第7話 廃神殿の記憶
ノエルは、東区の外れにひっそりと建つ廃神殿の前に立っていた。手には、黄ばみかけた一枚の羊皮紙。そこに記されていた地図と記号が、彼をこの場所へと導いた。
曇り空が町を灰色に染め、光は地表に届かない。風はなく、あたりは異様なまでの静けさに包まれていた。神殿を囲む鉄柵は錆に食われ、触れれば砂のように崩れそうだ。入口の木製の扉には「立入禁止」の札が打ちつけられているが、文字はかろうじて読める程度に朽ちていた。
それでも、その扉には見覚えのある刻印が刻まれていた。魔術師の印。それも、ノエル自身のものに酷似していた。
「……間違いない。俺はここに来たんだ」
呟いた声が、静寂の中に吸い込まれていく。胸の奥で、何かがざわついた。足元のぬかるみには、自分と同じブーツの跡が残っている。扉の内側には、魔法の暴走を示す黒焦げの痕。焦げた空気が、皮膚の内側に染み込んでくる。
それは、まぎれもなく“昨日”の匂いだった。
昨日の俺は、ここで何をした?
ノエルは深く息を吸い、震える指先で扉を押す。軋んだ音と共に、冷気が吹き抜ける。その冷たさは、記憶そのものが彼を拒むかのようだった。
けれど、足は止まらなかった。迷いはなかった。
神殿の内部は崩壊しかけていた。天井の装飾は剥がれ落ち、床には瓦礫と土が積もっている。中央の祭壇は傾き、その奥ひび割れた壁の裏に、地下へと続く階段があった。
まるで地の底へと誘うかのように。
一歩、また一歩とノエルは階段を下りていく。下るたびに、空気が冷たく、重くなっていく。やがて息が白くなった頃、彼は辿り着いた。
そこには、魔法陣があった。
石床に彫られた精緻な紋様。中心には、焼け焦げた“何か”が崩れ落ちていた。それは炭化した本の残骸だった。黒く焦げた表紙。中のページは灰になりかけ、もろく砕けそうになっている。
それでも、ほんの一部にかろうじて読める走り書きが残っていた。
《記憶を、保存する。ノエル》
「……俺の字か?」
声が震えた。筆跡の傾き、文字の癖。見覚えがあった。だが、それを書いた“自分”の記憶は、霧の奥にあるように、手が届かない。
そしてその下には、焦げた布の切れ端が押し潰されるようにして落ちていた。
拾い上げると、滑らかな手触りが指先に絡んだ。粗悪なローブではない。高位の魔術師だけが使う特殊繊維。
これは—「まさか……」
その瞬間、背後から足音が響いた。
「随分と、懐かしいものを見つけたな」
女の声だった。冷たく、沈んだ響き。振り返ると、階段の上に黒いローブを纏った女が立っていた。顔は影に覆われていたが、その瞳だけが湖面のように静かに光っていた。
「“記憶保存”……この街では、最大の禁忌だ。知っているはずだろう?」
「知ってる。でも……それをやったのは、本当に俺か?」
ノエルは問いながら、自分の声が震えているのを感じていた。だが、それ以上に、女の瞳がかすかに揺れていたことに気づく。
「記憶を保存するということは、“死者をもう一度殺す”のと同じ。記憶は過去に属すべきもので、未来に持ち越せば……真実は歪む」
その語り口には、どこか機械的な響きがあった。だが、次の言葉で空気が変わった。
「……私も、かつてそれを試みた。愛する者の記憶を、どうしても失いたくなかった」
ノエルの目が見開かれる。
「戻ってきたのは記憶じゃない。……別の誰かになった、自分だった。何もかもが変わっていた。だから私は、すべてを燃やした。……それが、私の選択だった」
その声に、微かに滲む後悔と哀しみ。ノエルは唇を噛む。
「だったら、教えてくれよ」
声が震える。
「何度も同じ記憶を繰り返して、毎日死んで、それでもなお、ここに辿り着く俺は……何なんだ?」
怒り、困惑、そして恐怖。けれどその奥には、たったひとつの感情があった。
「俺はもう、“昨日の俺”に振り回されない」
女の瞳が揺れる。静寂が、地下に満ちた。
ノエルは焦げた布を掲げ、静かに言った。
「この布、お前のローブと同じだ。……お前は昨日の俺と会ってたな?」
女は答えなかった。ただ、視線を逸らさず、まっすぐにノエルを見つめていた。その瞳の奥に、ノエルは見た。
昨日の自分が、何を選び、何を遺したのか。
そして、この女が、そのすべてを知っていること。
だが彼女は語らない。語れないのではない。
ただ語ることが、今の彼の選択を奪うからだ。
ノエルはゆっくりと手を下ろす。
「……昨日の俺が何を願い、何を失ったのか。それを受け止めるのは、今日の俺だ。もう、振り回されない。けど、目を逸らしもしない。俺が、この記憶を“選び取る”」
その言葉に、女は目を細めた。静かにうなずき、階段の上から姿を消す。
地の底に残ったのは、魔法陣と、本の灰と、焦げた記憶。
そして、ノエルの中で灯った確かな意志だった。
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