06.夏休みの登校日
楓花は学校以外にはピアノを習っているだけだったので、夏休みは宿題が終わったあとはほとんどずっとピアノを弾いていた。ピアノ教室で習っている曲の他に、文化祭で弾くものも練習した。舞衣は塾があると言っていたし、中学生には連絡手段が家の電話しかないので、あまり連絡はない。スマホを持っている同級生もいるけれど少数派だったし、学校からは事情がない限り持ってくるのは禁止されていた。
文化祭の練習に音楽室が使えないときは教室で歌うというので、楓花はCDに伴奏を録音して担任に渡していた。登校日に学校に行くと、早速それで練習があった。
「あっ、そういえばおまえら、一学期に〝渡利がピアノ弾けるんか?〟て話してたやろ?」
練習が終わってから帰り支度をしていると、丈志が話しかけてきた。
「あ──うん。弾けるん?」
弾けないと分かって敢えて聞いたのは、弾けることを期待していると思わせるための演技だ。
「いや、やっぱ無理やって。家にもないって言ってたで」
「そうなん? ふぅん……小学校のときさぁ、音楽室にオルガンなかった? 机代わりに」
「あったけど、あいつが弾いてるの見た記憶はないな」
丈志は晴大との会話の中で、楓花の名前を出したのだろうか。晴大が楓花の名前を出してはいないと思うけれど、うっかり口が滑らないように発言に気を付けてしまう。
「長瀬さん──ピアノ上手いしさぁ、あいつに教えたったら?」
「えっ? 無理無理。自分が弾くのは良いけど、人に教えるの下手やし、しかも渡利君にって……」
私のような平凡な女の言うことを聞いてくれると思えない、と言う声はだんだんと小さくなっていってしまった。話している途中に舞衣が近づいてくるのが見えたので、晴大のことが気になっている彼女の前では、晴大と楓花の距離が縮みそうなことは言いたくなかった。
「えーっと、
丈志は鞄の中身を確認していた。なぜか鞄の中に私服のシャツが入っているのが見えた。
「なんで服あるん?」
「今から遊びに行くねん」
「あっ──渡利君……」
舞衣が廊下のほうを見てから小さく言った。
「あいつ来た?」
「……渡利君と遊びに行くん?」
「うん。おまえらも来る?」
「いや……私らクラブあるから……」
「ふぅん。じゃあな。またな」
楓花と舞衣に手を振りながら出ていく丈志を目で追っていると、廊下側の窓から教室を覗いている晴大と目が合ってしまった。舞衣はやはり隣で緊張していたけれど──、楓花は彼のことは特に気にしていないし、接点がない設定を貫いているので、長く目を合わせているのは楓花にとっては危険だ。
「行こっか」
「えっ、着いていくん?」
「着いていく? ……クラブやけど」
「あ──ははっ、そうやそうや」
舞衣は、楓花が〝丈志と晴大に着いていく〟と言ったと勘違いしてしまったらしい。
放送部の部室──保健室に到着すると、既に他のメンバーは集まっていた。登校日に保健室に用事がある他の生徒はいないらしく、顧問はすぐに話を始めた。集まったのは、文化祭の舞台部門の司会と、放送部としての出し物──シム・シメールの『地球のこどもたちへ』という環境絵本の朗読の分担を決めて練習することだ。非常に綺麗なイラストなので、スクリーンに写しながら朗読するらしい。
「ゆっくりね。話す速さやったら、聞いてたら速いから」
楓花が放送部に入ったのは、そういうことが好きだから、ではない。舞衣も他のメンバーも目立つのは苦手なほうだったし、昼の放送当番もしなくなっている人が既に何人かいた。昼休みに教室にいても特に用事がなかったのと、放送室だとのんびり過ごせる、と先に入っていたメンバーに聞いたからだ。
「舞台の端に演台置いて……ベレー帽かぶる?」
「ええっ?
「なんでぇ。可愛いやん」
部員たちはしばらく反対していたけれど、顧問に推されてベレー帽をかぶることになってしまった。楓花は小学校のときにかぶったことがあるけれど、それは紺だったし、子供だったので嬉しかった。中学生になったいまは特に嬉しくないし、しかも色は赤だと聞いた。舞台に一人でスポットライトを浴びて立つ時点で目立っているのに、ベレー帽で余計に目立ってしまう。
それでも決まったことは仕方ないので、楓花は家に帰ってから原稿の担当部分を黙って読んだ。語りかけるような内容なので、スピードが上がってしまっては台無しだ。
ふと、晴大のことを思い出してしまった。
リコーダーを教えるようになってから月に一度のペースで会っているけれど、八月は学校が登校日しかない。だから晴大の練習に支障が出るのでは、と気になったけれど、楓花が気にすることではないな、と他のことを考える。それでも彼が上達していくのを見るのは嬉しかったので、二学期になって下手になっていたら嫌だな、とも思う。
楓花と晴大の接点は、リコーダー以外に本当に何もない。クラブはもちろん違うし、委員会も違う。だから接点を作るには、誰かに間に入ってもらうか、同じクラスになるしかない。今は違うクラスなので会わなければ問題ないけれど、もしも同じクラスになってからもリコーダーの練習を続けていると、それはそれで苦労しそうだ。
「あーっ、もーっ」
「朝からどうしたん?」
二回目の登校日の朝、楓花は教室に向かいながら廊下で無意識に叫んでしまっていた。それを舞衣に──近くにいた同級生たちにも聞かれてしまった。
「ううん、気にせんといて」
何でもない、と足を進めるけれど、楓花は普段は大人しくしているので、何かあって壊れたのか、と何人かが笑っていた。
「嫌なことでもあったん?」
「ううん。ちょっと、考え事してただけ」
そしてまた、考えるというより怒ってたぞ、と笑い声がした。振り向くと、おかしそうに笑う丈志と、隣には表情が固いままの晴大が立っていた。
「何に怒ってん?」
「別に、怒ってないし……」
「まさか俺とちゃうよなぁ?」
「だから怒ってないし、波野君は全く関係ない」
「良かった。……え? もしかして、渡利に?」
大正解だったけれど、言うわけにはいかない。晴大はビクリと目を開いたし、舞衣も楓花と晴大の関係を疑っているように見えた。晴大が助けてくれる様子はなかったので、楓花は言葉を探した。
「いや……渡利君と、話したことないし……」
大嘘だ。
「……確か、波野と同じクラスの?」
晴大は前回の登校日のことを覚えていたらしい。
「あの……ちょっと、いろいろあって、考えすぎてパニックなってただけ」
間違ってはいない。
けれどそれがリコーダーのことだと晴大はピンと来たようで、少しだけ表情を曇らせていた。けれど晴大にリコーダーを教えること自体は楽しかったので楓花は嫌な顔をせず、それはちゃんと彼にも伝わったらしい。
「あ──悪い、俺ちょっと用事」
晴大は自分の教室に入って荷物を置くとすぐ廊下に出てきて職員室に走り、ホームルームを終えたあと楓花は担任から〝佐藤が呼んでいる〟と聞いた。例の部屋で晴大は『嫌ではないんよな?』と楓花に聞いた。
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