二人で一つの私
はっしゅ
第1話 融合
PCのディスプレイに表示された文字列を、僕は息を詰めて見つめていた。
『ターゲット:リナ』
『職業:下着モデル(特に高級インポートランジェリーを専門とする)』
『ステータス:業界内に親しい関係者は多い。彼氏持ち』
『適性値:97.9%』
「きゅ、97.9%… こんな数値、初めてだ…」
乾いた喉から、かすれた声が漏れる。
手元にある、この怪しげなソフトウェアが示す数値。
それは『意識接続』――まことしやかに囁かれる都市伝説、原因不明の失踪事件と結びつけて語られることもある、眉唾物の技術――の『適性値』を示すものだという。
半信半疑だった。巧妙なジョークか、個人情報を抜き取るための罠かもしれない。
だが、数ヶ月前、平凡な大学生活と、その先に待つであろう代わり映えのしない未来への漠然とした閉塞感から逃れるように、ネットの海を深く、あてどなく彷徨っていた時、この奇妙なプログラムに行き着いてしまったのだ。
開発者も配布元も不明。
ただ、いくつかの閉鎖的なオンラインコミュニティやアングラ系の技術フォーラムの片隅で、その存在が噂のように語られているだけ。
フォーラムの断片的な情報によれば、このソフトウェアはあくまで意識接続の『触媒』として機能するだけで、一度接続が確立すれば、実行元のPCは不要になる『らしい』。
だからといって安全なわけではなく、使用後に深刻な精神的ダメージを受けた、現実との境界が曖昧になった、関わった人間が何人も『消えた』らしい、といった真偽不明の書き込みも散見される。
フォーラムには『解除は可能』という書き込みもあったが、具体的な方法は誰も知らないようだった。
そもそも、本当に戻れる保証など、どこにもないのだ。
まともな人間なら近寄らない類のものだろう。
それでも、好奇心と、現状を変えたいという焦りが勝ってしまった。
起動してみると、現実の人間を『ターゲット』として認識し、謎の『適性値』を表示する。
ゲームのようなインターフェースの裏に、無視できない『何か』の気配を感じた。
この数値が高いほど、意識の接続――融合――が、より深く、より安定して行えるのだという…。
リナというモデルについては、ファッション誌や広告で何度か見かけた記憶があった。
洗練された表情、しなやかながらも力強さを感じさせるポージング。
そして何より、彼女が纏う紫色のランジェリーは、いつも見る者の心を強く掴んでいた。
画面の中の彼女は、僕とはまるで違う世界に生きている、輝かしい存在だ。
(彼女に… 僕が…? この、正体不明の力で…?)
彼女の人生を覗き見たい、という下世話な好奇心だけではない。
もし本当に意識が繋がれるなら、彼女の世界を、彼女の感覚を、体験できるかもしれない。
相手に気づかれずに済むのなら、あるいは…?
リスクは計り知れない。僕自身が『消える』側に回る可能性だってある。
期待と、倫理的なラインを越えることへのわずかな躊躇と、破滅への畏れ。
そして、それらすべてを凌駕する、未知の感覚への抗いがたい好奇心が、僕の中で渦巻いていた。
「…やるしかない」
僕は意を決し、震える指で、ソフトウェアの起動コマンドを実行しようとした。
……いや、待て。その前にやることがある。
こんな馬鹿げた現実逃避に、大学で齧った知識を使うことになるとは皮肉だが、情報系の学生としての最低限の備えだけはしておくべきだろう。
(フォーラムの情報通りなら、接続後はPCを落としても問題ないはずだ。
なら、リスクはPCに残るデータだけ…)
僕はまず、使い慣れた仮想環境ソフトウェアを起動し、外部ネットワークから隔離されたサンドボックス環境を構築。
そこに例のソフトウェアを配置し、実行準備を整えた。
万が一、このプログラム自体に悪意のあるコードが仕込まれていても、これでホストOSや個人データへの直接的な被害は最小限に抑えられるはずだ。
さらに、OSレベルでディスク全体の暗号化を有効にし、複雑なパスフレーズを設定した。
これで、再起動後にはパスフレーズなしではログインできないはずだ。
仕上げに、ターミナルを開き、タイマー付きのシャットダウンコマンドを設定した(2時間後にPCが自動的にシャットダウンするように)。
これで、たとえ僕の意識がここになくても、PCは(接続の安定性に関係なく)勝手に電源を落とし、証拠を残さない。
(…気休めかもしれない。本職のサイバー対策班とかなら、暗号化だって破るかもしれないし、シャットダウンされたPCからデータを取り出すことだって…
でも、やれるだけのことはやっておくべきだ)
深呼吸を一つ。準備は整った。
僕は今度こそ、サンドボックス環境内のソフトウェアの起動コマンドを実行した。
画面が淡く光り、複雑なコードが流れ始める。
ターゲット『リナ』への接続シーケンス開始。
画面に表示されるプログレスバーが急速に満ちていき、やがて――
『Connection Established // Continuous operation of executing device is no longer required
(接続確立 // 以降、実行デバイスの継続動作は不要です)』
という無機質なメッセージが表示された。
(…フォーラムの情報通りか。だけど、本当だろうな?)
だが、もう後戻りはできない。
意識が急速に、現実から引き剥がされていく感覚が始まっていた。
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