第14話 星空の調和

<視点:私[ナツキ/リナ]>


警察の事情聴取という嵐が過ぎ去り、「私」の日常には、再び穏やかな時間が流れ始めた。あの一件は、融合した二つの意識にとって、大きな試練であると同時に、互いの存在の必要性と、この秘密を守り抜くという決意を、より強固にする出来事となった。ナツキの失踪に関する捜査は、決定的な証拠が見つからないまま、いつしか世間の関心からも薄れていったようだった。


***


季節は巡り、「私」は、国内最大級のファッションショーのバックステージにいた。ショーのフィナーレ、そしてグランドフィナーレのトリを見事に務め上げ、会場を揺るがすほどの拍手と喝采を浴びた直後だ。アドレナリンがまだ身体を駆け巡り、心地よい疲労感と、圧倒的な高揚感に包まれている。


慌ただしいバックステージの、少しだけ区切られたドレッシングスペース。スタッフの手を借りながら、ランウェイで纏ったオートクチュールのドレスを脱ぐ。汗ばんだ肌に、シルクの裏地が滑る感触。ドレスの下には、今日の衣装に合わせた繊細なレースのブラジャーとショーツ。「私」は、用意されたバスローブを羽織り、鏡の前に立つ。


(考えてみれば… こうして、ごく自然に下着を身に着けたり、人前で着替えたり、華やかなドレスを纏ったりすることも、もう完全に日常の一部になったね…)


ナツキの意識が、ふと思う。


(ええ。最初は、ナツキが少し戸惑っているのを、リナも感じていたけれど。今はもう、これが『私たち』の普通だものね。何の違和感もないわ)


リナの意識が、それに穏やかに応える。


鏡に映る、美しいランジェリー姿の自分。そして、これから着替える予定のアフターパーティー用のエレガントな黒いドレス。かつて男だった自分が、これらを身に纏うことに、以前のような倒錯的な興奮や、気まずさを感じることは、もうほとんどなくなっていた。 それはただ、この身体にとって自然な装いであり、仕事の一部であり、そして、自分自身を美しく見せるための手段でしかなかった。


(うん。本当に不思議な感覚だよ)

ナツキの意識が、しみじみと思う。


(以前は、この感覚をどこか倒錯的だと感じていたのに… 今は、ただ、これが『私』なんだ、としっくりきている。 リナに対する恋愛感情、いわゆる恋心とは違う。かといって、昔の自分が持っていたかもしれない、異性への好奇心とも違う。じゃあ、これは一体…?)


(そうね)

リナの意識が、その思考を引き取るように、穏やかに同意する。

(倒錯なんかじゃないわ。ただ、これが今の『私たち』の現実で、私たちの身体と心が、完全に調和しているっていう証。とても自然な感覚。きっと、それだけのことよ)


うん、とナツキの意識も再び同意する。リナの言う通りだ。これは、倒錯でも、恋愛でもない。ただ、融合した「私」という存在が、リナという女性の身体と人生を完全に受け入れ、一体化している、穏やかで満たされた調和。


そんな内的な対話を終え、「私」はスタッフに手伝ってもらいながら、黒のイブニングドレスに袖を通した。

身体のラインに吸い付くような、美しいシルエット。鏡に映る自分に、満足げに微笑む。その表情は、自信と、穏やかな幸福感に満ち溢れていた。


楽屋を出て、パーティー会場へと向かう。多くの祝福と賞賛の声が、「私」を待っているだろう。ハヤトも、きっと会場で待ってくれているはずだ。


パーティー会場の喧騒を少し離れ、テラスに出て夜風にあたる。空は高く、都心の光害の中でも、星々が懸命に瞬いていた。「私」は、その星空を眺めながら、この静かで満ち足りた幸福を噛み締めていた。


(…でも、時々、ふと思うんだ)


