第9話 邂逅
<視点:リナ>
カフェでの一件の後、佐藤に半ば強引にタクシーに乗せられ、自宅マンションに送り届けられたリナは、自室で一人、混乱の中にいた。
ナツキの顔、声、そしてあの衝撃的な感覚。喪失感の正体が、彼との繋がりを失ったことにあるという確信。彼が『僕』として自分の中にいたという、信じがたい現実。
(彼がいなければ、私は……もうダメなんだ……)
カフェでの彼の戸惑うような表情。「ここでは話せない」という囁き。彼は、私を拒絶したわけではなかったのかもしれない。でも、マネージャーは完全に彼を警戒している。もう、普通には会えない。どうすればいい? この、胸を抉るような痛みと欠落感を抱えたまま、どうやって生きていけばいい?
眠れない夜の中で、ある特定のイメージが繰り返し浮かび上がる。
電車の窓から見える街並み。特定の路線の色。駅のホームの雰囲気。そして、アパートの窓から見える、特徴的な三角屋根の家と、少し坂のある住宅街の風景。
(……三茶……? 世田谷線の音……?)
なぜか浮かぶ駅名と、見覚えのある景色。彼が見ていた景色を、自分も見ていたかのように。融合していた時、彼が自分の部屋へ帰る道すがら、あるいは部屋の窓から見ていた風景の記憶が、断片的に流れ込んでくるかのようだ。
翌朝。
(……行かなきゃ)
衝動がリナを突き動かす。理由はない。でも、あの場所に行けば、彼に会えるかもしれない。この苦しみから解放される、唯一の道かもしれない。
彼女は誰にも気づかれないよう、配送業者を装えるようなシンプルなキャップを目深にかぶり、ラフなパーカーとパンツに着替え、マスクで顔を隠した。タクシーを拾い、「三軒茶屋駅まで」とだけ告げる。
三軒茶屋駅に降り立ち、記憶の中の風景と現実が部分的に一致することに眩暈を覚える。駅前の賑わい、キャロットタワー。そして、記憶の中にある世田谷線のホーム。
(どっちへ……?)
駅周辺は広く、住宅街も入り組んでいる。それでも、リナは歩き始めた。記憶の中の「方角」や「坂道の感じ」「特定のコンビニの角」だけを頼りに。融合時の、彼が自分の部屋へ帰る時の、無意識の方向感覚が、微かに彼女を導いているのかもしれない。
焦りと、わずかな期待。
もし会えなかったら? もし彼が拒絶したら?
不安が押し寄せるが、それ以上に、この胸の痛みを止めたいという渇望が彼女を突き動かす。ひたすらに歩く。
どれくらい歩いただろうか。日差しは少し傾き始めている。見慣れない住宅街の景色に、心が折れそうになる。
諦めかけた、その時。ふと見上げた先に、あの「窓からの景色」――特徴的な三角屋根の家が見える、少し開けた坂道――と酷似した風景が広がっていることに気づいた。
(ここだ……!)
全身に鳥肌が立つ。彼のアパートは、この近辺に違いない。
足を速め、角を曲がる。アパートがいくつか並ぶ通り。その中の一つ、ごく普通の、少し古びた印象の賃貸アパートの前で、彼女の足はぴたりと止まった。記憶の中のイメージと、外観が一致する。間違いない。
その時――ガチャリ、と音がして、アパートの扉が開き、中から青年が出てきた。バイト帰りだろうか、少し疲れた様子で鍵を閉めている。
ナツキだった。
<視点:ナツキ/リナ>
予期せぬ場所での、あまりにも突然の再会。二人の視線が、驚きと戸惑いの中で、再び強く交差した。
「……リナ、さん……? なんで……ここに……?」
ナツキは、目の前の光景が信じられなかった。トップモデルのリナが、自分の住む、古びたアパートの前に、息を切らして立っている。マスクとキャップで顔は隠れ気味だが、その必死な、潤んだ瞳は間違いなくリナのものだ。
彼女の表情は、カフェで見た時よりもさらに切羽詰まっていた。
「ナツキさん……!」
リナは、ナツキの言葉を待たずに彼に駆け寄り、その腕を強く掴んだ。その手は、驚くほど冷たく、小刻みに震えている。
「お願い……もう無理なの……!」
人目も憚らず、彼女は懇願する。声は悲鳴に近い。カフェでの決壊が、再び訪れようとしていた。
「私の中に戻ってきて……! お願いだから……!」
瞳には理性のかけらもなく、ただ、この苦しみから逃れたいという、純粋で強烈な欲求だけが映っていた。
周囲を素早く見回す。幸い、午後の住宅街は人通りが少ない。だが、いつ誰が見ているかわからない。こんな場所で、彼女にこれ以上叫ばせるわけにはいかない。そして何より、彼女のこの状態を、これ以上放置することはできなかった。彼女の苦しみは、明らかに限界を超えている。
自分のせいだ。自分が勝手に分離したからだ。
(……もう、こうするしかないのかもしれない)
彼女を救う方法は、おそらく一つだけ。彼女自身が、本能で求めていること。そして、心の奥底では、自分もまた、それを求めていたのだ。あの満たされた感覚、一つになる安らぎを。
「リナさん、わかった……わかったから、とにかく中に入って! ここじゃダメだ!」
震えるリナの手をしっかりと握り返し、アパートの鍵を再び開ける。彼女を支えるようにして、自分の狭い、雑然とした部屋へと招き入れる。
バタン、とドアが閉まり、二人だけの空間になる。外の喧騒が遠のき、静寂が訪れると、リナの荒い息遣いだけがやけに大きく聞こえた。
「お願い……」
彼女は、もう一度、か細い声で繰り返した。縋るような、潤んだ瞳でナツキを見上げている。
ナツキは、覚悟を決めた。
彼女の瞳をまっすぐに見つめ返す。そこには、恐怖も、好奇心もない。ただ、目の前の苦しんでいる魂を救いたいという思いと、失われた繋がりを取り戻したいという、静かな、しかし強い意志があった。
彼は、ゆっくりと頷いた。
「……わかりました。リナさんが、それを望むなら……」
そして、小さく付け加える。
「僕も……同じ気持ちだったから……」
言葉は少なくとも、二人の間には、完全な理解が成立していた。
互いの瞳に、安堵と、そしてこれから起こることへの、言いようのない緊張感が映る。
ナツキは、リナに向かって、そっと手を伸ばした。
その直前、彼は部屋の隅に置いてあったノートPCに駆け寄り、素早く電源を入れた。パスフレーズを入力し、デスクトップが表示されると同時に仮想環境を起動し、例のソフトウェアのアイコンをダブルクリック。
瞬時に起動したインターフェースでターゲットを「リナ」に設定する。
リナもまた、吸い寄せられるように、彼が再び差し出した手に自分の手を重ねる。
「開始」のため、マウスをクリックした。
瞬間、接触点を中心に柔らかな光が広がり、狭い部屋を眩しく満たした――。
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