは、必要なことだ。
唇を合わせ、今しがた塗った淡いピンクのリップのフタを閉める。
「か……かわい、いかな」
切りそろえた前髪を整えて、咳払いをする。
窓辺に寄る午後の日差しのせいか、赤らむ頬が血色を良くしてくれている、気がする。何かと色白でいいな、とか、オススメのファンデを教えて、とか。言われ慣れた言葉を思い出すたび、脳裏をよぎる誰かの声が、いつもの私を狂わせる。
『高遠なら絶対似合うって思うけどな』
カタログを見せられて、遠慮するばかりだった私に、ふと肩越しにかけられた言葉。
いつも、いつでも褒め称えられ慣れていた耳に不思議と違う言葉として届いた彼の声音は、定期的に脳裏をよぎり、胸の奥を揺らす。
「似合ってる? 似合ってる……よね?」
人払いをして誰もいなくなった部屋の中、独りごちる声はなぜだか羞恥をかき立てる。
高校生になって、化粧はいくらでもしてきた。
社交場に出るために、プロのメイクアップを受けたこともある。
数百円のリップひとつではない。髪も、眉毛も、睫毛も、頬に――誰にだって褒められる、それなりにかわいい自分がいることも自覚している。
――でも。
「もう……わかんないよ」
確かめずにはいらない。
かといって、家の者に聞くことなんてできない。
たったリップひとつ。
そう。
たったリップひとつなのに、今ではもう自分一人だけでは判断できない。
なぜだろう。
なぜ、なんだろう。
彼にもう一度似合うと言ってもらわなければ、わからなくなるなんて――
❒
月曜日が来ると、ちょっとだけ憂鬱になる。
学校がいやだとか、友達に会いたくないという理由じゃない。
単純に、みんなに会うための化粧が決まらないのだ。
「お嬢さま、お時間が……」
「わ、わかってますのでっ、ちょ……ちょっとだけ、待っててくれますか?」
「あと五分でよろしいですか?」
「大丈夫ですっ!」
急かす執事の加藤さんに、手だけは大急ぎで動かし、今日の私を創りあげる。
彼に褒められた日の顔の形。
切りそろえた前髪はコテとスプレーで綺麗に固めて、眉毛は若干細め、睫毛は上げて、頬紅は少し。リップはそろそろ買い換えどきなのに、あの期間限定色はもう店頭にもネットにもないから困ってしまった。
はぁ……。
「お嬢さま」
「はいっ、もう終わりました!」
最後にもう一度テーブルの上の置き鏡を覗いて、私は笑顔を作る。
今日もかわいい。かわいいはず。かわいいんだ。
だから、大丈夫。
❒
「おはよーっ、高遠さん!」
「お、おはようございます。
「高遠さん、おはよう」
「おはようございます、
元気に話しかけてくれる友達に、私は挨拶をする。
峰近さん、坂井さん、
みんな、みんな友達だ。
窮屈な大人の階級社会にいるよりも、一緒の制服を着て、等身大の会話ができるのはとても特別で、大事なことだった。
これが普通だよって言ってくれる人はいても、私には特別で、ここに限られた世界だ。
HRが始まる一五分前。
続々と登校してくるクラスメイトに挨拶しながら、私は鞄を降ろす。
彼が登校するのはもう少し先だ。その前にちょっとだけお化粧を直そうか迷う。
「なんか今日、気合い入ってない? 高遠さん」
「そ、そうですか? いえ、本当はちょっと今日はどうしようかわからなくなって、迷ってるうちに厚くなっちゃったかなって思うんですけど」
「ううん、それもかわいいっ。めちゃいいと思う!」
褒めてくれる峰近さんに、うんうん、と自慢のポニーテールを振って同意する酒井さん。
そうだろうか。そうだとも。
出発する前はかわいかったと思うし、今日も大丈夫だ。
「おはよ、高遠」
「ひ、ひゃいっ!?」
へ、変な声が出ちゃった……。
他人事だと思ってにへらと笑う二人を前に、私は慌てて振り返る。
「ご、ごめんなさいっ、突然後ろから声をかけられたので……あのっ」
「いやごめん。俺も悪かったよ。今度はちゃんと目を見て言うわ」
「いえいえっ、こちらこそごめんなさい!」
そう言って頭を下げ、私はこほん、と仕切り直す。
「改めて、おはようございます。
「ああ、おはよ」
律儀にしすぎたのか、口角をちょっとだけ上げて笑う佐藤くんは、私の隣に腰を下ろす。
