4-8

 部屋の中へ飛び込むようにして入っていく。

 中にはベッドに脇に詩音の母が。そして医師や看護師らしき人の姿も見える。


 それからベッドにて苦しそうな顔をした詩音の姿も。


 そうだ。詩音だ。僕が覚えていた笑顔は彼女のものだ。

 詩音の姿を見た瞬間、僕は再び全てを思い出していた。


 どうして忘れていたのかはわからない。もしかしたら詩音の願いによるものだったのかもしれない。詩音は僕に忘れてほしいと願っていた。そんな詩音の心が、僕を忘れさせていたのかもしれない。


 詩音は痩せ細った姿で、はっきりとその顔に苦悶の色が浮かんでいた。

 あるいはこんな姿を僕に見せたくなかったのかもしれない。


 それでも僕は思い出したかった。詩音のことを忘れたくなかった。

 だから歌音とのつながりを断ち切れなかった。


 そしてようやくここにたどり着いた。


「詩音!!」


 僕は大きな声で彼女の名前を呼ぶ。僕の声に詩音の母が僕達の方へと振り向く。


「新島くん? それに歌音も」


 詩音の母は僕のことを覚えていた。なら僕がここにきたことが、全てなかったことになっている訳じゃない。

 僕は詩音の元へと駆け寄っていく。


 無くしていた記憶が波のように押し寄せていた。

 取り戻した詩音への想いで僕の胸が詰まる。


「お母さん、詩音は」

「……まだ、まだ大丈夫」


 歌音の問いかけに、彼女の母は震える声で応えていた。

 病室に置かれている機械が、ぴこんぴこんと激しい音を立てていた。


 以前には眠っているようだった詩音の表情は、いまはきっきりと苦しみを浮かべていた。詩音は今まさに遠い場所へと旅立とうとしているのかもしれない。


 嫌だ。そんなのは嫌だ。これが詩音との別れになるなんて、絶対に納得できない。

 歌音もきっと同じ気持ちだったのだろう。すぐに詩音のそばに寄り添っていく。


「お姉ちゃん、お姉ちゃん、だめだよ、もどってきてよ。そっちにいっちゃだめ」


 歌音が叫ぶようにして詩音へと声をかけていた。


「思い出した。思い出したよ……詩音。でも僕は何も奇跡を起こせなかった」


 それどころか僕は全てを忘れてしまって、君の妹とデートなんてしていた。僕はたぶん歌音のことが気になりかけていた。あのまま君のことを忘れていたならば、僕は歌音のことを好きになっていたかもしれない。


 もしかしたらそれこそが詩音が望んだ世界だったのだろうか。あの時の詩音は半分は本気だった。だから不思議な力で、詩音は僕と歌音が近くにいることを望んでいたのかもしれない。でもやっぱりどんなにそっくりでも歌音は歌音だ。詩音じゃない。


