15.不安材料 -雪貴-
初めての留学。
当初は戸惑っていた、
時間の使い方も、
効率よくこなせるようになってきた。
言語問題も少しずつ
改善されて、今では
通訳をして貰わなくても
その意味が理解できるようになってきた。
短期間で、
ここまで俺自身の生活レベルが
向上したのは、
留学先でサポートしてくれる、
伊集院さんや惣領さんのおかげ。
唯ちゃんとは、やっぱり連絡が
なかなかな取れないまま、
時間だけが過ぎていく。
だけど今は、
すぐに駆けつけられる場所にいない。
日本には、音弥が居る。
それに……、百花さんと託実さんも
気にしてくれてる。
三人に任せているから、
俺は今、俺がやるべきことをしよう。
そんな思いで、日々をこなしていた。
「雪貴、入っていい?」
ノックをして声が聞こえた相手は、
国臣さん。
「明日、日本から
宝珠と高臣が来るよ。
その時に一つ提案しようと思うんだ。
一年間の留学の集大成は、
DTVTとして、ボクと共演するって言うのは?
ラフマニノフ演奏した時は、
ピアノのボクは蚊帳の外だったからね。
その為の曲も、君が全て編曲するって方向で
詰めるから、宜しく」
突然、無茶苦茶な発言を切り出した
国臣さんは、そのまま舌をペロっと出して
悪戯っ子の瞳を浮かべて出ていく。
「国臣さん。
一年後にDTVT演奏なんて、
あのお二人が許すはずないですよ」
宝珠と高臣。
そしてDTVTときいて
思い浮かんだのは、
裕先生を通して、
知り合うことが出来たあの二人。
Ansyalが所属している
事務所の関係者でもある存在。
「そうだね。
はっきり言うと、今の君のレベルじゃ
無理だよ。
だけど、君の音色がボクは好きなんだよ。
ただひたすら、真っ直ぐに駆け上がる
そんな音色の世界がね。
だから……一年後なんだ。
今はボクの音が、
君を食いつぶしてしまうから」
そうはっきりと告げられた言葉に、
悔しさがこみ上げる。
「わかりました。
一年後、俺の音は国臣さんと対等に、
願わくば、それ以上でありたいと思います。
練習してきます」
「うん。
待ってるよ。
今、Aルームは深由【みゆ】が
使ってるから、
君はCルーム。
Bルームはボクが使うから。
君のCルームには、
紫音さんが後で顔出すって。
あの人、今日海外公演から帰国だから。
あっ、後はエル少し借りるから」
マイペースで無邪気そうに告げる
人懐っこいその人。
だけどその人のピアノは
万人の心を震わせる。
俺自身も初めて、
ここに来て、あの人の演奏を聴いて
体の震えが止まらなかった。
兄貴の曲は……
沢山の人の心に届いてた。
だけど……俺の音は、
誰かを救うことが出来てるのかな?
考えることもなかった思いが
湧き上がる。
レッスン室Cに入って、
インペリアルと向き合う時間。
課題曲をひとしきり演奏した後、
俺は運指運動も兼ねて、
超絶技巧の楽譜を取り出す。
クリーム色の紙の上に
沢山綴られた、おたまじゃくし。
その音、一つ一つには
存在意味があって、
作者の想いが込められている。
そんな僅かな音の変化を読み取りながら、
確実に、その楽譜を俺の音楽へと
進化させていく時間。
何度も何度も腱鞘炎の
痛みを堪えながら、練習を続けていると、
ガチャリと扉が開く音がした。
近づいてきたその人に、
慌てて演奏する手を止めた。
「海外公演お疲れ様でした。
伊集院さん」
姿を見せたその人は、
伊集院紫音さん。
「ただいま。
何弾いてたの?」
そう言って、俺の練習していた
楽譜にチラリと視線を向ける。
「超絶……ね」
半ば、うんざりするように
トーンを下げた伊集院さん。
「あの……、
いけませんか?」
「技術も大切だよ。
確かに大切だけど、
表現力も必要だよ」
そう言うと伊集院さんは、
公演帰りで疲れているにも関わらず
俺に椅子から離れるように合図を送ると、
先ほどまで俺が座っていた場所に腰掛ける。
両手首を軽くぐるぐると回して
柔軟をすると、
静かに鍵盤の上にアーチを形成した。
鍵盤の上を舞い踊る指先。
そして紡がれているのは、
ベートベンの一曲。
ピアノ・ソナタ
第24番嬰ヘ長調
作品78番。
別名はテレーゼ。
規模が小さなソナタ。
第一楽章
アダージョ・カンタービレ・
アレグロ・マ・ノン・トロッポ。
アダージョが告げるのは
愛の籠る呼びかけ。
アレグロが伝えるのは、
微笑みの表情。
8分少しのステージを終えると、
今度は俺を椅子へと座らせた。
「楽譜は確か……」
そう言うと、彼は本棚から
古びた楽譜を手にして、
楽譜台にゆっくりとのせた。
合図を受けて、
その音色を追いかけるものの
手応えはなし。
ただ空間の中に、
音が漂うだけだった。
「雪貴、今日はここまで。
空港で待ち合わせた君の来客が、
そこで待ってるよ」
そう言うと、伊集院さんは
