第八章  皮肉な現実



「佐伯博士、検査の時間です」


制服を着た女性職員が僕の研究室のドアを開けた。毎週行われる健康診断だ。


「わかりました」


僕は実験器具から手を離し、立ち上がった。


特別研究保護施設での生活も3ヶ月が経過していた。世界の状況は日々悪化の一途をたどっていた。男性人口は感染前の65%程度まで減少し、新たな社会秩序が確立されつつあった。


医務室では、白衣を着た女性医師が待っていた。


「お久しぶりです、佐伯博士」


彼女は微笑んだ。この医師とは顔見知りになっていた。


「今日は通常の検査に加えて、遺伝子グレード評価も行います」


「遺伝子グレード?」


「はい、男性保全計画の一環です。全ての保護男性の遺伝的価値を査定します」


心臓が早鐘を打った。先月発表された「男性保全計画」が、いよいよ実施される段階に入ったようだ。


検査は通常より詳細だった。血液検査、精液サンプルの採取、身体測定、認知機能テスト…。まるで、品種改良のための家畜のような扱いだった。


「結果はいつわかりますか?」


「一週間以内に通知があるでしょう」


検査を終え、廊下を歩いていると、見知らぬ女性たちの一団が施設内を視察していた。彼らは高級そうな服装で、威厳のある雰囲気を漂わせていた。


「あれは何だ?」


同じく検査を終えた吉田博士に尋ねた。


「視察団だよ。政府高官や企業幹部たちらしい」


「何のために?」


「噂では、A級男性の『割り当て』を決めるためだとか」


「割り当て?」


「ああ。特別な地位の女性たちには、A級男性が『割り当て』られるそうだ。研究支援という名目で…」


吉田博士の表情は暗かった。


「実質的には、現代版のハーレムだな。権力者が優秀な男性を分配する仕組み」


僕は言葉を失った。まさに世界が逆転したのだ。かつては男性が権力を握り、女性を従属させる社会が一般的だった。今や女性が権力を握り、男性を「資源」として分配する社会が生まれつつあった。


