天井の神と地上の悪魔
朝からラジオやテレビ、ネットでニュースが飛び交っていた。
世界大戦が起こっても、これほどまでの大騒ぎになるかどうかさえもわからないほどに、世の中が騒いでいた。
今だけは、どんな事件もどんな事柄も、霞んで見えるだろう。
愛を語らう恋人たちさえも、自らの行為を忘れてしまうほどの大事件。
強盗や犯罪者たちが、犯行後に逃げ出すのさえも忘れてしまうほどの大事件。
死んだはずの人間が蘇ってしまうほどの大事件さえも掠れてしまうほどの大事件が、今この時に発生していた。
月と地球の重力均衡点を通り抜けて、巨大な惑星が、地球と衝突しつつあった。
あと3時間程度で、地球を破壊するほどの大きさの惑星が、地球に激突してしまうのだ。
地球と激突する天体の質量は、月の3分の2。
かすっただけでも地球は大変な天変地異に見舞われてしまう。
それが、完全に衝突するコースをとっていた。
地上はパニックに見舞われていた。
慌てる者、暴動を起こす者、恋人や愛する人との一時を過ごそうとする者、様々な人間模様が、地上には起こっていた。
それと同時に、天変地異もすさまじいものだった。
重力に惹かれて海水や空気どころか、地球そのものが、水の入った風船のようにいびつに歪み、プレートは割れて、マグマがあちらこちらから吹き出していた。
轟音とともに暴風も荒れ狂い、雷が鳴り響いた。
雷鳴は稲光も招き、電気の渦が大気を駆け巡った。
#園崎 八子__そのざき やこ__#は天変地異を避けるべく、コンクリートの建物の中に隠れていた。
恋人と会いたくても、彼女は天涯孤独、親もいなければ、姉妹とも、とっくに死に別れを済ましていた。
28になるが、いまだに彼氏を作る気にも成れずに、仕事場と自宅を行き来するだけの人生だった。
ただ、彼女は、ある世界ではほんの少し有名な存在だった。
ほんの趣味の手慰みではじめたネット小説の世界では、常にトップ10に入るだけの人気を有する存在となっていた。
彼女は今日は会社が休みなので、喫茶店で小説でも書こうかと、中古で購入したノートパソコンを脇に抱いて、出かけたところだった。
電車へ乗って出かけた先の駅を出たところで、突然警報が鳴った。
寸前まで、人類は、惑星の接近には気が付かなかった。
どういう仕組みなのか、人類に一切関知される事無く、惑星は突如として、地球の上空に現れたのだ。
そして、重力崩壊が突然おこり、天変地異が突然、いきなり人類を襲ったのだ。
突然の事に人類は慌てふためいたが、同じく巻き込まれた園崎八子は、意外と落ち着いた対応を取れていた。
八子は取りあえず、身を守ろうと、近くの鉄筋の建物に身を隠す事にした。
それから、ダメかもしれないと思ったが、パソコンやスマートフォンで、ネットにつないでみた。
案の定というかやはり、アクセス過多でつながらなかった。
園崎八子は、ネットでも情報収集を諦めて、逃げ惑ったり慌てふためいている人々を尻目に、手近にあった自販機から、缶コーヒーを購入して飲み始めた。
なぜだか、この事態でも、彼女の心は落ち着いていた。
一度は自殺を決意した身である。
矢でも鉄砲でも持ってこい。
彼女の心境だった。
恋人に手ひどく振られ、薬物に、アルコール中毒。
地獄の2年から脱却して、やっと社会復帰できる、そう思った第1日目がこれである。
もうどうにでもなれという気持ちだった。
故にもう、取り乱したりする事は無かった。
恐怖心はない。
自分の人生はそれまでなのだと思った時に、ほんの少しだけ、後悔が生じていた。
あの時ああやっていればとか、そんなちんけな考えでは無かった。
なぜあの時、あの男を殺して、自分も死ななかったのかという後悔が、フツフツと、彼女の心に湧き上がっていた。
人生の最後、一番憎い相手を殺しておけなかったという後悔だけが、彼女の脳裏にうかんだ。
殺したくても、元恋人の現在の住所さえも確認できていない。
彼は、確か両親が亡くなっていて、実家も無かったはずである。
分かれた後に引っ越してしまったらしく、2度と会う事も出来なかった。
また、会う気も無かった。
だが、今この期におよんで、心から会いたかった。
居間ならば殺せる。
わたしの願望、いや、切望か。
そう思った時に、光が辺りを包んだ。
赤でも青でもない、色のない、ただ”光”と湯部べきものが、辺りを包み、彼女を包み込んだ。
なんの感覚も無くなって、エレベーターとは違う感覚で、身体に感じる重力も無く、スーッと、景色だけが眼下へと流れてゆき、上体が上へと上がってゆく。
なんだろうこの感覚。
そして数瞬も立たないうちに、どこかへ招き寄せられていた。
まわりに人の気配がしたので、見回してみると、その人の気配達が光り輝いて見えた。
そして、辺りだけが暗かった。
なんだここは?
感覚が、まったくいつものものと違っていた。
光り輝く人たちは、視界に映るかぎり、12人いた。
さらに、自身の身体も輝いていたので、自分を入れて13人。
何か意味があるのかもしれないこの数字は、園崎八子には不吉な数字と言うくらいしか思いつかなかった。
-やっと揃ったね、最後の一人が-
頭の中に声が響いた。
誰?
