第一章03 大聖女エラヴァンシー(どうして心が痛む?)

 後陣を離れて翼廊まで来ると、二人の男性がロズアトリスを迎えてくれた。正確にはロズアトリスを迎えに来た者とエラヴァンシーを迎え来た者だ。白い祭服に身を包んでいる老人はエラヴァンシーの夫アドリアンである。


 聖レピュセーズ帝国の聖職者は結婚することを認められている。ただし大聖女の伴侶となる者はそれまでの身分を捨て、一介の聖職者になることが定められていた。アドリアンは伯爵位を持つ家に生まれたもののエラヴァンシーの夫になり、エラヴァンシーが大聖女になった際に伯爵家を出て聖職者となっている


「やぁローズ。エラとのお話は済んだかい?」


 ニコニコと人の良さそうな優しい笑顔を浮かべ、こちらへ近付いて来たアドリアンに、ロズアトリスは恭しく頭を下げた。


「本日のところは問題なく。もう聖配(セイハイ)殿下がお近付きになっても支障はありません」


 アドリアンは「そうか、では!」と、浮かぶような足取りで後陣へ向かっていった。そうして随分離れてから思い出したように振り返って「夜は危ないからね! ティモシーに送ってもらうんだよ!」と翼廊に響き渡る大きな声を出した。


 ――ティモシー。ティモシー・ド・レピュセーズ。この国、聖レピュセーズ帝国の第三皇子。


 ロズアトリスはもう一人の男性へ視線を向けた。


 祭服ではなくゼニスブルーの貴族の礼服に身を包み、『薔薇の恵み(ローズ・グレイス)』と呼ばれるピンキッシュレッドのルビーのブローチを好んでつけている、ロズアトリスとは同い年の十七の青年である。首の後ろで結わえた艶のあるプラチナブロンドの長髪を上品に肩口から胸まで流し、端正に整った美しい顔をしているが、決して女性らしさを感じさせない。それは彼がしっかりした体つきをした美丈夫だからだ。


「お送りいたします」


 ティモシーがはちみつ色の瞳をとろけさせた甘い笑顔を向けて、腕を出す。ロズアトリスは「ありがとうございます」と事務的に礼を言ってその腕に手を絡めた。


 一歩を踏み出せば歩調が合うくらいの年月を共にしている婚約者だ。


 とはいえ、甘い時間を過ごしたことはない。恋や愛なんて何も分からない七つのときに一方的に決められたから――いや。きっと、婚約者だと紹介されて初めて彼に会ったときから、負い目を感じているからだろう。今日だって、こんな夜遅くにご足労頂いて大変申し訳ないと思っている。だからなのか、胸がドキドキして彼と話をする気になれなかった。


 何も話さず翼廊をひた歩く。深夜の大聖堂は静まり返っていて、コツコツと靴が大理石の床を踏む音がやけに大きく聞こえる。冷えた空気は昼の陽気の中にある厳かな雰囲気ではなく、夜の陰気な神秘のヴェールを纏っているようだった。


「……聖女選定にあたって、課題が出されたと聖女シャルルリエル様がおっしゃっておられました。ロズアトリス様は私に教えてくださらないのですか?」


 無言に耐えられなかったのか、ティモシーが問いかけてくる。


 おそらくシャルルリエルは彼女を待っていたであろう彼女の婚約者にすぐ手紙を見せ、課題のことを話したのだろう。ティモシーはそれを見ていたのだ。


 ふと大聖女エラヴァンシーが言っていたことを思い出す。


『貴方は独りではないわ。必ず貴方を助けてくれる人がいる』


 これまでティモシーに頼ったことはないけれど、彼は助けてくれる人の一人だろうか。ロズアトリスはティモシーの顔を盗み見た。ヴェールで隠れているはずなのに視線を感じたのか、はちみつ色の瞳がこちらを見る。


(わたくしに与えられた課題を乗り越えるのに協力してくださる?)


