第3話「第3倉庫、鍵は“昨日の自分”」

地下区画への階段を降りるたび、空気が変質していく。

湿った空気に鉄錆が混じり、さらに魔力の澱みが肌を刺した。

この場所は何かを「封じた」空間その特有の圧力が、重くノエルの肩にのしかかる。


彼は無言で進み、やがて最奥の鉄扉の前で足を止めた。

分厚く錆びついた扉には、複数の封印札。魔力は劣化しているが、完全には消えていない。


ノエルは右手をかざす。

淡く浮かび上がる魔法陣。それが青白い光を放ち、やがて霧のように消えた。


「……やっぱり、昨日の俺が通ったか」


その呟きに、思わず自分で驚く。記憶は喪われている。それでも、この空間に来ることに違和感はなかった。

まるで身体が“覚えていた”ように。


(中に“昨日の俺”が何かを残した。それなら……)


鍵穴を見る。鍵はない。だが、隙間から魔素が滲んでいる。

物理的な封印ではない。扉の奥には、まだ終わっていない何かが存在していた。


ノエルが魔力感知に集中しかけたーそのときだった。


「また“忘れた顔”だな。ほんとに毎回そうなんだな、お前は」


背後からの声に、ノエルは反射的に振り返った。

そこに立っていたのは、十三歳ほどの少年。栗色の髪、鋭い目つき。だがその瞳は子どものものではなかった。

長い年月、同じ日を繰り返し見続けた者だけが持つ、深い虚無と冷たさがそこにあった。


「……誰だ?」


「リアム。昨日のお前に言われて来た。ここで鍵を渡せってさ」


リアムはポケットから古びた鍵と一枚の紙片を取り出し、ノエルに差し出した。

ノエルはそれを受け取る。紙には、見覚えのある筆跡でこう記されていた。


この中には真実がある。でも“入るかどうか”は今の君が決めろ。

リアムは信用できる。任せろ。

ただし忠告する。“開けた瞬間、次の死が始まる”。


筆跡は、紛れもなく自分のものだった。

“昨日の自分”が、“今日の自分”に残した警告。

だがその文面には、理性と狂気の狭間に立つ者の不安定さが滲んでいた。


「昨日の俺……何をした?」


問いかけに、リアムは肩をすくめる。


「あいつ、かなり壊れかけてたよ。目が死んでた。

限界だったんだと思う。あれはもう“ノエル”じゃなかったかもしれない」


「……お前は俺のことをどこまで知ってる?」


「昨日の“お前”とはいろいろ話した。でも、今日の“お前”は別人さ。

記憶がないなら、全部一からやり直しだろ?」


ノエルは黙って鍵を見つめる。開けるべきか、それとも退くべきか。

だが“昨日の自分”がここまでして何かを遺した。無視する理由は、なかった。


「……開けるよ」


鍵を差し込む。ゆっくりと回す。

錠が外れ、封印がほどける音が響く。

空気が震え、魔素の濃度が一気に高まった。


リアムが、わずかに目を伏せて言った。


「気をつけろ。中には“まだ終わっていないお前”がいる」


ノエルの手が一瞬止まる。だが、すぐに覚悟を決めて扉を押し開けた。


軋む音。広がる血の匂い。


扉の奥には、薄暗く埃っぽい倉庫。そして、床に横たわる黒い影。

黒いコート。血に濡れた右手。自分と同じ髪型と体格——何より、その背中に見覚えがあった。


「これは……俺……?」


“昨日のノエル”が、そこに倒れていた。


リアムが低く呟いた。


「君は昨日、ここで死んだ。でも、“今日の君”はまだ生きてる。

さあ、どうする?」


ノエルは答えず、拳を強く握る。

記憶はない。だが今ここに立っている“今日の自分”だけが、未来を選べる。


「なら……今日の俺は、何かを変える」


そう呟いて、ノエルは静かに“血塗れの自分”へと歩み寄った。

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