-わたしが誰か、興味があるかね?-
大して興味は無かった。
だが、声は続けた。
-君たちのよく知る言葉で、”神”とでも名乗っておこうか-
神とは、また、大袈裟な。
どうせ催眠術の類いだろう。
園崎八子はそう思いながらも、この声に反抗できなかった。
-わたしとゲームをしないかい?君たちが勝ったら、この地球を救ってあげる。そして、君たちの願いを一つだけ叶えてあげるよー
八子はその誘いにも、なにも感じなかった。
嘘つきの、催眠術師、そう思っていた。
誰かの術にはまったのだ。
彼女はそう思っていた。
-断る事は出来ないよ-
-もうゲームは、始まっている-
-たのしもうよ-
次の瞬間、またスーッと地上に戻ったようである。
景色が、見覚えのあるものに変わっていた。
違ったのは、今まで地球を襲っていた、天変地異の痕跡が消えていた事だ。
八子のいるビルの窓から見える景色が、天変地異など無かったというような、これまでのような平穏なものに戻っていた。
どう言う事なのか、八子は混乱した。
そして、先ほどの夢中の声が、本当に神なのかと思えてきた。
それと同時に、薬物依存、アルコール依存の時に見た幻覚が戻ってきたのかとふるえてしまった。
どちらの方が正しいのか、八子には判断しかねた。
神と名乗るヤツは、ゲームと言っておきながら、ルールすら説明してくれなかった。
やはりアレは夢だったのか?
地球滅亡の天変地異の痕跡すらも残っていないのだから、その天変地異そのものが夢だったのだろうか?
八子の脳裏には、違った考えも浮かんでいた。
神と言ったヤツの言い分を信じる事が出来るのではないかといった思いである。
ルールすら説明しなかったというのは、ルールにならない、まったく違ったゲームを用意しているのではないかと思えたからだ。
あそこには、確認したかぎりでは、13人の痕跡があった。
つまり、参加プレイヤーは、八子の他に13人が居た。
もちろん影だけだったから、本当にいたのかすら解らないが、少なくとも、気配は感じられていた。
八子は自分の感覚を、少しは信じてみる事にした。
あの神は本当にいた。
そう信じた時に、八子は目の前で起こっていた事象を、信じてみる事にした。
そして、今、天変地異が収まったこの状態を目の当たりにした時に、本当に、神の意図を理解した気がした。
つまり、神は、人類を試したいのではないか、そう思えた。
ただ、その実検に、自分のような歪んだ人生を送ってきた人物が参加させられる、その意味が、少しだけわからなかった。
歪んでいるから、だから、試されたのか?
その可能性だってあったが、園崎八子は、否定したかった。
それは八子の正気の部分でもあったし、八子自身、そのような特別な事態にかかわれるほど、特殊なものが有るなんて、思ってもいなかったからだ。
そして何よりも、それは、大変な重荷だった。
園崎八子は、考えていても仕方がないので、隠れようと思っていたビルを出て、通りを歩き始めた。
いつ、あの神が気まぐれで、自分の世界を壊しにかかってくるか、そういった心配はあったが、兎に角通りに出て、太陽のエネルギーを浴びたかった、
神の啓示を受けたのは、その園崎八子だけでは無かった。
あのときは、13人の人影があった。
つまり、13人はいたという事だ。
そのうちの一人は、中国人の、司馬という人物だった。
この人物は、八子の住む日本にいた。
福祉関係の仕事の勉強のために、日本に来ていた。
司馬は、神と名乗る者の召集があった時は、介護施設で、実習をしていた。
彼がなぜ日本に来ていたのかというと、介護の学習のためと言うよりも、日本人の毒牙にかかって、凌辱のかぎりを受けて、自殺してしまった妹の復讐のためでもあった。
日本人自体にはそれほど恨みや憎しみもなかった。
むしろ、中国にいた時も、日本人との関係は良好だった。
日本に来てからも、それは続いていた。
憎いのは、妹を自殺に追い込んだ日本人だけだった。
だから、介護の実習も続けられた。
司馬にはそれだけの理解力があったし、それだけの考えもあった。
それ故に、神と名乗るものの申し出は、魅力的だった。
ゲームに勝てば、望みは何でも叶うのだ。
つまり、自分の妹の復讐も、それで完遂できるのだ。
日本に来て、いくら探しても、妹の敵は、見つける事すら出来なかった。
探偵でも雇わなければ、見つけ出す事は到底無理と諦めかけていた。
そういった所に、この事件で有る。
渡りに船。
取りあえず、神と名乗るものの声に、従ってみても良いのではないだろうか?
司馬はそう思い、自分の寮の片隅で、お酒の入ったコップを傾けた。
司馬にも迷いはあった。
神と名乗る者が、ルール自体を提示していない。
ゲームが始まっていると言っていたから、もうどこかで何かが動き始めているのだろう。
ゲームと言いつつルールがない。
神というのは、信用できないな。
司馬はそう思っていた。
信用できない相手だから、勝利の時に得られるものも、本当に得られるかどうかもわからない。
ただ、天変地異もおさめてしまうような力の持ち主であるから、それだけが、勝利者に提示される、望みを何でも叶えてくれるという事を信用させてくれる。
司馬はこれに賭けるしかなかった。
妹を辱めて殺してしまった日本人を探し出すには、この条件を利用するしかない。
そう思い詰めていた。
何をすれば良いのか、それがわかれば!