私の席は、教室を前入口から入ってひとつ目。その後ろが峰近さんと、酒井さん。
そして隣が佐藤くん、佐藤
「今日は早いじゃん、佐藤。何かあったの?」
峰近さんは男女問わず仲がいい。
佐藤くんにも積極的に話すけれど、どうしてかいつも私をチラ見するクセがあって、ちょっとだけ恥ずかしくなる。
佐藤くんは、寝癖っぽい後頭部を少しだけ掻くと、もったいつけて口を開く。
「上の姉が朝からうるさいから先に出てきたんだよ」
「あー、
「そう。最近やけにヒステリックっていうか、なんていうか」
「彼氏と別れたんじゃないの?」
「あー……」
と何やら心当たりがあるように、佐藤くんは席に着くと机に肘をついた。
「そういや、昨日の夜中からうるさかったかもしんねえ……」
「絶対それだ! それだよ、またダメ男にでも引っかかったんだ、加美姉懲りないねぇ」
「そうなのか……? まぁ、いつものことだしどうでもいいけどさ」
「そういうのに高遠さんは引っかかっちゃダメだよ? 特にこいつとこいつみたいなの!」
指さすのは、佐々木くんと、佐藤くん。
二人ともぎょっとした顔を峰近さんに向けるけれど、また始まったとばかりに肩をすくめている。
峰近さんは、佐々木くんと、佐藤くんの幼稚園からの幼なじみだという。
ちょっとだけ羨ましい気持ちはあるけれど、そういう幼なじみ、みたいな関係の人は高遠家の関係でも何人かいた。パーティーで挨拶を交わしたぐらいだからどうということはないものの、それ以降はあまり会う機会はなく月日は経っているし、それぞれが地方にいるからそもそも会いにくい。
お祖父さまにお願いすればできるだろうけれど、そこまでの足労をかけてまで会うような間柄でもないなと思うと、仲がいいのはやっぱり羨ましい気がした。
「あはは……そう、ですね」
「わかった? ダメだよ、佐藤も佐々木もちゃんと場を弁えること!」
「そんな、弁えろなんてっ」
おこがましいことを、と両手を振っても、峰近さんの口勢は止まらない。
「だって高遠さんはお嬢さまじゃん! お嬢さまは、変な輩からちゃんと守らないと!」
「変な輩ってお前な……」
「ほんとのことでしょ? 何よ、このやさぐれ末弟!」
「ま、まあまあっ」
そう言ってるうちに、始業の鐘が鳴った。
いがみ合いそうになる峰近さんと佐藤くんを仲裁しつつ、私はHR後に必要になる一時間目の化学の教科書を鞄から探す。
それにしても、胸を張って言ってくれる峰近さんの言葉は、とても嬉しい。
とても嬉しいけれど、やっぱり壁があると思って悲しくなるのは、ダメなことだろうか。
他人の優しさは、時折チクチクと棘となって肌を刺す。
それが善意であれ悪意であれ、私を慮ってくれる言葉のすべては、家柄に通じている。高遠家の者には粗相をしてはいけないという、暗黙の了解的なものが、この二―二の教室には浸透しているようだった。
だから、考えてみればみんなが私に挨拶をしてくれるのは、そういうことなのだ。
私が高遠の人間だから。
何かあってからでは遅いから、最初から礼儀正しくしよう、という。
その点では包み隠さずにいてくれる峰近さんは、他の取り入ってこようとする大人と違ってとても嬉しい。言葉に裏表はないし――ちょっとだけ意識しているとこはあるかもしれないけれど――、いつもみんなと変わらない対応をしてくれる。
だから、友達は大切にしたい。
私が家柄に縛られていても、ここで出来た友達は一生大事にしたい。
「……あ、あれ?」
と、思った矢先だった。
鞄の中身を全部出しても、教科書が見つからない。
なんでだろう――
「どうかしたか?」
「あ、いえ……」
先生が入ってきて、HRが始まる。
教壇の先生が出席を取り始める中で、私はこちらを見る佐藤くんに困りごとを白状する。
「実は……化学の教科書が見つからなくて」
「忘れたってこと?」
「た、多分……」
今朝はちゃんと入れたような気がしたのに……。
「あ、現代文って今日の時間割じゃないよ、高遠さん」
「え」
後ろから、酒井さんがこそっと耳打ちしてくれる。
たしかに鞄の中には現代文の教科書が入っていた。どういうことだろう。
現代文の教科書と、化学の教科書を間違えたってこと?