ナツキの意識が、かすかな憂いを帯びてリナに語りかける。


(この身体は一つしかないのに、二つの意識があることの危うさ…。いつかバランスが崩れたり、身体が悲鳴を上げたりしないかって。それに、もしこの秘密が知られたら、ハヤトとのことも、何もかもが変わってしまう…。もっと言えば、万が一、ナツキのアパートが無くなっていたら、解除したナツキの身体はどこに行くんだろう、とかね…。考え出すとキリがないんだけど)


(…そうね)


リナの意識も、その可能性を完全に否定はしない。


(考え出すと、怖いこともある。でも…)


彼女は、ナツキの意識を包み込むように、温かい感情を送る。


(でも、私たちはもう、一人じゃない。どんなことがあっても、二人で一緒に乗り越えていける。そうでしょう?)


(…うん。そうだね)


ナツキの意識も、その言葉に力づけられる。


(そういえば、)


ふと、ナツキの意識が思い出す。


(『適性値』って、何だったんだろうね。97.9%…)


(さあ…)


リナの意識が応える。


(でも、今なら思うの。あれはきっと、魂の『波長』がどれだけ合うか、ってことだったのかも。同じ周波数で共鳴しあって、綺麗に一つの音みたいに重なれるか… その重なり合いの完璧さの予測値だったのかもしれないわね)


その時、ふと、リナの意識が少しだけ不安そうに囁いた。


(…ねえ、ナツキ


(うん?)


ナツキの意識が、優しく応える。


(あのね… こんなこと言うのは変かもしれないけど… これからも、もし… あのソフトで…その、私よりも、もっと『適性値』が高い女の子が見つかったとしても…)


彼女は、かつてナツキが遭遇したかもしれない高い適性値のことを思い出しながら、少し不安そうに言った。


(…そっちには、行かないでね…? 約束、してくれる…?)


その、不意の、そして少しだけ甘えるような問いかけに、ナツキの意識は、温かい感情で満たされた。愛おしさと、絶対的な確信と共に、ナツキの意識は応える。


(…行くわけないよ? リナ。忘れたの? あの時、 ナツキだって、リナがいなくなって、心が空っぽになるあの喪失感を味わったんだ。もう二度と、あんな思いはしたくない。リナだってそうでしょ? 私たちはもう、二人で一つなんだから。ナツキにとって、リナ以上に大切で、かけがえのない存在は、もう、この世界のどこにもいないんだ)


(……うん。ありがとう)


リナの意識から伝わる、温かな安堵感。最後の不安の欠片も溶けて、完全な信頼と調和だけが残る。


「私」は、星空に向かって、未来への希望を込めて、再び静かに微笑んだ。


二つの魂が奏でる、完全なる調和の音色を、心の中で聞きながら。


これが、ハッピーエンドなのかどうかは、誰にも定義できないかもしれない。ナツキという一人の人間の人生は、社会的には失われたのだから。けれど、融合した「私」にとっては、これ以上ないほどの幸福だった。


二つの魂は完全に調和し、互いを満し合い、一つの存在として、光り輝く人生を歩んでいる。


喪失感も、罪悪感も、今はもうない。ただ、穏やかで、満ち足りた日々が、そこにあるだけだった。


これこそが、彼らが見つけた、誰にも理解されなくとも、確かな幸福の形だった。


***


…きらめく都会の夜景。高層ビルの壁面には、最新コレクションを纏ったリナの、自信に満ちた広告イメージが大きく映し出され、街行く人々の視線を集めている。


その華やかな光の足元で、一枚の古びて色褪せた紙片――捜索願いのビラが、アスファルトの上を風に吹かれてカサリと音を立てた。


それはもう、誰かが必死に探していた頃の熱量を感じさせない、ただの古い紙切れに見える。街灯の光が一瞬だけ、掠れたインクで書かれた「ナツキ」という名前と、少しだけ昔の、あどけなさの残る笑顔の写真を照らし出した。


しかし、それもすぐに闇に紛れ、慌ただしい人々の靴に踏まれ、もう誰の目にも留まることはなかった。

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二人で一つの私 はっしゅ @grind_hash

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