第11話 新しい日常

あの夜の約束から始まった、穏やかな融合。それはすぐに、「私」にとっての新しい日常となった。


目覚めると、隣にはもう一つの意識がある。それは孤独ではない、温かく満たされた感覚。かつてリナを苛んだ、あの身を切るような喪失感は完全に消え去り、ナツキが感じていた罪悪感も、今はリナの安らぎと幸福感によって大部分が覆い隠されていた。


(…大丈夫。ちゃんと、ここにいる… 私たちは、二人で一つ)


互いの意識が、朝の光の中で穏やかに確認し合う。それは、もはや不安を打ち消すためのものではなく、確かな幸福を再認識するための、静かな儀式となっていた。


リナとしての生活は、以前にも増して輝きを増したように見えた。撮影現場では、リナ本来の感性と表現力に、ナツキの持つ客観的な視点や、時に冷静な分析力が加わることで、ポージングや表情にさらなる深みが生まれた。デザイナーやカメラマンからの評価も高く、難しい要求にも的確に応えることができる。


「最近のリナさん、何か突き抜けた感じがするね」


現場でそんな声が囁かれるのを、「私」は少し誇らしい気持ちで聞いていた。


プライベートでも、その調和は保たれていた。恋人であるハヤトとの時間は、以前よりも穏やかで、満ち足りたものに感じられた。彼の優しさや愛情を、リナの心を通して、ナツキの意識もまた純粋に受け止め、幸福を感じる。


ハヤトを騙しているという罪悪感が完全に消えたわけではない。だが、彼を心から大切に思うリナの気持ちもまた、「私」の真実なのだ。その複雑な感情も、今は二人で分かち合い、受け入れている。


もちろん、完全にスムーズなことばかりではない。時折、些細な「ズレ」が生じることもあった。


朝、コーヒーカップを持とうとした右手が、一瞬だけ、ナツキの利き手である左手になりかけ、慌てて持ち直す。


ハヤトと一緒にアロマショップに立ち寄った時、リナが好きではなかったはずの、少しスパイシーな香りを「これ、良い香りね」と、ナツキの好みでうっかり口にしてしまい、ハヤトに一瞬だけ「あれ?」という顔をされる。


(…いけない、今の、ナツキの方の感覚だった)


すぐにリナとしての感覚で修正し、事なきを得るが、そんな瞬間には、自分たちが二つの意識の融合体であるという、奇妙な現実を突きつけられる。


だが、それもすぐに、日常の大きな流れの中に溶けていく、些細な波紋でしかなかった。


ナツキという青年が、社会的には「行方不明者」として扱われているであろう事実は、重い現実として存在し続けていた。


時折、彼だった頃の両親や友人たちの顔が脳裏をよぎり、胸が痛む瞬間がないわけではない。


あの時、心配してメッセージをくれた友人や、電話をかけてきたバイト先の店長は、今どうしているだろうか……。


けれど、その感傷は、今の「私」が享受している、リナとしての充実した人生と、何よりも、二度と経験したくないあの「喪失感」からの解放という、絶対的な幸福感の前では、次第に意識の奥底へと追いやられていった。


ナツキの人生は失われたのではない。リナという存在の中で、形を変えて生き続けているのだ。「私」は、そう思うようになっていた。


この、誰にも理解されない秘密の共有。二つの意識が常に寄り添い、支え合い、一つの身体で世界を感じる日々。


それは、奇妙で、倒錯的かもしれないけれど、疑いようもなく、幸福な調和の中にあった。


この穏やかな日々が、ずっと続けばいい。


「私」は、そう願わずにはいられなかった。


すぐそこまで、静かに、しかし確実に、試練の時が近づいていることなど、まだ知る由もなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る