司馬は、神というヤツを、心の中で呼び出してみた。
答えはあった。
神は彼の問いかけに答えるように、メッセージを送ってきた。
だが、おそらくそれは、参加者全員に向けての一方的な通知だった。
ーゲームは13回、人数分の回数しか行わない。誰の手助けもしてはならないし、また、得る事も出来ないだろう。一人一人が与えられた問題を解き、最後に一人でも残ったら、君たちの勝利だ。約束通りに報酬を払おうー
ーゲームの内容は、一人一人違ったものなので、情報を共有しようとしても無駄だよ、さらに、ゲームクリアに失敗したら、死んでしまう。そして、ゲームを拒否して逃げ出したりしても、死の帳が、君たちを迎えに行くよ。生き残るには、ゲームクリアを目指しましょう。では、頑張ってくださいー
神と名乗るものは、気軽な調子で言ってのけたが、とても怖ろしい内容だった。
ゲームを拒否しても死、ゲームに負けても死、クリアするしか道はないが、一人も生き残らなければ、人類の滅亡なのだ。
自分が死んでしまったら、人類なんて滅亡しても関係がない。
司馬はそう思おうとしたが、今まで自分がやってきた事や、人生がまるきり遺せないのは、さすがに寂しい。
自分の人生がどうであったかなど、自分が良ければ良いという者も居るが、それでも何か生きた痕跡が残っているのとそうでないのとでは、死んでゆく時に、心の違いがあるのだろうと、そう思った。
園崎八子や、他のメンバーも、多少なりと、そんな考えを持ったようである。
意思疎通は得られなかったが、皆が、神の提示に、覚悟を決めたように感じられた。
司馬も、覚悟を決めなければならなかった。
復讐のためにも、そう思った。
園崎八子は十分納得の内容だと思って、早速準備に入った。
食料品を、携行できる保存食品を買い出しに、スーパーへはしった。
それとついでに、武器になりそうな小型の刃物や、ハンマー、バールなども手元に用意した。
バッグに詰め込んで、戦闘準備を、着々と整えていった。
司馬も、動かなければと、食料や、武器を購入した。
だが、今後、現金もいるだろうから、貯金は少し残す事にした。
この町はそんなに大きくない。
しかも田舎の町であるから、人口だって少ない。
園崎八子は、神からの指示の前に、出来るだけの事をしておこうと思って、家で戦闘準備をしていた。
食料を10日分揃えて、武器も用意した。
武器と言っても、銃は買えないから、包丁やナイフを武器とした。
「こんな事やって、役に立つのかよ」
八子はそんな思いを吐き出したが、やり始めたのは自分である。
さらに、八子はこのゲームのルールに穴があるのではと思い始めた。
ルールの穴。
このゲームは、プレイヤー同士の連絡は禁じているが、仲間を増やすなとは、一言も言っていない。
八子の部屋は、本当になにもない部屋だった。
隅に机があり、その脇にカラーボックスが2つあった。
そのボックスの中には、右側のは勉強の本、左側にはマンガや小説が置かれていた。
机の上には、この間図書館で借りてきた本が3冊置いてあった。
八子は読書をする方の人間である。
と言うよりも、本が友達の、少しリア充から逸れた人間であった。
それでも唯一と言える友達がいた。
その友達に連絡を取ってみる事に決めた。
「よう、咲子、元気?」
登録してあったアドレス表をタップして、電話をかけたのだ。
「おひさ」
友達で、同級生、違うクラスに行ってしまったので、疎遠になってしまったが、八子の大親友である。
「オモシレー遊びがあるんだけど、参加して見る?」
八子は誘う。
まだ本当のところは言わない。
「どんな遊び?」
咲子は尋ねてきた。
どう答えようか?
考えた拗ねに、ある程度教える事にした。
「神って名乗るヤツがいてさ、そいつがゲームをやろうって誘ってきたんだけれど、それが、ルールはまだわかんないけれど、勝ったら何でも望みを叶えてくれるんだってさ」
八子が言うと、咲子は声を出して笑った。
「なんだよそれ!新手のナンパじゃね?」
咲子が言うと、本当にそんなような気になってしまった。
「参加する?」
八子の問いかけに、咲子は「面白そう、参加しよっかな」と行ってくれた。
「参加するならば、いつ会える?」
「明日にでも行こっか?」
「そうしてくれる?」
仲間一人確保!