 歌音もとても可愛くて、素敵な人だけれど。僕は君じゃなきゃダメなんだ。君と一緒にいたいんだ。君だけが僕の全てなんだ。


 僕の中にさまざまな想いが駆け巡っていく。


「私のせいです。私がいろいろと忘れて、拓海さんと一緒にいることを楽しいと思ってしまっていたから」


 歌音が自分を責めるような台詞を吐き出していた。


「違うよ。君のせいなんかじゃない。それを言うなら僕だって同じだ」


 僕は首を振るう。


 もしも誰かのせいであるというのなら、それは僕以外にはいないだろう。

 僕は詩音と約束したのに、何も果たせなかった。何も見つけられなかった。


 僕のせいで詩音は事故にあった。

 僕のせいで詩音は眠り続けていた。


 僕ともういちど出会うために、君は来てくれたのに、僕は忘れてしまっていた。

 僕が何か一つでも違っていれば、詩音はもっと違う形があったはずだ。


 後悔ばかりが、僕を蝕んでいく。


「ごめん。ごめんね。忘れていた。忘れていたんだ。あんなにも誓ったのに。僕は君と一緒にいるって」


 忘れたくなんて無かった。絶対に忘れないと思っていた。それなのに僕達は詩音が消えると同時に忘れていた。

 何か見えない力が僕達にそう働きかけていたかのように。


 詩音は自分の存在を消そうとしていたのかもしれない。だから僕達を忘れさせたのかもしれない。


 それでも僕はここにやってきた。ほんの少しでも何かのタイミングがずれていれば、こうして僕が詩音の元に来ることは無かった。


 だからきっと。きっと奇跡を起こせるはずだ。詩音を連れ戻せるはず。

 僕は心に強く思いながらも、でも何が出来るでもなく、ただ詩音へ声を掛けることしか出来なかった。


「そうだ。そうだよ。お姉ちゃん……私も思い出した。三人で一緒にいるって、奇跡を起こすって誓ったよね。だから、だから戻ってきて。お姉ちゃん、もういちど一緒にいたいよ」