研究室に戻ると、篠原が待っていた。彼女は外部から通勤してくる数少ない研究パートナーの一人だった。


「検査はどうでしたか?」


彼女は小声で尋ねた。


「遺伝子グレード評価も行われた。結果は一週間後だ」


「そうですか…」


彼女の表情に不安が浮かんだ。


「プロジェクトRの進捗は?」


僕たちはまだ解毒剤の開発を秘密裏に進めていた。


「理論的には完成しています。小規模なテストも成功しました」


彼女はUSBメモリを密かに僕に渡した。


「これに最新データが入っています。MSS-V5にも効果があることが確認できました」


僕はUSBを受け取り、すぐにポケットに入れた。


「あと必要なのは大規模生産と配布の方法だ」


「それが問題です。全ての医薬品生産施設は厳重に管理されています」


篠原の表情は暗かった。


「何か新しい情報は?」


彼女は周囲を確認してから、小声で言った。


「外部の抵抗組織と接触しました」


「抵抗組織?」


「はい。『男性解放戦線』と呼ばれる秘密組織です。男性の保護政策に反対する女性たちが中心となって活動しています」


「彼らに解毒剤の情報を?」


「まだです。でも、協力関係を築ければ、大規模配布の可能性も…」


会話の途中、研究室のドアが開き、施設長の速水女史が入ってきた。


「失礼します。佐伯博士、ちょっとお話があります」


篠原と目配せし、僕は立ち上がった。


「何でしょうか」


「特別来客が佐伯博士との面会を希望されています。すぐにお越しいただけますか」


不思議に思いながら、僕は速水女史に従った。施設の中でも普段は立ち入ることのない「ゲスト棟」へと案内される。


豪華な応接室に通されると、そこには先ほど見かけた視察団の一人、50代前後の威厳ある女性が座っていた。


「佐伯透博士ですね。お会いできて光栄です」


彼女は立ち上がり、僕に手を差し出した。


「三條康子と申します。科学技術振興機構の理事長を務めております」


「どういったご用件でしょうか」


僕は緊張しながら尋ねた。


「率直に申し上げます」


三條は僕をじっと見つめた。


「佐伯博士のような優秀な科学者は、この施設では才能が埋もれています。私どもの特別研究機関で働いていただきたいのです」


「特別研究機関…」


「はい。東京郊外に新設された最先端施設です。MSSの研究に特化した、国家プロジェクトの拠点となります」


彼女は続けた。


「もちろん、現在よりはるかに良い環境を用意します。個人専用の研究室、最新の設備、そして…より多くの自由が与えられます」


「自由とは?」


「施設内での移動の自由、限定的ではありますが外出の許可、そして…」


彼女は少し間を置いた。


「私の個人邸宅に隣接した住居を用意します。私の『保護』の下で生活していただくことになります」


瞬時に理解した。これが噂の「割り当て」だ。権力者が優秀な男性を自分の「コレクション」に加えるシステム。


「研究チームはどうなりますか?篠原博士との共同研究は…」


「もちろん、必要な研究者は同行可能です。篠原博士の能力も高く評価しています」


三條は微笑んだ。


「考える時間をいただけますか」


「もちろん。ただ、長くはお待ちできません。他の候補者もいますので」


彼女は名刺を僕に渡し、立ち上がった。


「明日までに返事をいただけると幸いです」


彼女が去った後、僕は混乱した頭で研究室に戻った。篠原に状況を説明すると、彼女は複雑な表情を浮かべた。


「『割り当て』されるということですか…」


「そういうことになる」


「でも、それは機会かもしれません」


彼女の目が輝いた。


「より自由な環境で、解毒剤の研究を進められる可能性が」


「確かに…でも」


僕は言葉を詰まらせた。三條の「保護」下に入るということは、別の形の囚われの身になることを意味する。しかし、現状より良い環境で研究を進められるのも事実だ。


「考えておく」


その夜、僕は個室でUSBのデータを確認した。篠原たちが開発した解毒剤は、理論上はほとんど完成していた。あとは大規模生産と配布の方法だけだ。


三條の申し出を受ければ、より良い研究環境を得られる。しかし同時に、彼女の「コレクション」の一部となる。


窓から見える月を眺めながら、僕は考え続けた。


---


「佐伯博士、おめでとうございます」


翌週、施設長の速水女史が僕に封筒を手渡した。


「遺伝子グレード評価の結果です。A+ランクです」


僕は封筒を開け、中の書類を見た。「A+」という最高ランクが記されていた。知的能力、健康状態、遺伝的特性などが総合評価され、最高評価を得たようだ。


「これにより、佐伯博士は特別待遇の対象となります」


「特別待遇?」


「はい。三條理事長からのオファーを含め、複数の重要ポジションへの『割り当て』候補となります」


速水女史の表情は羨望と皮肉が入り混じっていた。


「男性人口が減少した今、A+ランクの男性は国家の宝です。大切に扱われますよ」


彼女の言葉には、皮肉な響きがあった。「大切に扱われる」とは、つまり、より良い檻に入れられるということだ。


僕は書類を受け取り、研究室に向かった。途中、同じ施設の男性たちとすれ違う。彼らの表情は暗く、諦めに満ちていた。おそらく彼らの多くはB級かC級に分類されたのだろう。


研究室では篠原が待っていた。彼女の表情は緊張していた。


「どうなりましたか?」


「A+だった」


彼女はほっとしたような、複雑な表情を浮かべた。


「それなら…三條理事長のオファーを受けるべきだと思います」


「そうだな…」


「それと、もう一つ重要な情報があります」


彼女は声を落とした。


「抵抗組織からの連絡です。彼らは大規模な作戦を計画しています。保護施設からの男性の脱出と、政府への抗議行動を」


「いつ?」


「来週です。そして…解毒剤の情報を彼らに提供しました」


僕は驚いて彼女を見た。


「大丈夫なのか?」


「彼らには製薬会社とのコネクションがあります。非公式ルートでの生産が可能かもしれません」


希望の光が見えた気がした。しかし同時に、危険も大きい。


「三條のオファーを受けよう」


僕は決断した。


「より良い環境で研究を進められる。そして…解毒剤の完成のためには、それが最善だ」


篠原は頷いた。


「私も同行します。研究チームの一員として」


---


一週間後、僕は三條の個人邸宅に隣接する「ゲストハウス」に移っていた。予想通り豪華な環境だったが、監視カメラと警備員の存在が、これが「保護」という名の檻であることを思い出させた。


