第8話 対峙

<視点:ナツキ/リナ>

ホテルのラウンジカフェ。落ち着いた雰囲気の中、二人はテーブルを挟んで向かい合っていた。

少し離れた席では、マネージャーの佐藤が、平静を装いながらも鋭い視線を二人に向けている。

重たい沈黙が、数秒間流れた。


「あの……先日は、ありがとうございました。手紙、読んでいただけて……その、驚いています」


最初に口を開いたのは、ナツキだった。声がわずかに震えている。

目の前のリナは、握手会の時よりもさらに美しく、しかしどこか張り詰めた、脆いガラス細工のような危うさを漂わせていた。


「……いいえ。こちらこそ、突然のご連絡に応じていただいて……」


リナもまた、緊張した面持ちで答える。彼女は、目の前の「ナツキ」という青年を、必死に観察していた。

普通の、少し気弱そうにも見える青年。けれど、やはり、あの握手の瞬間に感じた、不思議な引力のようなものを、今も感じている。


そして、彼の声。どこかで……聞いたことがあるような……?


「お手紙に書かれていたこと……正直、とても驚きました。でも……」


リナは言葉を選ぶ。


「でも、無視できなかったんです。あなたが書かれていた、『特別な繋がり』とか、『共鳴』という言葉に……なぜか、すごく……心当たりがあるような気がしてしまって」


その言葉に、ナツキの心臓が大きく跳ねた。やはり、彼女も何かを感じていたのだ。


「僕も……あの握手の瞬間、本当に、うまく言えないんですけど、何か、ただのファンとモデルというだけじゃない、特別なものを感じたんです。

リナさんの存在が、あの瞬間から、僕の中で、すごく大きなものになってしまって……」


ナツキは、必死に言葉を紡ぐ。

彼が話しているうちに、当初の緊張は少しずつ解け、身振り手振りを交え、彼の素の話し方に近くなっていく。


考え込む時に、わずかに首を傾ける癖。言葉を選ぶ時の、独特の間。

リナは、黙って彼の言葉に耳を傾けていた。


そして、聞いているうちに、彼女の中で、何かが急速に繋がり始めた。


彼の声。その響き、トーン、息遣い……彼の癖。彼が使う、「僕」という一人称。


(……この声……この話し方……この、“僕”……?)


デジャヴュ。いや、もっと鮮明な感覚。

それは、まるで、自分の頭の中で直接響いていた声のように感じられた。


自分がモデルとしてポーズをとっている時、あるいは、自宅でリラックスしている時、

自分のものではないはずの思考や感情が、すぐ隣にあったような感覚。


『僕』という一人称で語りかける、内なる声……。

あの、理由のわからない喪失感が始まった日までの、満たされていた期間に、確かに感じていた気配。


(まさか……あなたが……?)


目の前で話しているナツキの声と、記憶の奥底で響く声が、完全に一致する。


彼が語る「特別な繋がり」の意味が、恐ろしいほどの確信をもって、リナの中で像を結んだ。


握手会での共鳴感。消えない喪失感。そのすべてが、一直線に繋がった。


「あなたが……」


リナの声が、かすれた。


「あなたが……あの時の……“僕”なの……?」


ナツキは、リナの突然の変化に言葉を失った。

彼女の瞳は大きく見開かれ、信じられないものを見るように、ナツキを凝視している。


血の気が引いていくのが、テーブル越しにも分かった。


「だから……」


リナはこめかみを抑えるようにして、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

声が震え、涙が滲み始める。


「だから、私……あの日からずっと……何かが足りなくて、空っぽで……!」


喪失感の正体。それは、目の前にいる彼の「不在」だった。

あの満たされた感覚、自分が完全だった感覚は、彼が「いた」時のものだった。


彼が、勝手に、いなくなったから──!


その理解は、安堵ではなく、絶望的な渇望と、裏切られたような激しい感情をリナにもたらした。


喪失感の理由がわかった今、その欠落感は、もはや耐え難いほどの苦痛に変わっていた。


元に戻りたい。あの満たされた状態に。

この苦しみから解放されたい。今すぐ──!


「お願い……!」


リナは、テーブルに身を乗り出し、懇願するようにナツキを見つめた。

その瞳には、大粒の涙が浮かんでいる。


周囲の目も、隣にいるはずの佐藤の存在も、もはや彼女の意識にはなかった。

羞恥も、体面も、どうでもよかった。


「もう一度……!」


その声は、ほとんど悲鳴に近い。


「あの時のように……私と……一つになって……!」


「融合」という言葉は知らなくても、彼女の本能が、魂が、それを求めて叫んでいた。


「お願い、ナツキさん……!」


涙が頬を伝い、テーブルに落ちる。


「戻ってきて……お願いだから……!」


<視点:佐藤 / ナツキ>


「リナさん!?」


異変に気づいたマネージャーの佐藤が、血相を変えてテーブルに駆け寄ってきた。

状況が飲み込めないながらも、リナが尋常でない状態であることは明らかだった。


(一体何なの!? この男が何か……!?)


佐藤は内心の動揺を抑え、まずリナの肩を抱く。


「しっかりして! どうしたの、急に!? あなた、リナさんに何をしたの!?」


鋭い視線が、ナツキを射抜く。無理もない。

この状況を見れば、ナツキがリナを動揺させた張本人に見えるだろう。


「ち、違います! 何もしてません!」


ナツキは慌てて弁解しようとするが、言葉がうまく出てこない。


リナのあまりにも切実な、魂からの叫びに、思考が停止していた。

彼女が、覚えている。そして、再融合を求めている……。


「リナさんが、少し……思いつめられてるみたいで……」


説得力のない言い訳だとはわかっていた。


「お願い……ナツキさん……」


リナは、まだ涙目でナツキを見つめ、か細い声で繰り返している。

佐藤の呼びかけは、耳に入っていないかのようだ。


(ダメだ、ここでは……!)


ナツキは、リナにだけ聞こえるように、必死に囁いた。


「リナさん、落ち着いて……ここでは……話せません……!」


「とにかく、行きましょう。今日はもう帰りましょう」


佐藤は、これ以上の会話は危険だと判断し、半ば強引にリナを立たせた。


リナは、まだナツキの方を振り向きながらも、抵抗する力は残っていないようで、

佐藤に支えられるまま、ふらつく足取りでカフェを後にしようとした。


「申し訳ありませんが、今日はこれでお開きにさせていただきます。

リナの体調が優れないようですので」


去り際に、佐藤はナツキに冷たく言い放った。

その目には、明確な非難と警戒の色が浮かんでいる。


(この男……ただのファンじゃないかもしれない……注意しないと……)


あっという間に、二人の姿はカフェから消えた。


テーブルに一人残されたナツキは、ただ茫然と、リナが座っていた椅子を見つめることしかできなかった。


(……思い出された)


彼女は、覚えていたのだ。融合していた時のことを。

そして、分離したことによる喪失感に、これほどまでに苦しんでいた。


自分のせいだ。僕が、彼女の人生に踏み込み、そして勝手に去ったから、彼女をこんな状態にしてしまった。


激しい後悔と罪悪感が、波のように押し寄せる。


(「戻ってきて……! お願いだから……!」……)


リナの、あの悲痛な叫びが耳から離れない。

それは、彼女からの、明確な「再融合」の要求だった。


(でも、どうすれば……佐藤さんは完全に僕を警戒している……

それに……この前、リナさんと融合していた間、

バイト先からは『無断欠勤だぞ!』って鬼のように着信があったし、

大学の友人からは後で『お前の部屋行ったけど鍵開けっぱだったぞ。いつまでも帰ってこないし、何かあったのかと思った』ってメッセージが入っていたんだ)


(もし今、ここでまた俺が突然『いなく』なったら……

今度こそ本格的に捜索願とか出されて、リナさんがここに来たことと確実に結びつけられてしまう。

彼女を巻き込むわけにはいかない……)


それでも、このままにはしておけない。

彼女を、あの苦しみから救わなければ。

そして、僕自身もまた、この虚しさから……。


ナツキは、冷めかけたコーヒーカップを握りしめた。

どうにかして、もう一度、リナと安全な場所で二人きりで会う方法を探さなければならない。


そして、彼女の願いに応えるために……。

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