第10話 調和

<視点:私[ナツキ/リナ]>


光の中で、二人の意識の境界が急速に溶けていく。それは、川の流れが合流するように、ごく自然で、抵抗のないプロセスだった。


ナツキの意識は、リナの深く暗い喪失感の奔流に触れ、そしてそれを包み込むように流れ込んでいく。


リナの意識は、ナツキの持つ後悔や責任感、そして彼女に向けられた温かい共感を受け止め、同時に、自分の内側を満たしていく彼の存在そのものに、驚きと安堵を感じていた。


(あ……ああ……!)


リナの意識から、声にならない歓喜の響きが伝わってくる。


この数週間、彼女を苛み続けてきた、胸の中の冷たい空洞。それが、温かい光で満たされていく感覚。


欠けていたものが、ぴたりと嵌まる。


バラバラだった自己が、再び統合されていくような、絶対的な安心感。


それは単に苦痛が消えたというだけではない。


存在そのものが、肯定され、満たされていくような、深い充足感だった。


涙が、頬を伝う。


しかし、それは先ほどまでの絶望の涙ではなく、解放と、歓びの涙だった。


ナツキもまた、その充足感を共有していた。


リナの空虚が満たされていく感覚は、そのまま自分の喪失感が癒えていく感覚でもあった。


彼女の安らぎが、自分の安らぎになる。


彼女の喜びが、自分の喜びとなる。


これこそが、自分が求めていた「繋がり」なのだと、改めて実感する。


罪悪感が消えたわけではないが、今は、彼女の苦痛を取り除けたという安堵の方が大きい。


光が収まり、融合した意識が安定を取り戻す。


「私」は、ナツキの部屋の中心に立っていた。リナの身体で。


深い、穏やかな呼吸を繰り返す。


先ほどまでの激しい動揺は、嘘のように消え去っている。


身体の震えも止まり、ただただ、満たされた静けさが支配していた。


「……よかった……」


安堵の声が、自然とリナの唇から漏れた。


それは、リナ自身の心の声であり、同時に、ナツキの安堵の声でもあった。


部屋を見回す。


先ほどまでとは違い、そこはただの「見知らぬ部屋」ではなく、どこか「懐かしい場所」のようにも感じられた。


ナツキの記憶とリナの感覚が完全に混ざり合い、共有されているからだろう。


壁のポスターも、積み上げられた本も、今は不思議な親しみをもって目に映る。


しかし、感傷に浸る間もなく、「私」の中のナツキの部分の意識が、すぐに現実的な問題に気づく。


このまま融合状態でいることの難しさ。


リナはひどく消耗している。


今はまず彼女自身として休息し、日常へのソフトランディングを図るべきではないか。


そして、佐藤マネージャーへの対応も必要だ。


彼女は今頃、リナの身を案じているだろうし、ナツキという存在への警戒を強めているはずだ。


(リナさんのために……そして、今後のためにも、今は一度……)


融合した意識の中で、ナツキはリナに語りかけるように、その考えを伝える。


リナの意識は、せっかく得られたこの安らぎをまた手放すことへの恐怖にわずかに揺らぐが、同時に、彼の配慮と状況の必要性を理解する。


そして、「私」は、その統合された決断を声に出した。


「よかった、落ち着いたみたいね」


その声は、自分自身のもの(ナツキのもの)のようでもあり、リナ自身の声のようでもあった。


「でも、このままじゃダメよ。私は……ううんリナさんはひどく疲れているわよね……。」


事実、「私」の意識は充足感で満たされていたが、リナの身体は正直だった。


喪失感という激しい精神的苦痛から解放されたことで、それまで意識の外に追いやられていた、ここ数日の心労と睡眠不足による極度の疲労感が、一気に全身を重く包み込んできているのを感じる。


「ちゃんとリナさんの家に帰って、ゆっくり休まないと。佐藤さんも、すごく心配しているはずだから」


リナの意識の不安を感じ取り、安心させるように、意識と言葉で続ける。


「大丈夫よ。だから、いったん融合を解きましょう? リナさんがちゃんと休めるように。でも、これは一時的なものよ。今日の夜、リナさんが眠る前に、必ずもう一度、私はあなたの元へ行くわ。必ず、また融合するから。約束する」


その言葉には、絶対的な確信と誠意が込められていた。


「私……いえ……僕を信じて。リナさんを一人にはしないわ」


僕であることを意識しても、口調は私、リナに染まってしまう。


だけどリナの意識から、逡巡と、そして最終的な同意の感情が伝わってくる。


自分を受け止め、苦しみを取り除いてくれた事実。


自分の回復を優先してくれようとしていること。


そして、「必ず戻る」という彼の強い約束。


それが、再び訪れるであろう喪失感への恐怖を、かろうじて上回った。


(……うん)


融合した意識が、一つの結論に至る。


ナツキは、システムへの接続を切断するように、あるいはただ強く、分離を念じた。


ふわり、と意識が分離していく。


温かい繋がりが遠のき、再びそれぞれの個に戻っていく。


<視点:ナツキ>


ナツキは、自分の身体で、自分の部屋に立っていた。目の前には、リナが一人で立っている。彼女は、まだ少し顔色は悪いものの、カフェやアパート前での錯乱状態とは違い、驚くほど落ち着いて見えた。深い疲労と、そしてナツキへの絶対的な信頼のようなものが、その瞳には宿っている。


