社会的透明人間

異端者

『社会的透明人間』本文

 カタカタとPCのキーボードを打つ音だけが響いている。

 外はもう真っ暗だ。そういえば、今は日が長い時期だが日がわずかでも出ている間に帰った記憶がない。

 佐名木陽介さなぎようすけはオフィスで書類作成の真っ最中だった。

 他のデスクにはもう人は居ない。

 クソッ! 課長が無茶ばかり言うせいだ!

 私は、心の中でそう悪態をついた。

 あの課長、こちらの仕事の分量を全く理解せず、自分が気に食わない社員にはやたらと仕事を振ってくる。結果として、太鼓持ちばかりが優遇され、大して変わらない給料で早く帰れるときている。

 こんな仕事、辞めちまおうか?

 そう考えるが、あと少しのところで思いとどまる。

 私には幸い……とこの状況で言えるのかどうか疑問だが、妻子が居る。妻は昼間パートしているが、どう考えてもその給与だけではやっていけない。

 こんな社会で再就職先など簡単に見つかるはずもなく、私が辞めれば生活に困窮することは必至だ。

 とはいえ、このままこき使われているのも……あれ?

 PCの画面がふいに暗くなったような気がした。

 目の疲れか? それとも、このポンコツのディスプレイがイカれたか?

 画面全体に暗い影のような物が掛かり、それが塵のようになって画面の中央に収束していく。やがてそれは真っ黒な人の胸から上を形どった。胸像の影のように。

 なんだ? とうとう精神がイカれたか?

 私はそう思った。これで労災が降りればまだマシだが、あの課長のことだ。適当な理由を付けて誤魔化ごまかすに違いない。もし今すぐに窓から飛び降りたとしても、会社は関係なかったと断言するだろう。

 画面中央には、小さなウィンドウが表示される。


 あなたの人生からログアウトしますか?


 その下には、はい、いいえの選択肢。

 おやおや、ウイルスかな? あのクソ課長、どうせ自分のPCに痕跡が残るのを嫌がって、私のPCでアダルトサイトでも見ていて感染したんだろう。

 まあいい! ログアウトしてやれ! どうせこんなくだらない人生だ!

 私は「はい」を選択した。

 すると、ウィンドウは消え、影も消えた。後には、作成中の書類の画面だけが表示されていた。

 なんだったんだ。……もう、帰ろう。なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。

 私は雑に片付けると、オフォスを後にした。

 どうせ明日どやされるだろうが、終わらない分量の仕事を割り振る方が悪いのだ。

 車に乗ると、エンジンをかけながらスマホを取り出す。

 自宅マンションの妻に連絡するためだ。こうして連絡しておくと、妻は帰りが遅い時でも夕食の用意をして待っていてくれる。

 しかし、電話は繋がらない。画面を見ると圏外だった。

 そんな馬鹿な!? 山奥ならまだ分かるが、こんな街中で!?

 これまでにも何度も掛けたはずだった。それが……圏外。どういうことだ?

 ……故障か。それぐらいしか考えられない。

 スマホの修理や買い替えは、私の薄給を考えると手痛い出費だが、今後のことを考えるとそうも言っていられないだろう。

 私は乱暴に車を発進させた。夜道を荒々しい運転で走る。

 スマホのことで金が要るだろうと、途中のコンビニのATMに寄るため車を停めた。

 コンビニ内のATMにカードを差して暗証番号を入力する……が「暗証番号が違います」と画面に表示された。もう一度入力する。間違い。

 私はそこで手を止めた。三度連続して間違うとロックが掛かると聞いたことがあったからだ。

 しかし、どう考えても、私は間違った番号を入力していなかった。

 それなのに、なぜ……きっと疲れているせいだと、強引に自分に言い聞かせる。

 そうだ! 全てはこの疲れのせいだ!

 私はふらふらとコンビニを出た。

 車に乗ると、また雑な運転を始める。

 あと少し! 自宅に帰れば、妻と娘! そして、夕食が待っている!