八子はこの調子で、仲間を増やせば、有利に働くのでは無いかと思った。
「もう二人はほしい所だな」
八子は心当たりに次々と、電話をかけた。
5人に電話をかけて、3人に断られた。
一人は意味不明のゲームを疑い、もう一人はつまんね~と言って断ってきた。
そしてもう一人、中山洋子はと言うと、その神というのは、偽物だから、命がけの怖ろしい戦いになるから、ぬけられるものなら抜け出せと行って、園崎八子ををいさめた。
八子はその忠告に、なかば恐れを抱いたが、それでもゲームから降りる気になれなかった。
園崎八子は、有り難う考えとくといって、電話を切った。
残りの二人は、喜々として、参加を伝えてきた。
八子は電話を切って、これ以上人を誘うかどうか迷った。
咲子は八子の言葉をまるきり信じたわけではなかった。
咲子は、このゲームというものを、たんなるイベントだと思っていた。
咲子には、天変地異のぴおくはなくなってしまっていた。
彼女の脳裏には、数時間前のあの光景は残っていなかった。
神と名乗る者が、消し去ってしまったのだ。
とても信じられない事だけれども、そんな事が出来てしまうのが、神を名乗るヤツの力だった・
咲子は、本当は、八子の話しを、どうしたものかと考えていた。
信じ切れていなかった。
それでも、咲子にとって八子は、親友だったので、話しだけでも信じている振りをした。
そんな話し信じられる方がおかしいのだ。
咲子は八子の言う事を、そのまま信じてしまうほどには、馬鹿ではなかった。
それでも手近にあった包丁を手にして、保存食になりそうな食品をリュックに入れて、八子の家を目指した。
移動には、自慢の原付を使って、途中で、銀行のATMから、現金を引き出した。
彼女と八子の視界に、変化が生じたのは、咲子がコンビニのATMから現金を引き下ろした直後だった。
視界に数字が表示されて、カウントダウンが始まった。
おそらくタイマーだろう事は、カウントダウンしている事で、容易に想像できた。
120からカウントダウンが始まり、おそらく0になると、何かが始まるのだろう。
咲子は八子の元へ急いだ。
咲子と八子の視界に、同じ表示がなされたと言う事は、彼女らが、仲間と認識されたと言う事だろう。
咲子は眼前にこのような表示がされた事で、八子の言った事を受け入れる気になった。
本当に、神というヤツがいるのかもしれない、そう思えて、包丁だけじゃ心許なくなってしまい、神と言えばあいつだろうと、思い当たった人物を仲間に引き入れるために、八子の家に行く前に寄り道をした。
八子は、旧友から、電話を受けていた。
「八子、何か大事件に巻き込まれているようだけれど」
相手は電話がつながると同時に、いきなり切り出した。
相手の名前は#鳴神 斜陽__なるかみ しゃよう__#、幼馴染みで、咲子と共通の友達である。
「咲子が久しぶりに訪ねてくるみたいだけれど、わたしに何か用かしら」
八子はその言葉を聞いて、真っ先にコイツに連絡を取っておくべきだったと思い至り、咲子の機転に感謝した。
八子は、鳴神斜陽に、事の全てを語った。
鳴神斜陽は神社の娘で、巫女もやっていた。そして、何よりも今回のような事件には頼りになりそうな能力があった。
彼女は霊的な感覚が、非常に優れていた。
占いがよく当たると、友人達の間でも評判だったが、バイトではじめた霊感占いも、かなりの人気だった。
そんな凄腕を忘れていたなんて、あたしも焼きが回ったな、などと、八子は思った。
そして本当に、咲子を仲間に入れて正解だったなと、そうも思った。
斜陽は仲間に入ってくれる事を承知して、咲子が来るから、と、電話を切った。
咲子は、鳴神斜陽の住んでいる、神社の前にいた。
鳴神神社と呼ばれるところで、昔からの親友は、暮らしていた。
たまにみこの格好をしているが、今日は胴だろうか。
咲子が斜陽の家の玄関前に立った時には、既に斜陽は準備を終えていて、八子のところへ急ごうと言って、咲子の手を引いた。
斜陽は、巫女の姿ではなかった。
ピンクのジャージに、ピンクのスニーカーという出で立ちだった。
スタイルは良いが、セクシーという訳ではなく、スレンダーな美人さんだった。
長い髪は、染めたわけではないが、少し栗毛色に近かった。
「よう、色白の美人さん」
咲子が言った。
対する咲子は、色黒で、こちらもスレンダーな美人である。
髪は染めていなかったし、本人はそんなことをしようとは思わなかった。
綺麗な黒髪で、ショートにカットされていた。
よく手入れされている髪だった。
斜陽の方は、美人だが、身嗜みは不得意な様子だった。
「久しぶりね」
斜陽は挨拶も早々に、八子の元へと急いだ。
道すがら、咲子から事情を聞いた。
咲子自身、それほど詳しくはなかったものだから、八子も思ったほどに情報は得られなかった。
仕方ないなと思いつつも、状況を判断し、自身の霊感も駆使して、相手を推理してみた。
本当に、神などと言う存在がいるのか?
まあこれは、斜陽にとっては当たり前の事だった。
なぜならば、彼女は神霊をいつも間近に感じていたし、その存在を信じてもいた。
だがこれは、彼女の信じている神霊とは違っているようだった。
彼女の神は、こんなゲームは仕掛けてこない。
斜陽はやっと、自分の視界にも変な表示があらわれたのを知って、彼女の知っている神とは違う、力のある存在がいる事だけはわかった。
「ね、斜陽はどう思う?今回のこれ」
咲子も似たような事を考えていたのかもしれない。
「どう思うって言われても」
「あんた、霊感あるジャンか」
「これは、さすがにわたしの知る神霊の世界とは、かなり違うよ」
咲子の言葉に、斜陽もどう答えて良いのか、咄嗟には答えが出なかった。
斜陽自身が事態をのみ込めていないのだ。
咲子は続けた。
「わたしは、天変地異ににまわれて、地球が崩壊して行く夢を見ていたの」
斜陽も実はそのようなものを見ていた感覚があった。
咲子も?
「これは何かその夢に関係がある気がするの」
「?」
「これは、どう言う事なのかな」
斜陽にもわかろうはずはなかった。
だが、何か言ってやらないと、心細そうな咲子が、崩れそうに見えた。
彼女は活発そうな容姿でも、かなり弱いところがある。
そう思う斜陽だって、決して鉄の心臓ではないから、自身も混乱して判断を誤らないようにしなければと思った。
斜陽は何も答える事が出来なかった。
空赤く染まり始めた頃に、八子の家には4人の女子が集まっていた。
八子の狭い部屋は、人の体温で、室温が上がっていた。
八子の部屋には物は殆どなかったが、座布団や椅子もないのには、さすがに集まった人たちは辟易とした。
園崎八子の他には、佐竹咲子、鳴神斜陽、小林櫻子、新塚よしみ、この4人が八子の部屋に集まった顔ぶれである。
5人は小学生時代からの同級生、さらには幼馴染で、親友の契を結んだ中であった。
その割には最近は、離れてしまって、会うことも少なくなってしまっていた。
それでもこうして集まってくれたのだから、友情の賜物か?
本当にそれだけだとは、声をかけた当人である八子も、思ってはいなかった。
こいつらは冒険が目的なのだ。
八子と同じような性格であるから、正常な世界に馴染めない人種ではある。
鳴神斜陽は霊感少女であるし、佐竹咲子は極度の推理オタクで、さらには剣道を得意とする。
小林櫻子は柔道家の娘、新塚よしみは、霊能者ではあるが、霊媒体質である。
それに、園崎八子、彼女は実践空手の全国大会覇者である。
八子は常々技を実践で試したいと思っていたから、今回のようなシチュエーションでは、アクション映画的な展開を、心待ちに期待していた。
ゲームがどのようなものか、始まってみないとわからないが、得体の知れない神と名乗る相手であるから、命がけの戦いになることも、想像できる。
八子の目的は他にもあったが、心躍る展開を期待していた。
「八子、本当に、神の目的はわからないの?」
新塚よしみは、自分で持ってきた、500ミリのペットボトル飲料を、他の者たちにも配ってから、蓋を取り、一口飲んだ。
「神って野郎はどんなやつは一体何を考えているんだろうね」
よしみから受け取ったペットボトル飲料を持て余しながら、小林櫻子が言う。
「さあな。あたしの知るのは、さっきの説明通りの内容だけだよ」
園崎八子も、ペットボトルを受け取って、口にした。
「そのような力の持ち主なのに、視界にこんな表示をさせられる力の持ち主なのに、霊的なものは感じられない」
「霊格が違うのかな」
鳴神斜陽は神に対する自分なりの考えを披露するとともに、同じような能力を持つ新塚よしみの方へそれとなく意見を求めて視線を送った。
「そうね」
よしみも同じことを感じていたらしく、頷いてみせた。
「情報が少なすぎるわね。神とやらがどういったゲームを仕掛けてくるのか、予測すら出来ない。だから、準備も何処までやれば良いのか見当もつかない」
佐竹咲子が文句を言いながら、ペットボトルの清涼飲料を飲み込む。
分析屋の咲子も、分析するためのデータがなければ本領が発揮できない。
「どうするかな」
個性的なメンバーの意見を聞きながら、呼び集めた本人である園崎八子は、意見をまとめたり、リーダーシップを振りかざしたりすることもなく、部屋の窓から彼方を眺めた。
佐竹咲子、鳴神斜陽、小林櫻子、新塚よしみ、園崎八子の5人は、八子の部屋で黙り込んでしまった。
陽気に話しを交わすような雰囲気ではなかった。
重苦しい空気がながれはじめて、その状態に耐えきれなくなった5人は、何か話さなければ行けないと思い、一斉に口火を切ろうと思っては、黙り込んでしまうという状態が続いた。
佐竹咲子が褐色の肌を惜しげもなく見せている、丈の短いスカート下の太股を、座り心地悪そうにモジモジと動かしているのをみて、八子はなんだか笑い出したくなった。
こんな時に非常識とか思わない。
まだ事態がよくのみ込めていない。
だから、本当に何がどういったことなのかは、ゲームが開始されなければ、何もわからないのだ。
八子は、元々格闘技などを嗜む性格なので、男勝りというか、度胸の据わったところがある。
開き直りの気持ちがはたらいて、かえって思考が安定してきたのかもしれない。
「神ってヤツは何をやらせたいんだろうね?」新塚よしみが言った。
「降ろしてみるって訳にもいかないしね」と、鳴神斜陽が受ける。
降霊の出来るよしみに、神を降ろして直接訪ねようと言うのだが、さすがにそれは危険だと、鳴神も感じていた。
斜陽もよしみも霊能者であるから、その辺りの危険は、充分に理解していた。
「相手が神じゃ、柔道の技も使えないか」と、今度は小林櫻子が、溜息交じりに言った。
「そうでもないわよ、わたし、気を使うコツを教わったの」佐竹咲子の番で有る。彼女は剣道かなのだが、気などに非常に興味があるようなのだ。
「そうだな、でも、当面の敵は、同じ人間かもな」八子は、ニヤリと笑って、手の指を組み合わせた。
「ヤル気満々?」咲子は、こちらも血色の良い顔色で、薄く笑顔である。
「ああ!悪霊退治は武道家の仕事だろう!」言ってから、八子は全員の顔を見回した。
八子の自信に引きずられてか、全員の士気が上がったように見えた。
なんだか闘争を心待ちにしているようにも思える少女達は、その辺のひ弱な男子よりも頼もしく見えた。
「八子、わたし達、何が来ても勝てると思う?」鳴神斜陽が気弱な問いかけをしても、八子は頷いて見せた。
「こんな事はじめる野郎だぜ、多分ろくでもない暴力の世界かもな。そう思って、お前達を呼んだんだよ」
「そうね、みんな、そういう世界に憧れていたもんね。でも、死ぬのはごめんよ」斜陽は薄く笑うと、八子の目を見た。
「もちろんだ。全員生きて帰る。当たり前だろ」八子も斜陽を見て、言葉を返した。
「そうだな」咲子や櫻子、よしみも声を揃えて頷いた。
結束が高まったのを確認して、袋菓子などをひらいて、小さなパーティーがひらかれた。
司馬は、中国にいた頃、祖父から武術の手解きを受けていた。
司馬の武術は、気功まで取り入れた、本格的な武術だった。
流派の名前は教えてはもらえなかったが、同じく武術を嗜む仲間達とは一線を画した者である事が、司馬本人にもよくわかっていた。
明らかに違う理論で構成された、オリジナリティー溢れる武術だった。
司馬は、その形を繰り返し練習していた。
イメージで仮想敵を設けて、ひたすら2時間ほど練習をしていた。
身体もだいぶ温まり、汗もしたたり落ちるほどの気持ちの込めように、司馬自身も驚いていた。
日ごろの鬱憤を、ここで晴らそうとでもいうのだろうか。
自分自身の心の内も、司馬にはよくわからなかった。
ただ、日持ちは軽く、身体もよく動いた。
タオルで汗を拭き、水筒の水を飲みながら休憩していると、日差しの中に痩せ細ったTシャツ姿の老人が現れた。
どこから現れたのか、司馬ほどの武道家でも、気配すら感じさせずに、悠悠と懐に入られた。
余程の使い手なのか?それともあまりに気配が弱すぎて、感じ取ることが出来なかったか?