 そう問いかけられれば良いのだが、やはり、これ以上彼を巻き込むのが憚れる。だから当たり障りなく、代わりの言葉を口に出すことにした。


「……大聖女様からどんな課題を賜ったのかは、まだ封筒の中を見ていないので答えられません。それより、わたくしが大聖女様に呼ばれたからといって、こんな夜遅くに来ていただかなくても良かったのですよ。寝ていらしたのでは?」


 ティモシーは緩やかに首を振った。


「いえ、ご心配には及びません。執務が残っていたので起きていました」


「執務とおっしゃるけれど、政務でしょう? こんな時間まで民のためにお仕事をなさっているなんて、殿下は相変わらずお忙しいですね」


「聖女であらせられるロズアトリス様ほどではありませんよ。私の行っていることは、ほとんど趣味のようなものです。もちろん、遊んでいるわけではありませんが」


 現皇帝と皇妃の元に産まれた二番目の皇子ティモシーは、積極的に政務に関わり、青年貴族たちだけでなく、重鎮たちも手玉に取ってまとめあげていると聞く。


 だから、憚れるのだ。国を統べるために生まれて来たような人なのに、自分という聖女の婚約者に選ばれ、ロズアトリスが大聖女になればその地位を捨てざるを得ないなんて、可哀想ではないか。


(そうか。私がまず救うべきなのはこの人なのだ)


 大聖女の前でもらった恩を民に還していくことを宣言したからか、ロズアトリスはふとそのような考えに行き着き、あることを思いついた。思いついてしまえば、どうして今までそうしなかったのだろうと不思議に感じるくらい、しっくりきた。けれど同時に何かが引っかかるような気もして、すぐに思ったことを言えなかった。


 つかえた言葉を、喉をさすって和らげて、ロズアトリスは唇を開いた。


「……殿下はわたくしの婚約者であることを苦痛だと思ったことはありますか?」


「は!? どうしてそんなことをおっしゃるのです!?」


 いつも穏やかな話し方をするティモシーが辺りにわんわん響き渡るくらい大きな声を出したものだから、ロズアトリスは驚いてしまった。けれど持ち前の気の強さが発揮され、気圧されることなく、考えをするすると口に出した。


「わたくしたち、七つの時に婚約したでしょう? たった七つでこの先何十年という未来を限定されてしまったのだから、不満の一つや二つ……十や二十もおありかと思いまして」


「貴方は、そんなことを考えて……?」


 ティモシーが歩みを止めて目を見開いた。ロズアトリスは彼が驚いて言いにくそうにしているところを見て、不満がありすぎて簡単に言い出せないのだと思った。


(彼を苦しめていたなんて、聖女としてあるまじきことだ。早く、彼を解放してあげなければ)


 ロズアトリスは息を吸った。


「……私たち、婚約を解消しましょう」


「私をお捨てになるのですか!?」


 子犬のような切ない目で訴えかけられているように見えるのは、彼の顔が整っているからに違いない。


(私たちの婚約は周りに決められたもの。私に気があるわけではないのだ)


 決して屈してはならないと、ロズアトリスは心を強く持って首を振る。


「大聖女候補に選ばれた今、わたくしと共にあるということは、貴方の未来を絶つことになります。貴方をわたくしの傍に留めておくのは、国家の損失にもなるでしょう。わたくしはこの国が国民にとってよりよくなることを願っています。どうか、皇子様。わたくしがわたくしにしかできない方法でこの国に尽くすように、貴方は貴方にしかできない方法でこの国を導いてください」


 真っ直ぐに彼の方を向いて、想いを正直に伝えた。


 しばらくティモシーは無言で目を大きく見開いていたけれど、やがて観念したように。


「……はい」


 消え入りそうな声で弱弱しく口に出した。


 何の抵抗も無く、婚約解消は受け入れられてしまったのである。


 瞬間、ロズアトリスの胸が刃物に刺されたかのように痛んだ。


(どうして胸が痛む?)


 明らかに精神的ダメージによる痛みだったのだが。自分の機微に疎いロズアトリスは、人知れず病を疑うのだった。

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