「大丈夫ですか?」


僕は、自分の声で尋ねた。


「一人で帰れますか?」


<視点:リナ>


リナは、こくりと頷いた。おそらく、喪失感は再び彼女を襲い始めているだろう。けれど、それはもはや絶望的なものではなく、「夜までの辛抱」という、期限付きの痛みに変わっていた。


「……うん。……待ってるから」


その声は、少しだけ震えていたが、はっきりとした意志がこもっていた。


「必ず、来てね」


<視点:ナツキ>


「はい。必ず」


僕は、力強く頷いた。


<視点:リナ>


リナは、もう一度ナツキの顔をじっと見つめると、静かに踵を返し、アパートのドアを開けて外へと出て行った。


(佐藤さんには、どう説明しよう……カフェでのこと……あの青年、ナツキさんを、昔の知り合いと雰囲気がとてもよく似ていたので、私が勝手に勘違いして、ひどく動揺してしまった、ということにしよう。うん、それしかないわ……)


頭の中で言い訳を組み立てながら、彼女は駅へと向かう。胸の中心には、まだ鈍い喪失感が疼いている。けれど、彼がもたらしてくれた束の間の充足感と、「必ず戻る」という彼の約束のおかげで、身を引き裂かれるような絶望感はない。


(彼は、私のことを考えてくれたんだ……)


その事実が、リナの心に大きな安堵感をもたらしていた。


しかし、駅が近づくにつれ、不安が忍び寄る。


(本当に、夜に来てくれるの……? もし、来なかったら……?)


考え始めると、心臓が冷たくなる。彼の存在なしには、自分はもう、まともに立っていられないのかもしれない。


(ううん、信じなきゃ。彼は、約束してくれた)


かぶりを振って不安を打ち消す。


ポケットのスマートフォンが震え、佐藤からの心配する着信とメッセージが大量に溜まっていることに気づく。深呼吸して、まずはメッセージを送る。


『佐藤さん、ご心配おかけして本当にごめんなさい。もう大丈夫です。今、自宅に向かっています。昨日の疲れが溜まっていたのと、カフェで勘違いをしてしまったみたいで、ひどく混乱してしまって……。ご迷惑をおかけしました。明日はいただいたお休みで、ゆっくり休みます』


すぐに既読がつき、「とにかく無事でよかった。ゆっくり休んで」という趣旨の返信が来て、ひとまず胸を撫で下ろす。


自宅マンションに帰り着き、シャワーを浴び、ルームウェアに着替える。何か食べようとしても喉を通らない。ただ、ソファに座り、時計の針が進むのを待つ。


胸の奥の鈍い痛み。昼間の充足感を知ってしまったからこそ、今の喪失感は耐え難い。


(大丈夫……彼は約束してくれた……)


何度も自分に言い聞かせ、ナツキの真摯な瞳と言葉を思い出す。それだけが、心を支えていた。


<視点:ナツキ>


一方、ナツキもまた、自室で落ち着かない時間を過ごしていた。リナを送り出した後、彼は大学とバイト先に「体調不良」で数日休む連絡を入れる。家族には、まだ知らせない。これで、数日は稼げる。


その間に、リナさんの状態を安定させないと……。彼は、リナとの約束を果たすことだけを考えていた。


夜が更け、窓の外が闇に包まれる頃。ナツキはベッドに横になり、枕元に置いたノートPCの電源を入れた。あの怪しげなソフトウェアのアイコンをクリックし、意識を集中させた。


(リナさん……今、行くよ)


画面に表示されたインターフェースで、ターゲット「リナ」を指定し、接続を開始する。


初回の融合とは違い、今度は明確な目的と、相手からの待望がある。


<視点:リナ>


寝室のベッドサイドランプの淡い明かりの中、リナは膝を抱えて座っていた。もう、眠る準備はできている。あとは、彼が来るのを待つだけ。時計は、午後11時を回ろうとしていた。


(……本当に、来てくれるの……?)


不安が、再び鎌首をもたげる。


その、瞬間だった。


ふわり、と。部屋の空気が変わった気がした。胸の奥の喪失感が、すうっと和らいでいく。温かい何かが、自分の内側から満ちてくる。


驚いて顔を上げる。部屋には誰もいない。けれど、確かに感じる。彼の気配。彼の意識が、自分の意識と再び重なり合おうとしているのを。


(……来てくれた!)


恐怖は消え去り、歓喜が込み上げる。


彼女は目を閉じ、その感覚を全身で受け入れた。


光はない。けれど、確かな繋がりが、彼女の魂を優しく包み込んでいく。


<視点:私[ナツキ/リナ]>


次に「私」が目を開けた時、そこは見慣れたリナ自身の寝室だった。柔らかな間接照明、上質なベッドリネン。


融合は、完了していた。今度こそ、穏やかに、そして確かな安らぎと共に。


胸の中には、完全な充足感がある。リナの意識は、深い安堵と、約束を果たしてくれたナツキへの感謝で満たされている。


ナツキの意識もまた、彼女の安らぎを感じ取り、そして、再びこの身体と一つになれたことへの、複雑ながらも確かな喜びを感じていた。


「……ただいま」


どちらからともなく、そんな言葉が、静かな部屋に小さく響いた。


約束は、果たされた。二つの魂は、再び重なり合い、夜の帳の中で、静かに息づいていた。

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