 歌音も詩音へと声を投げかけていた。

 でも詩音には届いていない。詩音は苦しげな表情を浮かべて、それでも眠り続けているだけだ。


 詩音の母も詩音の名前を呼んでいた。先生がじっと詩音を見つめていた。

 機械の音が激しく動き、そしてやがて少しずつ小さく変わっていく。


「詩音……待って。いかないで。まだ僕との約束果たしてないよ」


 僕は詩音を呼ぶ。

 奇跡だ。奇跡を起こすんだ。もういちど詩音に会うために、奇跡を起こすんだ。


 僕は強く念じながら、詩音を呼ぶ。

 いかないで。いかないでよ。いかないでくれ。僕とデートする約束だっただろ。もういちど一緒にいたいんだよ。


 僕は君が好きなんだ。君と一緒にいたいんだ。

 だから、僕は奇跡を起こすんだ。


 そのために詩音を呼び続ける。

 だけど詩音につながった機械から発する音は、次第に小さく間隔が長くなっていく。


 詩音の体が震えていた。

 その表情に苦悶の色しか見えなかった。


 苦しんでいるのだろう。痛みを感じているのかもしれない。

 それなのに僕は何も出来ない。何も出来なかった。奇跡なんて起きる訳もなかった。


 ただ僕は声を掛けることしか出来ない。


「詩音、待ってる。僕は君を待っている。待っているんだ」


 僕の声はでも詩音には届かない。


「お姉ちゃん、いかないで。ここにいて。ここにいてよ」


 歌音が呼ぶ声も届かない。

 嫌だ。嫌だよ。どうして。やっと思い出せたのに。やっとここにたどり着いたのに。


 君と一緒にいる時間は何よりも楽しくて、かけがえが無い時間だった。


 僕は君といたいんだよ。いかないでよ。

 強く願うけれど、だけど僕達の想いはまるで届くこともなく、ただ無情に小さな音へと変わっていく。


 詩音の体が震えていた。そのたびに詩音の顔に苦悶の色が浮かんでいた。

 でもその震えすらも、やがて止まっていく。


 静かに静かに少しずつ小さく動きを止めていく。


「詩音!! 嫌だ。嫌だよ」


 僕の声は病室内に響き渡っていた。必死で彼女を呼び止めようとしていた。


 僕の心が絶望で満たされていく。

 違う違う。僕はこんな形を迎えるために君に会いにきた訳じゃない。


 君ともう一度笑いあうために僕はここにきたんだ。


 だからいかないで。いかないでよ。

 言葉にならない叫び声をあげて、必死で想いを伝え続ける。


 消えないで欲しかった。もういちど詩音がいなくなるなんて耐えられそうもなかった。心から彼女を求めていた。


 でも詩音は苦しみに喘いでいた吐息すらも、やがて微かに消えていく。


 機械は最後にピーと長い音を鳴らして、その動作を止めていた。


「残念ですが、詩音さんは今お亡くなりになりました」


 先生が無情に詩音の死を告げていた。

 僕の絶望が全身を蝕んでいく。

 そんな。嫌だ。嫌だよ、詩音。


「詩音っ、詩音……!」

「そんな……」


 先生の言葉に、皆の声が響いた。


 詩音の顔からは苦悶の色が消えていた。

 ただ本当に眠っているだけのように見えた。


 あんなに苦しみを浮かべていた表情は、いまはむしろ穏やかに見える。


 詩音はこれで苦しみから救われたのだろうか。

 詩音に苦しんでいてほしい訳じゃない。痛みを感じずにいるならば、その方が良かったのかもしれない。


 詩音が嫌な想いをしないですむなら、それは救いだったのかもしれない。

 起きてしまった事実に、なんとか救いを見いだそうとしていた。僕達にはどうしようもなかった。


 それでも納得は出来なかった。僕は受け入れられなかった。


 これでお別れだなんて、諦めることは出来なかった。

 ぼろぼろと涙をこぼしながら、それでも僕は詩音を呼び続けた。


「詩音、嫌だ。詩音っ」


 僕は詩音を呼び戻そうとして、慌てて身を乗り出していた。


 瞬間、ちゃんとしまってなかったのか、鞄の中身がベッドの上にまき散らされていく。


 ハンカチや財布やら、鞄の中身が詩音の周りを彩るように散らばっていた。


 その中に一つ。宝箱が転がっていた。詩音と僕が宝物を隠した宝箱だ。


 宝箱は転がると同時に蓋が開いて、中から二組の手紙がこぼれ落ちる。


 でも僕はそれすらも気にせずに、詩音の手をとっていた。


「もういちど君と手をつなごうって約束したじゃないか」


 強く意識していた訳では無い。


 でも約束をしていた。もういちど出会えたら、手をつなごうと。


 それは詩音が望んだ小さな願いだった。

 せめてそれだけでも叶えたかった。


 手をつないで、約束の手紙を見つめていた。


『大好きだよ。もういちどここで会いたいね。この気持ちはその時に伝えたい』

『もういちど君と会えて手をつなげたなら、きっとそれは奇跡だね』


 綴られた手紙に、こんな小さな奇跡を願った手紙に、僕は涙をこぼしていた。


 こんなちっぽけな願いすら、僕は間に合わなかった。

 君がいなくなった後にやっと手をつなげただなんて。


 後悔と絶望ばかりが僕を包み込んでいた。


 まだ手にはぬくもりが残っていた。

 詩音の体温が感じられた。