「ははーん、天下の高遠さんでも天然発揮しちゃうときがあるってことね?」
「やっ、お……お恥ずかしい限りですけど」
割って入る峰近さんが、嬉しそうににまにましている。
なんでそんなに楽しそうなのかはさておき、これでは授業が受けられない。
どうしようか迷っているうちに点呼が終わり、今日の連絡も伝達し終えたところで、何やら峰近さんに耳打ちされていた佐藤くんはずずずっ、とすぐに席を動かした。
「さ、佐藤くん?」
「だって、仕方ないだろ?」
いきなり机がくっついて、普段よりも近い距離に腰を下ろす佐藤くんは、自分の教科書を机の境に置いて、「ほら」と目で訴えてくる。
「一緒に見るぐらいなら、いいからさ」
そ、そうは言ってもこれは……。
顔が火照るのを感じる。
今日はお化粧が厚くなって上手くいかなかった気もするし、変な声も聞かれてしまったし、教科書も忘れてしまうし――踏んだり蹴ったりな日だというのに。
肩をとんとんと叩かれて後ろを振り返ると、なぜか峰近さんと酒井さんが笑顔だった。
え、えぇ……?
「じゃ、じゃあ……そのお言葉に甘えて……」
ありがとうございます、と小さくなっていく声で私は佐藤くんに頭を下げる。
なんだか迷惑をかけてばっかりで、申し訳ない。
何かお礼ができるならしたいところだけれど、私に返せるものはとても少ない。
「いいよ、そんなに謝んなくても」
「でも……」
「友達って、そういうもんじゃないだろ?」
「佐藤くん……」
後ろで、なぜか峰近さんがあちゃーと額を打つ音が聞こえた。
私の知らない遊びをしているのかな……?
とはいえ、そう言って前を向いてしまった佐藤くんの優しさに甘えて、こちらは間違えなかった化学のノートを開いて、筆記具を出す。
「じゃ、じゃあわかないところは私がフォローしますのでっ」
「お、おう。助かる」
返事をするときだけはこっちを向いてくれる佐藤くんは正直者で、優しい人だ。
だから、自然と笑みが漏れてしまう。
嬉しくてつい――そうすると、私をからかうように後ろの二人が写真を撮ってくるので、これ以上のサービスはしないよう、前を向く。
嬉しい。
そう感じてしまうのは、きっと最初に勇気をくれたのが佐藤くんだったからだろう。
オシャレを始めてみようという、勇気。
大人たちに好かれようとする小綺麗なものではなくて、等身大のファッションだ。
私が、私のまま。
子供でいていいことを認めてくれたその言葉に、私も応えたかった。
だからか、自信がなくとも、思ってしまう。
今日の私は綺麗になれてるかな。
前よりも、かわいいって思ってくれるかな。
「ほら、授業始めんぞー」
私の顔は、きっとちょっとだけ間抜けな顔をしていただろう。
でも、仕方ないじゃないか。
この気持ちに気づいてしまったから。
❒
「それでね、今日ね」
放課後。
私は教科書を忘れてしまったこと、隣の佐藤くんにカバーしてもらったことを迎えに来た執事の加藤さんの車の中で話す。
楽しい出来事はすぐに話したかった。
佐藤くんの魅力を、友達に言うのは恥ずかしいけれど、気心の知れる人に共有したかった。
「お嬢さま、そのことで奥様からお話があるそうです」
「え……っと、そのことって?」
「その、佐藤将十様の件についてです」
車が停まる。
いつの間にか家の前に着いていたのかと思ったが、実際は知らないお屋敷の前だった。
「ねえ、ここはどこですか?」
「詳細は奥さまからお話になるそうですが」
簡潔に申しますと、と執事の加藤さんは言う。
「お嬢さまのお見合い相手が決まった、ということです」
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