第五章02 聖女ロズアトリスと聖女シャルルリエル(なんだか嫌な予感がする)

 真夜中のルドルダ大聖堂は、静けさの中に肌を撫でるような底知れぬ怖ろしさがある。聖力が籠った特別なランプの白い光で、昼間と同じように明るい内部。浮かび上がった女神の石像や天使たちの壁画から、視線が降り注いでいる気がする。


 大理石の翼廊を進みながら、ロズアトリスは冷えた空気が身体をさらう感覚に、人知れず気を乱されていた。


(なんだか嫌な予感がする。ただの勘で済めば良いが)


 歩調が速くなる。時間を調節しようと思ったのに、結局約束の時間の三十分前に着いてしまった。


 しかし、大聖女エラヴァンシーはすでに聖女座に座していた。頭上の宝冠、右手に携える権杖の煌めきのように、重苦しいはずの威光さえ輝いて見える。祭服を着たアドリアンが脇に控えているのは、近しい間柄の者なら謁見できるということを示す。


 ロズアトリスが恭しく挨拶をすると、大聖女エラヴァンシーも儀礼的な挨拶を返した。その一拍後。


「久しぶりねぇ、ローズ。ちゃんとご飯を食べてきた? 今日は遅いから、明日は昼からでもいいからねぇ」


 まるで家族の一員のような温かい眼差しで、他愛のない話をするエラヴァンシー。毎度この落差に慣れないロズアトリスは、硬さの残る声色で答える。


「えぇ、しっかり食べてきました。たとえ徹夜になったとしても、明日も朝の祈りから出席いたしますよ」


「ローズは本当に真面目ねぇ。貴方のような人は、ちょっとくらい楽をしてもいいのよ。聖典にも安息日があって、休むことをお許しになっているでしょう」


「聖教会の安息日は土曜の日没から日曜の日没までですよね。明日は金曜ですよ」


 真面目なロズアトリスが暗に休む理由がないことを告げると、エラヴァンシーは「そういうことだけど、そういうことじゃないんだけどねぇ」と困ったように手を頬に添えた。


「ははは。楽をしない、頼らないという性格はローズの良いところだね」


 アドリアンは快活に笑いながらロズアトリスを評価したが、柔和な笑みの中に真面目な表情を残して「でもね」と続ける。


「人の良いところは悪いところでもあるんだよ。自分に楽を許さない人は、他人にも楽を許せない。それに人に頼れるからこそ、人から頼られるものだ。よく覚えておきなさい」


 ロズアトリスはこのアドリアンの言葉をしっかりと考え、心に刻もうとした。……のだが。


「アディったら良いこと言うわねぇ!」


「照れるなぁ。いつも女神の御言葉かと思うくらい素晴らしい説教をするエラのおかげかなぁ」


「まぁ~好きになっちゃう。結婚してほしいわ」


「もうしてるよ」


 仲睦まじい夫婦の茶番が始まってしまい、真面目に考える機会を逃した。


(全く、このお二人は人目をはばからず。……でも、理想の夫婦だ)


 聖教会の最高位聖職者である大聖女と、一概の聖職者にすぎないその夫。二人の生活は一般とかけ離れている。それぞれの苦悩があることは想像に難くないが、それを感じさせない良好な関係を周囲に見せているのだから、さすがといったところだ。


 しばらく夫婦の会話をロズアトリスが盗み聞きしているという図が続き、二人がふと会話をやめたところで、ロズアトリスは別の誰かがやってきたことを察した。


「あら、ロズアトリスさん、お早いのね。わたくしの方が先に着いたかと思ったのに」


 朗らかに笑いながら登場したのはシャルルリエルだ。シャルルリエルは踊るような足取りでロズアトリスの左隣に立つと、大聖女と聖配に挨拶をした。大聖女は儀礼的な挨拶をし、そしてまた他愛のない会話を投げかけた。


「シャーリーはちゃんと晩ご飯食べた?」


 するとシャルルリエルはぴしゃりと言い放った。


「いくら大聖女様でも、プライベートに口出ししないでいただけますか?」


「ごめんなさい。出過ぎたことを言ったわね」


 エラヴァンシーは慌ててシャルルリエルに謝ったが、ロズアトリスはシャルルリエルを窘めた。


「大聖女様は貴方のプライベートを知りたかったのではなく、気遣ってくださっただけですよ。聖務の後、そんなに時間を空けずに集まることになったから、ちゃんと夕食を食べられただろうかと」


「どうしてそんな心配を大聖女様がなさるの? 余計なお世話というものではありません?」


 ベビーピンクの髪を首のあたりから後ろへ払うシャルルリエル。彼女に悪気はなく、干渉されているような気になるところが嫌なのだろうということは理解できる。だがロズアトリスは思う。


「他人の世話を焼かずして、どうして聖女と名乗れるのです?」


 シャルルリエルのにこやかだった表情に影が差す。


「聖職者には、この世界に和睦と豊かさをもたらすため、女神の教えを広めて人々を導く役割があり、それは人々の生活を守ることに繋がっています。ちゃんと食べられているかや、寝られているかなどを確認するのは、その人に健康であってほしい、最低限のことは困らなくても良いように配慮したい、という現れです」


 ロズアトリスの説教を、シャルルリエルはどのように受け取ったのだろうか。一瞬、冷ややかな目を向けたけれど、瞬きの間にシャルルリエルは表情を変えていた。


「そのような考え方もあるでしょうね」


 一言で一蹴する彼女の態度には、考えを改めようという気は感じられなかった。


(人には人の考え方があるが。彼女のような人間が増えたら、生きやすくなるものなのだろうか?)


 ロズアトリスは疑問を感じずにはいられなかった。


 シャルルリエルはロズアトリスがそのような疑問を感じていることなどつゆ知らず。「そんなことより」と手を合わせて話を変えた。


「第一の試練の話をしませんこと?」


 この一言で、ロズアトリスは理解した。この席を作ったのはシャルルリエルだということを。


「――そうだな」


 大聖女エラヴァンシーが空気を変え、深く息を吸う。


「今宵二人を呼び出したのは、聖女シャルルリエルより、第一の試練の終わりを宣言されたからだ」


(第一の試練の終わり!?)


 ロズアトリスは内心驚いたが、態度に現れないよう平静を装った。


「聖女シャルルリエル。宣言を」


 エラヴァンシーに呼ばれ、シャルルリエルは「はい」と返事をして大きく一歩前へ出た。


「わたくし、聖女シャルルリエルは、『宝石強盗の捕縛』をもって、第一の試練の完了を宣言します!」


「宝石強盗の捕縛!?」


 これにはさすがのロズアトリスも声を上げずにはいられなかった。


「宝石強盗の捕縛とは、一体!?」


 シャルルリエルはにこりと天使のような顔で微笑みながら、ロズアトリスを振り返った。そうして声を張り上げ、言った。


「宝石強盗をここへ!」


 翼廊の方から足音が二つ聞こえてくる。一つは規則的、一つは乱れた足取りだ。ロズアトリスはどくんどくんと耳の後ろで脈打つ心臓の音を聞きながら、足音の方へ視線を向けた。


「……っ!?」


 思わず叫びそうになった口を、唇を噛んで制する。


 手錠をかけられ、マクシムに引きずられるようにして翼廊からこちらへ向かってくるのは――。


(ヴェル!!)


 ひょろりと長い身体に癖の強いアンバーの長髪、あどけなさの残る精悍な顔つき。そして印象的な紅い瞳は、紛れもなくヴェルだった。

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