 そうでも思わないと、壊れてしまいそうだった。

 もっとも、壊れたところで心配してくれる人は限られているが――夢を見る年頃ではないが、そう分かってしまうことが悲しい。

 私はマンションの駐車場に車を停めると、疲れた足取りでエレベーターに向かった。

 部屋に着くとドアノブを回すが、鍵が掛かっていた。

 おかしい。妻が私を忘れてしまうはずがない。

 しかし、鍵が掛かっているのは紛れもない事実だ。

 私は渋々ポケットから鍵を取り出すと、鍵穴に差し込んだ。

 だが、それすらも裏切られた。鍵が回らない。何度も確認するが、部屋も鍵も何も間違っていない。

 そんな馬鹿な!? 勝手に鍵を変えるはずが――

 そう思いつつもチャイムを押す。出ない。何度目かの繰り返しで、ようやくドアの向こうに人の気配がした。

「誰?」

 ドアが開いてすぐに妻から出た言葉がそれだった。

「誰って……おいおい! 私だよ!」

 寝ぼけているのか――最初そう思った。

「こんな真夜中に訪ねてくる人なんて知りません!」

 妻はぴしゃりと言った。

「訪ねて? 私は帰って来たんだよ! 何を……言ってるんだ!?」

 どうやら、本気で私が分からないようだと気付いた。

「あなたのような人は知りません!」

 妻の目は私の知っている目ではなかった。不審者を見る目だった。

「どうかしたの?」

 廊下の奥から、女の子の声が聞こえてきた。娘の真由まゆだ。

「おい、真由! パパだよ!」

 その返答で私の心は打ち砕かれた。

「このおじさん……誰?」


「いい加減、本当のことを言ったらどうだ?」

 その後、妻は私を不審者として警察に通報した。

 もはや逃げる気力も失った私は、警察にずるずると連行されていった。

 今は取調室で「二度目の」事情聴取をされているところだった。

「だから、私は自宅に帰って――」

「嘘をつくんじゃない!」

 中年の刑事が机をバンと叩いた。

 その後ろでは若い刑事が何やら書いていた。

「通報してきた女性は、お前のことは知らないと言っている!」

「だから、それがおかしいんですよ! 私のことを証明する書類だって――」

「そのどれもが、照合できないんだ! 偽物だろう!?」

 そうだった。最初の事情聴取の際に、身分を証明する書類として運転免許証と保険証を渡した。真夜中だったのでそれらの機関に問い合わせる事情もあって、こうして翌朝に二度目の聴取となっていた。

「そんな……正真正銘の本物ですよ!」

 私は声を荒げた。それは更に刑事の反感を買うだろうと思ったが、そうせざるを得なかった。

「そのどれもが、発行した記録がないと言ってる!」

 案の定、刑事の語気は強くなった。

 あの後、職場や実家にも連絡するように頼んだが、どちらも「そんな人間は居ない」の一言で終わりだった。

 職場はあの課長の嫌がらせだったとしても、実家に覚えがないと言われるとは思ってもいなかった。

「オヤッさん、ちょっと……」

 若い刑事が中年刑事に声をかけると、一緒に部屋を出ていった。


「あれは、アレだな……なんというか、頭のおかしい奴」

 中年刑事は取調室を出ると言った。

「もしそうだとすると、あんまりきついことはやめた方が良いかもしれませんね」

 若い刑事が遠慮がちに言った。

「チッ……最近は、人権やら何やらでうるさいからな。キチガイを野放しにしておいてあとは知らんときてる……で、何の話だ?」

 若い刑事はわずかに考えるような仕草をしてから言った。

「あの人の言うことが、万が一本当だったらどうします?」

「はあ!? お前までイカれたか!?」

 中年刑事は口をあんぐりと開けた。

「それなんですが……もしオヤッさんの言うようなキチガイだったら、あんな免許証や保険証を持ってると思います?」

「だから、発行した記録がないと――」

「キチガイがそんな偽造までするなんて、整合性の取れた行動は無理じゃないですか?」

 それを聞くと、少し考えた様子だった。

「確かにその方が筋は通るが……それじゃあ、なんだって言うんだ?」

「近頃、ある都市伝説が流行っていると知ってますか? それは――」

 若い刑事は声のトーンを落としていった。


 それに関わると、社会的に存在を消される。


 そんな都市伝説だった。それはPCやスマホといった電子機器を媒介として人間と接触し、その質問に「はい」と答えると社会的に存在しないことになってしまうのだそうだ。

 すると、その個人に関する一切の記録が消えてしまう。銀行口座や電話番号はもちろん、親族や知人の記憶からも消えてしまうという。

「馬鹿馬鹿しい。よくある与太話だよ」

 中年刑事はうんざりした様子でそう言った。

「私も最初はそう思ったんですがね。念のために過去の事件を調べてみたら――」

 若い刑事がどこからかA4サイズの封筒を持ってきた。

「これは――」

 中年刑事が中の書類を確認している。

「確認ができただけでも四件……類似の事件が見つかりました」

 若い刑事が顔をしかめながら言った。


 高校一年の蟻本浩太ありもとこうたは自室で数学の宿題をしていた。

 プリントに書かれた数式を穴が開くほどにらんでいる。

 全くもって、理解不能だ。

 時間は既に遅く、家族はとっくに寝静まっていた。

 無理をして両親の望む、良い高校に進んだが、やはり無理をし過ぎだった。

 僕はそう思ってうんざりした。

 思えば、無理をしてばかりの人生だった。無理をしていくら頑張っても、親たちはそれが当然と言わんばかりで褒められたことがなかった。

 今日の宿題だって、僕よりも優秀な生徒ならすらすら解けるだろう。だが、僕にはそれすらできない。それどころか、テストともなると更に難しくなるので嫌になる。

 いっそのこと、高校なんて辞めてしまおうか?

 そう思ったが、辞めたところで何ができる訳でもない。

 正直、考えれば考える程嫌になる。

 ピロン!

 ふいにスマホが鳴った。画面を見ると真っ黒な人影とこんなメッセージが表示されていた。


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