第2話 昨日に残された、自分からの手紙

ノエルは路地裏を駆け抜けた。

焼けた肉の匂いが、まだ鼻の奥にまとわりついている。誰かの視線を感じるたび、心臓が跳ねた。


冷たい石畳に、夜の残滓がまだ漂っている。

ほんの数分前、自分はあの場所にいた。倒れた男の死体。焼けた右手。そして、黒ローブの女の言葉。


『今日は、6回目だ』


信じられるはずがない。だが、記憶がない今の自分には、否定する根拠すら持てなかった。


(何がどうなってるんだ……?)


石畳の裏通りを抜けると、朝の喧騒が広がった。

浮遊する魔導灯が、通りの空に点滅を繰り返している。魔法商人たちが喉を張り上げ、あちこちで品を売りさばいていた。上空では、監視鳥スカウ・アイが旋回し、通行人を無感情に見下ろしている。


ノエルはフードを深く被った。

(隠れなきゃ……)


何も思い出せないのに、この街の構造だけは、指が勝手に知っていた。逃げ道、抜け道、死角。まるで地図のように、脳のどこかに刻まれている。

思い出ではない。体が覚えているのだ。

それが不気味で、同時に心強くもあった。


そのときだった。ポケットの中で、紙がかさりと音を立てた。


「……?」


立ち止まり、内ポケットを探る。出てきたのは、一枚のざらついた羊皮紙。魔導式の紙ではない。角が折れ、手垢で少し黒ずんだそれには、自分の筆跡でこう記されていた。


『これは“君”への手紙だ。

君がこれを読んでいるということは、記憶を失っても、まだ生き延びたということだ。

だが注意しろ。この世界には、記憶を持てる者がいる。

そしてその者は、おそらくお前を殺そうとしている。』


「……俺が、書いた?」


手が震えていた。喉がひゅっと音を立てて乾く。

“自分”からの手紙。なぜそんなものがポケットに入っていたのか。しかも、「記憶を持てる者が、お前を殺そうとしている」とは……。


(これは罠か? それとも……)


その瞬間、背後で何かが崩れ落ちる音がした。


「起きたばかりなのに、もう見つけたのか。優秀だな、ノエル」


ゾクリと背筋が凍った。振り返ると、そこには

また彼女がいた。


黒ローブの女。

銀の髪が朝の風を受けて揺れ、仮面のように無表情な顔がこちらを見つめている。

その目だけは、氷のように冷たく、何もかもを見透かしていた。


「……また、君か」


思わず声が漏れた。その響きに、自分でも驚く。

さっき会ったばかりのはずなのに、“何度も繰り返している”ような錯覚が胸にこびりついている。


女は、わずかに目を細めた。

その仕草には、諦めにも似た疲労の色が一瞬だけ混ざっていた。


「でも、それは読まないほうがいい。どうせまた、捨てることになる。……君は毎回、それを信じられなくなるから」


「……毎回?」


ノエルは紙を握り締めた。

手の中の言葉が、まだ自分の中に残る“何か”を呼び起こしそうで、怖かった。

だが、それ以上に知りたかった。


「もし、毎回書いてるなら……俺は、いったい何を伝えたかったんだ?」


女は肩をすくめた。


「それは君自身にしかわからない。答えは、君の中にある。君だけが、それを証明できる」


その声には、ごくわずかだが……名残惜しさすら感じられた。


「……証明? 何を?」


女は応えず、ただ視線をそらした。その先には、空を巡るスカウ・アイ。

あの監視鳥は“記憶保持”の反応を探知できると噂されている。


ノエルはもう一度、紙を開いた。

文の最後に、こう記されていた。


『すべての答えは、【地下区画 第3倉庫】にある。

ノエルより』


「地下区画……?」


その言葉に、胸の奥で何かがざわついた。頭では思い出せない。けれど、体が反応している。

まるでそこに、かつて何かを“隠した”かのように。


(行かなきゃ……!)


そのとき、街の中心に設置された時刻塔が、重々しい音で鐘を鳴らした。


カン……カン……カン……


今日という日が、再び動き出す音だった。

繰り返す地獄の、“6日目”が始まった。

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