 あのときと詩音と歌音と三人きりの円陣を組んだときと変わらない。

 詩音の温もりに、僕の胸が強く痛む。


 何一つ結果を覆すことは出来なかった。

 僕は奇跡を起こすはずだったのに。そう約束したはずなのに。


「詩音約束したじゃないか。もういちどデートしようって。詩音っ……!」


 詩音の手の温もりはまだ僕に伝わってくる。

 僕は詩音の手と手をつないで。

 ただ奇跡を願っていた。


 僕が発した言葉は、どこにも届かない。

 届くはずもない。なかった。


 なかったはずなのに。


 僕は詩音の手をぎゅっと握りしめる。


 同時に詩音の手がぴくりと揺れていた。


 驚いて僕は彼女の手を見つめる。


 僕の手の温もりが、詩音の手の温もりと混ざり合っていた。


 僕の鼓動が、詩音の手へと乗り移っていくかのように。


 詩音の脈が再び鼓動を始める。


 ぴこん……ぴこん……ぴこん……。機械がまた音を立て始めていた。


「え!? これは」


 先生が驚いた声を漏らしていた。


 それもそのはずだ。詩音は確かに心臓が止まっていた。命が亡くなったことを、先生は確かめていたんだ。

 それなのに、詩音は再びここに帰ってきていた。


 でもその脈動はわずかで、どこかたゆたうようにも感じられる。


「もっと声をかけて。呼び続けて!」


 先生が僕達に慌てた声をかける。


 その言葉に僕は呆然としていた意識をこちらへと呼び戻す。


 詩音が、戻ってきた? 亡くなったはずの詩音が。

 僕達の元に約束を守りにきてくれたのか。


 僕は胸の奥が熱くなっていくのを感じていた。同時に大きな声で彼女を呼ぶ。


「詩音!? 詩音!? 戻ってきて、戻ってきてくれ。僕は君ともういちど会いたい」


 僕の声に応えるように、さらに機械が大きな音を立て始めていた。

 はっきりとした脈拍が取り戻されていく。


「お姉ちゃん!! お姉ちゃん、約束したよね。私と、拓海さんと、三人で。お願いだよ。お姉ちゃん」

「詩音。もどってきて。お母さんもまだ待っているから」


 みんなで声をかけ続ける。

 その声に応えるように、詩音の顔色が見違えるように血色を取り戻してくる。


 機械の音が正しくリズムをとるようになり始める。

 詩音は苦しみの色を浮かべることもなく、ただ本当に眠るようにその胸が確かに呼吸と共に揺れていた。


「奇跡……だ」


 先生がつぶやく。


 何が起きたのかはわからなかった。でも詩音の心音は確かに戻ってきていた。


 僕は詩音の手を強く握る。

 温かなぬくもりが確かに伝わってくる。


 詩音は、生きている。生きているんだ。詩音は戻ってきたんだ。詩音はまだ消えていない。僕達の声に応えてくれている。


 僕は詩音の手をじっと見つめる。


 もしかして、手をつないだからなのか。


 奇跡が起きたのは。


 僕達は約束をした。

 七年ぶりに出会った。


 でも僕達はほとんど触れ合うことはなかった。


 詩音が望んでいたことは、もういちど再会して手をつなぐことだった。


 詩音が残した『もういちど君と会えて手をつなげたなら、きっとそれは奇跡だね』って願いは、本当に小さな奇跡を願っていた。


 そんな小さな奇跡を叶えたことで、本当の奇跡も引き寄せられてきたのか。

 わからない。わからなかったけれど、確かにいま詩音は戻ってきていた。

 ぼろぼろと涙をこぼしながら、でもさっきとは違う涙を落としていた。


「詩音、詩音……!」


 僕は彼女の名前を呼ぶ。

 僕にはそれだけしか出来なかった。


 でもその声は、確かに届いていたんだ。


 良かった。僕は。君と一緒にいたかった。

 君が生きていてくれるなら。君が戻ってきてくれるなら。


 僕は他に何もいらない。


 だから、だからさ。詩音。もういちど、もういちど戻ってきてくれ。

 君の声がもういちど聴きたい。


 君と二人で生きていきたいんだ。


「詩音。戻ってきてくれ! 詩音!!」


 大きな声で詩音を呼ぶ。

 同時に詩音がゆっくりと目を開けていた。


「……ん、おはよ。あれ、拓海くん。それに歌音やお母さんまで、どうしたの」


 詩音はこんな時にもゆっくりとした声で告げていた。


「詩音!!」


 僕は詩音の手をぎゅっと握りしめる。


「お姉ちゃん、お姉ちゃん」


 歌音が隣で泣いていた。詩音達の母も涙している。


「みんなどうして泣いてるの。そんなに私と会えて嬉しかった?」


 詩音はちょっととぼけた声で告げる。


 君はこんな時まで、ちょっとだけ意地悪なことを告げるんだね。

 でも変わらない君をみて、僕は心底嬉しかった。


 君がいてくれることに、僕は涙せずにはいられなかった。

 そうだよ。嬉しいんだよ。君がいることが。君がここにいてくれることが。


 奇跡が、起きた。


 そうとしか言い様がなかった。


 間に合わなかったと思っていた。でもまだ君はここにいたんだね。

 小さな約束、小さな奇跡が、もういちど僕達をつなぎ合わせてくれたんだ。

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