「司馬よ、久しぶりだな」
老人から、以外に若々しい声が発せられた。
その声は、司馬にとって懐かしく、そしてこの時にこそ一番頼もしく聞こえてくる声であった。
司馬の祖父の友人で、祖父と武術をよく一緒に練習していた、司馬の師範の一人だった。
孫と言う名である。
孫は司馬に声をかけると、ゆっくりと顔を上げて、鋭い眼光で司馬を見た。
「何があった?不思議な気配だったが?」
孫は言った。司馬は何の事か、少し考えて、神というヤツのことだろうと納得した。
この孫という老人は、昔から感が強く、そういったものを感じる力を持っていた。
気の修錬の結果と言っているが、元来の感もはたらいているのだろう。
司馬は考えをまとめながら、話してみることにした。
「天変地異が世界を覆っていた時に、神を名乗る者が現れました。そして天変地異を治めて見せて、自分のゲームに参加して、勝利しなければ、地球を滅ぼすと言うのです」
「天変地異自体夢だったのか、今の様子を見る限り自分の記憶を疑ってしまうのですが、落下してくる巨大な隕石を消して見せたり、どうしたら良いのか、わたしには、判断できかねていたのです」
司馬は、ここまで言って、一息ついた。
それを聞いた孫は、頭をかしげて居たが、重々しく口を開いた。
「司馬よ、おそらくその天変地異は本物だよ。わたしはずっと、禍々しい気配に包まれていたのだ。そしてそれは今も続いているのだ。おそらくお前の会った神は、本物かそれに近い力を持った何者かだろう。人が戦って勝てるものではないだろうが、ゲームというなら、勝機はあるだろうな。お前も仲間を作れ、この国の強者を集めよ。さすれば何か糸口が見えるかもしれない」
孫は司馬の手を取って、両手で包んだ。
孫はそう言うと、消えてしまった。
どういう仕組みなのか、司馬には理解できなかったが、孫が幽霊のたぐいでないことだけはわかっていた。
孫は仙道の師でもある。
司馬の祖父は沿い打った修行をしていた。
司馬は孫に、言葉の念を送ってきた。
念話は苦手だったが、孫と連絡を取れるようにしておきたかった。
それに、禍々しい気というのも気になった。
司馬が神と名乗るやつに出会った時は、そのような禍々しさは感じられなかったが、孫が感じたというのであれば、そのような存在なのだろう。
神とは一体何者なのか、司馬にはわからなかったが、勝てるチャンスがあるのだろうか。
孫はゲームならばと言った。
つまりゲームでなければ勝つことは出来ないということか。
それほどに、神は強いのか?
それとも、やはり、人外の存在だから、人間には勝つことが出来ないということだろうか。
司馬はゆっくりと気を巡らせて、身体をリラックスさせてゆく。
気が循環して、力がまんべんなく行き渡る。
構えながら大きく息をし、吐き出して呼吸を整え、そして気合を込めて政権を打ち出す。
孫の返事が頭に鳴り響く。
「神というやつは、とにかくわからん。だが、お前にも倒せるチャンスがあると思う」
「オレに?」
「オレやお前の祖父の言葉を思い出して鍛錬せよ。それから仲間を探せ。お前の仲間はもう来ている。合流せよ」
「オレの仲間?」
「懐かしい奴らだよ」
孫の笑い声が、頭の中に響いた。
オレの仲間?
司馬は懐かしい修行時代を思い出し、まず一人の男の顔を思い出した。
日本の医者で、中国の医学を学んでいた彼の名前は、光と言った。
ひかるではない、こうである。
さらにもう一人の名前と顔が脳裏をよぎる。
ベトナム人の女性兵士のホウ。
そしてさらに、フィリピン人のミゲル。
そして司馬の親友であり、恋人の芳蘭。
孫が送ったイメージなのだろうか?いや、自分が今、この危機にそばにいてほしい、そういった仲間の姿だった。
すでに懐かしい仲間が来ていると言ったが、孫がこのことを予知して、揃えてくれたのだろうか?
だが、どこにいるのだろう?