ドアを開けて、退室していった。
入れ違いに姿を見せたのは、
日本に居るはずの裕先生。
「どうして?」
どう言葉を出していいのか
わからずに出たありふれた疑問。
「少しこっちでオペがあって。
あっちでは、仕切るのが少なくて
弟に押し付けられて、
精神神経科に配属だったけどね
オペの方も呼ばれれば出向くから。
それで国臣と連絡して、
紫音さまと合流したんだよ」
レッスン室を出る前に、
ピアノを蓋を閉じて、
ゆっくりとお辞儀をした。
隣の部屋からは、
ガラス越しにエルディノ先生と
国臣さんの音が、零れてくる。
「雪貴君、国臣も昔はずっと
ピアノとの向き合い方に悩んでたんだよ。
俺が学生時代の頃だけどね。
それは激動だったかな。
彼は大人しそうに見えて、
一度、解放されてしまうと暫く長引く。
昨年のコンクールの頃と今では、
雪貴君もブランクが出てる。
だからそのブランクを取り戻そうとして
どれだけ焦りの中で居ても、
心がそこに伴ってない今は、身にもならないよね。
紫音さまの課題が、テレーゼとは……
俺も昔、ヴァイオリンでなら
演奏したことはあるんだけどね」
その後は、ずっと裕先生のペース。
練習三昧の時間から解放させるかのように、
ディナーに誘われて、
ピアノから離れた時間。
「雪貴君のところに、
託実から電話はあった?」
「はいっ。
百花さんが妊娠したって……」
「そうそう、託実喜んじゃって」
「託実さんの声も嬉しそうでした」
「あの二人も背中を押すまでは
大変そうだったけどね」
何気ない日本の話を出来る時間が
ちょっぴり楽しかった。
そんな時間に着信を告げる携帯音。
画面に映し出された
着信相手は音弥。
裕先生に断りを入れて、電話に出る。
「もしもし、雪貴?
今、電話平気?」
そうやって電話してきた、
音弥の声は、余裕がなさそうで
それだけで不安になる。
「もしかして、
唯ちゃんになんかあった?」
震える声で問いかける俺に、
裕先生も心配そうに俺を見つめる。
「臨時講師の土岐【とき】が、
唯ちゃんのマンション周辺を
うろついてるのを見かけた。
土岐が来るようになって、
唯ちゃんもいつと様子が違ってる。
なんか俺には怯えてるように見える。
雪貴から頼まれて、
任せろって言ったわりには
何も出来てねぇよな。
唯ちゃんが本音を吐き出せるのは
やっぱりお前だけなんじゃねぇ?
まっ、俺も引き続き気にかけとくけどな」
それだけ告げると、音弥は電話を切った。
「唯香さんがどうかしたの?」
俺を気遣うように話しかける裕先生。
「あっ、電話。
音弥からだったんです。
産休の先生のかわりに着任した臨時講師が
ちょっと唯ちゃんにチョッカイ出してるみたいで。
土岐悠太って言ってたかな。
その人が来てから、
唯ちゃんの様子がおかしいって」
もっと近くに……
留学になんてしないで、
俺が唯ちゃんの傍に居ることが出来たら
一人で苦しめることなんてなかったのか?
怯えさせることもなかたのか?
溜まりかねて、
唯ちゃんの携帯電話を呼び出してみるものの
今日も唯ちゃんが電話に出る気配はない。
……何してんだよ、唯ちゃん……。
互いに居る距離が遠すぎて
不安材料は増えるばかり。
「雪貴君。
唯香さんのことは、
気にかけておくから。
主治医だからね。
あの子も抱え込みだすと抜け出せないからね。
君と同じで。
明日、帰国予定だから
何かわかったら、俺からも連絡を入れるよ。
だから君は、君がするべきことをこの場所で」
そう言って立ち上がる裕先生の後、
俺はついていくと、
会計を済ませて店の外に。
「ごちそうさまでした」
「雪貴君、紫音さまの課題は
君の腱鞘炎を悪化させることはないよ。
その時その時の手の状態に合わせた
曲で練習するのも、
上達の為には大切なことだからね。
悪化するようだったら、紫音さまに
正直に話すといいよ。
彼はピアニストであると同時に、
音楽家専門の悩みを
治療する医師でもあるから」
思いがけない言葉。
だけど……その言葉は
今の俺には頼もしかった。
悪循環のループばかりだったから。
今も不安がないと言えば嘘になる。
痛む指に焦り、
焦る練習に音は伴わない。
周囲からのプレッシャーは大きく、
憧れる音色は果てしなく遠い。
その音を受け止めるために、
自らの未熟さに、
押しつぶされそうになる。
その不安からは……
少しは解放されそうだ。
そしたら……俺は、
日々の練習をやり過ごしながら
唯ちゃんのことをもっと
考えることが出来る。
唯ちゃん……
今の俺には何も出来ないけど、
この場所で
思い続けることはやめないから。
兄貴……
俺の代わりに今は、
唯ちゃんを守ってくれよな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます