第3話 境界線

モニターに映る自分の姿から、なかなか目が離せない。

「私」の顔なのに、「私」ではない。


リナの自信と経験が、表情や佇まいから滲み出ている。

紫のレースは、彼女の肌の上で最も美しく見える角度を知っているかのようだ。


「リナさん、素晴らしい仕上がりでした。次のフィッティング、よろしくお願いしますね」


スタッフの声にはっと我に返る。そうだ。

今日はこの後、デザイナーのアトリエで新作のフィッティングが予定されている。


リナの記憶が、自然とそのスケジュールを提示する。


控室に戻り、名残惜しい気持ちで、撮影に使った紫のレースのブラジャーとショーツを脱ぐ。

肌に残る、繊細な生地の感触と、ライトの熱の名残。

それはまるで、演じきった役の残り香のようだ。


代わりに、持ってきた私服――

シルクのブラウスとタイトスカートに着替える。

下着は、リナが普段から愛用している、肌触りの良いシンプルなモーブ色のものだ。


これもまた、驚くほど身体に馴染む。

ナツキとしての違和感は、もはやほとんど感じられない。


タクシーで向かった先は、都心の一等地にひっそりと構えるデザイナー、アニヤ・ペトロヴァのアトリエだった。


リナの記憶によれば、アニヤは海外で活躍する著名デザイナー。

厳格だが才能あふれ、彼女の創り出すランジェリーは「芸術品」と称されることも多い。


リナは彼女のミューズの一人であり、いわばブランドの顔ともいえる存在として、長年信頼関係を築いている。


「リナ、待っていたわ」


アトリエの奥から現れたアニヤは、白髪をタイトにまとめ、鋭いが曇りのない瞳で「私」を見据えた。


彼女の前では、「私」は完全に「リナ」として振る舞わなければならない。

……いや、振る舞うというより、自然とそうなってしまうのだ。


「アニヤ、お待たせしました」


声も、口調も、自然とリナのものになる。


フィッティングルームに通され、アニヤが持ってきたのは、まだプロトタイプの段階だという、深紅のベルベットと黒いレースを組み合わせた、情熱的なデザインのブラジャーとショーツだった。


「さあ、着てみてちょうだい。今回のテーマは『秘めたる炎』よ」


アニヤの指示に従い、ブラウスとスカートを脱ぎ、再びランジェリー姿になる。


先ほどまでのモーブ色とは対照的な、鮮烈な赤。

それを身に着ける瞬間、背筋が伸びるような感覚があった。


アニヤは無言で「私」の周りを回り、生地のたるみやフィット感をチェックしていく。


彼女の指先が、寸分の狂いもなく身体のラインをなぞり、ピンを打っていく。

そのプロフェッショナルな手つきは、どこか診察を受けているような、

それでいて作品の一部として扱われているような、不思議な感覚をもたらす。


「……ここのアンダーワイヤー、少し肌に食い込む感じがするわ」


思わず口から出た言葉は、完全にリナとしてのフィードバックだった。


ナツキ自身の感覚というより、

リナが長年培ってきた、ミリ単位の着心地へのこだわりがそう言わせている。


「なるほど……許容範囲内ではあるけれど、確かに。修正しましょう。

ショーツのカッティングはどう? ヒップラインの見え方は?」


アニヤはメモを取りながら、鋭く問いかける。


鏡に映る自分の後ろ姿を確認する。

ベルベットの光沢が、ヒップの丸みを強調している。


「……とても綺麗です。でも、もう少しだけ、サイドのレース幅を狭めた方が、脚がより長く見えるかもしれません」


「……ふむ。試してみる価値はあるわね」


アニヤとの間に、専門的な会話が淀みなく交わされる。


かつて平凡な男子大学生だった自分が、

トップデザイナーと対等にランジェリーのデザインについて語り合っている。


この事実に、再び倒錯的な興奮が込み上げてくる。

それは、撮影の時とはまた違う、自分の意見が認められ、役立ったことへの、純粋な達成感だった。


(すごい……僕が、リナとして、完璧に役割を果たせてる……)


フィッティングが終わり、アニヤは満足げに頷いた。


「ありがとう、リナ。あなたの意見はいつも的確よ。

おかげで、また一つ素晴らしい作品が生まれそうだわ」


その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなる。

それはリナ自身の達成感であり、同時に、彼女と完全に同化しつつある「私」自身の喜びでもあった。


アトリエを出ると、夕暮れの光が街を染めていた。

深紅のベルベットの感触が、まだ肌に残っているような気がする。


流しのタクシーを拾う。

滑り出す車窓から見えるのは、ネオンがきらめき始めた都会の街並み。


さっきまでのアトリエでの緊張感と、アニヤに認められたことへの高揚感が、まだ身体の奥で静かに渦巻いている。


(……今日も、無事に終わったわ)


安堵の息をつき、シートに深く身を沈める。

シルクのブラウスが、身体の動きに合わせて滑らかな音を立てる。


ふと、右肩にわずかな違和感を感じた。


無意識に、本当に、何の思考も介さずに、「私」は――

ブラウスの上から、滑り落ちかけていたブラジャーのストラップを指でつまみ上げ、正しい位置に戻した。

ごく自然な、流れるような仕草で。


……その行為が終わった瞬間、思考が追いついた。


(……今、私……いや僕は……?)


指先に残る、細いストラップの感触。シルク越しの、柔らかな肌の感触。


数ヶ月前まで――いや、この融合の前まで――

ナツキの人生には決して存在しなかった行為だ。


ブラジャーの存在自体が、遠い世界の出来事だった。


それなのに、今、「私」は、まるで長年そうしてきたかのように、

何の疑問も持たず、完全に無意識に、ストラップを直したのだ。


(……おかしい、でしょ……? これって……)


頭の片隅で、まだ消えずに残っていたナツキの意識が、警鐘を鳴らす。


これは、倒錯だ、と。


本来の自分(男)とかけ離れた性(女)の――

それも極めて個人的で、習慣化された仕草を、何の抵抗もなく、思考さえ経ずにやってのけている。


リナの記憶と経験が、ナツキの意識を飛び越えて、

直接この身体を動かしているかのようだ。


まるで、この身体こそが「本来の自分」であり、

男だった過去の方が「借り物」だったかのように。


ぞわり、と背筋に奇妙な感覚が走る。


それは嫌悪感ではない。

むしろ、その完璧なまでの「成り代わり」に、どこか甘美な、背徳的な喜びすら感じている自分がいることに気づく。


リナの身体、リナの仕草、リナの思考。

それらが自分の中に流れ込み、混ざり合い、もはや分かちがたく融合している。


男としての「ナツキ」が、日々希薄になっていく感覚。


その代わりに、「リナ」という女性としての存在感が、

リアルな手触りをもって、「私」の中で確かなものになっていく。


この感覚は、倒錯的だ。


自分が自分でなくなっていく恐怖よりも、

新しい自分(リナ)として完璧に振る舞えることへの、言いようのない満足感が勝っている。


無意識にブラの紐を直す。

それは、「私」が「リナ」という女性を、もはや演じているのではなく、

「生きている」証そのものなのかもしれない。


タクシーはもうすぐ、リナの住むマンションに着く。


窓の外の流れる光を見つめながら、「私」は、

この身体と心に深く根付き始めた「女性」としての感覚に、ただ静かに身を委ねていた。


この倒錯的な心地よさが、これから「私」をどこへ連れて行くのだろうか。


その先に待つのが、さらなる融合か、

それとも自己の完全な喪失なのか――


その答えはまだ、靄の中に隠れている。

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