彼らの居場所など、司馬にはわからなかった。
途方に暮れて、ゆっくりを顔をあげると、懐かしい声の日本語が、司馬に呼びかけてきた。
精悍で筋肉質な、とても医者とは思えない体つきの、司馬と同年代の男の姿があった。
光がにこやかに笑っていた。
「なにかお困りで?」
冗談ぽく言う言葉には、頼もしい気迫がこもっていた。
「每个人都来了(みんな来ているぜ)」
光は中国語で言った。
司馬は見回すと。懐かしい面々と、愛しい恋人の姿を見つけて、歓喜の声を上げた。
皆笑い、司馬を取り囲んで、手を握りあった。
司馬は何度も4人の顔を見回した。
そして力強く頷いて、何度もハグをした。
ホウが痛いと嫌がるまで、司馬はハグを続けたが、余程嬉しかったらしい。
光は思い切り笑った。他の者も司馬の様子に顔をくずし、彼の不安感を少しでも和らげられた事を知った。そして、彼のことを元気付けようと持ち寄った食料で、ちょっとしたパーティーが始まった。
#暢気__のんき__#なものだとは思わない。
今まで師匠が応援をよこしたことなど無かった。
ふらりと訪ねてきては、様子を見ていくだけだったのだが、今回は自分の愛弟子とも言うこの4人に招集をかけたのだ。この4人は司馬を含めて裏の顔を持つ者達である。
人知れずもめ事を解決していく集団に属している。
師匠の孫はその組織のナンバー4である。
組織の全容は、司馬にも他の4人にも知らされては居なかったが、今までやってきた任務の経験から、かなり大規模な組織であると言うことはわかっていた。
だからこそ、これから起こることが命がけの事態だというのが、司馬を含めた5人にはわかったのだ。
ゆえにちょっとしたパーティーを開いて、気合いを入れたのである。
近況報告と、仕上がり具合を話し合うミーティングの意味もある。
光が話しはじめた。
「神ってのは何なんだろうな」
ここに居る誰もが思っていた疑問である。
「オレが思うに、この神ってヤツは本物かもな」
光が得意げに語るのを、誰も止めようとはしなかった。
司馬も聞いてみたくなったので、黙ってドリンクを一口舐めた。
「本物だからこんなあそびを仕掛けてきたのだろう」
「昔から、神ってヤツはこういったあそびを仕掛けてきやがるからな!」
「神話の世界だって、これと似たようなものだろう?」
「だからオレは、コイツは本物だって思うのだよ」
光は一気に喋ると、グイと飲み物を口に入れた。それから食べ物をつまんだ。
「そうね、天変地異の記憶が人々から消えたってのも、痕跡が綺麗さっぱり消えたのも、本物の仕業だからよね」
「わたしたちは、組織や老師から特殊な訓練を受けていたから、記憶は多少残っていたけれど・・・」
芳蘭は続けた。
「それにどうやら、仲間を集めて戦おうとしているのはわたし達だけではないみたいなのよ。そして、その人達はある程度記憶が残っていたり、あっさりと事態を信用してしまうようなの」
芳蘭は組織がこの事件についてすぐに集められるだけ集めた資料に目を通していたから、その事を話してくれたのだ。司馬は深く頷いた。
「戦いの地は日本であることは、みんな分かっていると思うけれど、どうやら最初から戦いに参加するメンバーは決まっていたようなの」
芳欄は語り始めた。
皆は固唾をのんで、と言うわけでもなく、でもまんじりともしない様子で聞き入っている。
「どういうことだ?」
司馬はしばらく組織を離れていたので、事情がつかめないでいる。
芳蘭もそのことは充分に承知していた。
彼女は老師から、司馬に余計な心配をかけないように言われていたのもあって、活動内容は伝えていなかったのだ。
「我らの頭首のところに件の神と名乗る相手から接触があったらしいのだ」
光は重い口を開いたが、彼自身もまだ情報はつかめていない様子だ。
「頭首と神が?そんなことがあったのか?」
司馬は光の方にゆっくりと頭を向けると、疑問を投げかけた。
「頭首は祭司であるから、神からの声が聞こえても当然だな」
光の言う言葉に、司馬はなんとなく納得できずにいた。
司馬は今まで神などというものは信じたことがなかった。
司馬は自分の幼少期の出来事を思い出していた。
彼の母親は、性的な暴行の結果として司馬を産み落とした。
司馬の母は懐妊時に堕胎のための薬を飲んで、彼を流産させるつもりだった。
堕胎のための薬物を、念入りに、時間をおいて、日にちをおいて何回か飲んだのだが、おなかの中の司馬はその薬をはねのけて、効果を拒絶し、順調に育った。
さらに司馬の母は未成年であったし、両親もあまり裕福な方でもなかったために妊娠を言い出せないでいた。
幸いにもというか、おなかも目立った大きさにはならずに、周囲に気づかれることなく、司馬は順調に成長することが出来た。順調に成長してしまった。
司馬の母は悲観して、自殺を試みたが、その都度失敗した。
まるで司馬が何かに守られているような、様子であった。
司馬の師匠である孫は、偶然見かけた司馬の母の様子に異常な事態を感じたので、監視をしていたのだが、ついに出産の時になり、司馬の母が生まれて来た司馬を殺してしまおうと首に手をかけたときに、止めに入って、司馬を彼女から取り上げてしまった。
司馬の命は間一髪で守られたのだが、そこからは、司馬の地獄の始まりだった。
司馬は命を助けられたが、孫にはまだ司馬を育てるだけの余裕もなく、修行中でもあったために、司馬は施設に亜づけられることになった。
孫は後々になって司馬をその施設に預けたことを後悔したが、その時には遅かった。
司馬は壮絶な虐待に合って、売られてしまった。
孫がやっと探し当てた頃には、司馬は感情を失い、何も信じられない中身のない人間になってしまっていた。
冷たい静寂が、まるで現実そのものを包み込んでいるようだった。
園崎八子は、自分の掌を見つめていた。掌に刻まれた皺の一本一本が、微細な線となって網目を成し、命というものを形作っている。これが、あとどれほどの時間続くのか、それは彼女には分からなかった。
神と名乗るものの言葉が、脳裏にこびりついて離れない。
「――ゲームは始まっている」
その声が、何度も何度も反響していた。
ほんの数時間前まで、彼女はただの日常を生きる一人の会社員だった。世間の喧騒の一部に埋もれ、誰の記憶にも残らないような人生を歩んでいた。そんな彼女が、今は神の気まぐれな遊戯に巻き込まれ、否応なしに"特別な存在"へと押し上げられようとしている。
それがどれほどの意味を持つのか、彼女には分からない。
ただひとつ確かなのは、「選ばれた」ということだけだった。
◆
窓の外には、何事もなかったかのような世界が広がっていた。
人々は相変わらず通りを行き交い、車のエンジン音や雑踏の声が、まるで昨日と同じように響いていた。
けれど、八子の知る限り、世界は確かに終焉へと向かっていたはずだった。
大地は裂け、天は黒煙に覆われ、海は逆巻いて全てを飲み込んだ。
それなのに、今この景色は、まるで"何もなかった"かのように平穏を取り戻している。
「――これは、夢?」
いや、そんなわけがない。
肌に感じる冷たさも、胸の鼓動も、視界の端で瞬く車のライトも、全てが現実のものだ。
だが、それならば、どうして?
何がどうなって、世界はこうして"元に戻って"いるのか?
彼女の脳内に、"神"と名乗る存在の声が響く。
「――ゲームは13回。君たちは試される」
13回。
つまり、彼女は少なくとも、その回数分だけ、何らかの"試練"を受けなければならない。
そして、クリアできなければ――死。
逃げようとしても――死。
「……ふざけてる」
思わず呟いた。
だが、怒りは湧いてこなかった。
理不尽は、人生において幾度も経験した。
失ったものの数を数えるのは、もうずっと前にやめた。
そして今度は、神という存在が理不尽を突きつけてきた。
世界を巻き込み、彼女を無理やり"参加者"に仕立て上げ、勝手にルールを押し付けた。
その絶対的な力に、彼女は逆らうことができるのか?
◆
「……園崎さん」
名前を呼ばれた気がして、八子は振り向いた。
だが、そこには誰もいない。
――いや、"いる"。
視界の端に、微かに揺らぐ影があった。
それはまるで、"何か"がそこに"在る"という事実だけを伝えるかのような、曖昧な存在感だった。
「……誰?」
沈黙。
だが、その沈黙の中に、確かに"何か"が潜んでいるのを感じた。
八子は、息を殺してじっと耳を澄ませた。
――カチリ。
何かが、動いた音。
それは、彼女の意識の奥底に潜んでいた"何か"が、ゆっくりと目を覚ます音だった。
◆
夜の帳が下り始め、街は無数の光に照らされていた。
だが、その光がどこか冷たく感じられるのは、彼女が今置かれている状況のせいなのかもしれない。
八子はふと、喫茶店の前で足を止めた。
この店には何度か来たことがある。特に思い入れがあるわけではないが、妙に懐かしさを覚える。
扉を押し開けると、店内はほんのりと暖かく、コーヒーの香りが漂っていた。
「いらっしゃいませ」
店員の穏やかな声に迎えられ、八子は適当な席に腰を下ろした。
「……コーヒー、ブラックで」
注文を済ませ、スマートフォンを取り出す。
SNSには、今日のニュースが溢れていた。
だが、どこにも「天変地異」についての記録はなかった。
世界が崩壊しかけたという事実すら、存在しないかのようだった。
「……まるで、嘘みたい」
まるで何もかも、"なかったこと"にされている。
いや、それすらも、神と名乗る存在の"力"なのかもしれない。
しばらくすると、注文したコーヒーが運ばれてきた。
八子はスプーンでゆっくりと表面をかき混ぜながら、考える。
自分は、これから何をするべきなのか。
◆
店を出る頃には、夜の冷気が街を支配していた。
コートの襟を立て、八子はゆっくりと歩き出す。
そのとき、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
画面には、見覚えのない番号が表示されていた。
「……誰?」
少しの迷いの後、通話ボタンを押す。
「――園崎八子さん、ですね?」
低く、落ち着いた声だった。
だが、それがどこか"人間のものではない"ように感じられたのは、彼女の直感なのか、それとも――
「……誰?」
「"次の試練"が、間もなく始まります」
その言葉を最後に、通話は一方的に切れた。
八子は、ゆっくりと息を吐いた。
すでに覚悟は決めたつもりだったが、やはり、胸の奥が妙にざわついていた。
「――来るなら、来いよ」
静かに呟く。
彼女の中で何かが、少しずつ、確かに変わり始めていた。
第一部 完結編
(※ここに「続きを1万文字程度追加」のテキストが含まれています。)
天上の神と地上の悪魔 こみつ @komitsu690327
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