「どうですか、環境は気に入っていただけましたか?」


三條が訪れてきた。彼女は優雅な雰囲気を漂わせ、僕を歓迎するような素振りを見せた。


「はい、素晴らしい施設です」


「明日から新しい研究所での勤務が始まります。篠原博士も既に手続きを済ませました」


「ありがとうございます」


「佐伯博士」


彼女は僕に近づいた。


「私はあなたの才能を高く評価しています。このパンデミックを終わらせるカギを握るのは、あなたのような科学者です」


彼女の言葉には誠意が感じられた。しかし同時に、僕を「所有物」のように扱う態度も垣間見えた。


「最善を尽くします」


その夜、篠原が密かに訪れてきた。彼女は警備の隙をついて、僕の住居に忍び込んだのだ。


「明日、作戦が実行されます」


彼女は小声で言った。


「どんな作戦だ?」


「複数の保護施設で同時に脱出作戦が行われます。そして、主要都市で大規模な抗議活動が」


彼女は不安そうな表情で続けた。


「そして、同時に解毒剤の情報が公開されます」


「公開?」


「はい。ウイルスの人工的起源と、解毒剤の合成方法が」


僕は息を呑んだ。それは危険な賭けだ。


「僕たちの関与も…」


「明かされません。そこだけは約束させました」


彼女は僕の手を握った。


「これで終わらせることができるかもしれません」


彼女の言葉に希望を感じる一方、不安も消えなかった。


---


翌日、予想通り混乱が起きた。


「複数の男性保護施設で大規模脱出」

「都内で男性解放を求める抗議活動」

「MSウイルスは人工的に作られたものと告発」

「解毒剤の合成方法がネットで公開される」


三條の専用研究所では緊張が走った。僕と篠原は他の研究者たちと共に、急遽緊急会議に召集された。


「状況を説明します」


三條が厳しい表情で言った。


「男性解放戦線と名乗る過激派組織が、大規模なテロ活動を実行しました。さらに危険な情報を拡散しています」


彼女はスクリーンに映し出された告発文書を指した。


「これによれば、MSSウイルスは人工的に作られ、特定の研究機関が関与しているとのことです。さらに、解毒剤の合成方法も公開されました」


研究者たちの間でざわめきが起きた。


「我々の任務は、この情報の真偽を確認し、本当に効果のある解毒剤なのかを検証することです」


三條は僕を見た。


「佐伯博士、あなたはMSSウイルスの第一人者です。この情報の分析をお願いします」


僕は緊張しながら頷いた。分析を任されるということは、自分の犯した罪を自分自身で検証することになる。皮肉な運命だ。


作業が始まり、研究チームは公開された情報の検証に取り掛かった。もちろん、篠原と僕にとっては、それが正確な情報であることはわかっていた。


「この分子構造…本当に効果がありそうです」


別の研究者が驚いた様子で言った。


「よく考えられています。理論上は、確かにウイルスの作用を中和できる可能性が高い」


僕は平静を装いながら分析結果を報告した。


「サンプルを合成して、テストする必要があります」


三條は即座に指示を出した。


「直ちに試作品を作りなさい。優先度最高です」


こうして、皮肉なことに、僕たちが密かに開発していた解毒剤が、今や公式プロジェクトとして急ピッチで進められることになった。


夜、僕の居室に篠原が訪れた。


「予想以上の混乱です」


彼女は疲れた表情で言った。


「保護施設からの脱出者は数千人規模に上り、各地で衝突が起きています」


窓から見える東京の夜景には、いくつかの場所で炎や煙が見えた。


「犠牲者は?」


「まだ正確な情報はありませんが…」


彼女は言葉を詰まらせた。


「解毒剤の情報は広まっている?」


「ええ。インターネット上では拡散が止まらず、小規模な製造が各地で始まっているようです」


「政府は?」


「混乱しています。情報統制を試みていますが、もはや手遅れです」


僕たちは静かに夜景を見つめた。世界が大きく変わろうとしている。


「僕たちが始めたことだ」


僕は呟いた。


「そして、僕たちが終わらせる」


---


数日間、混乱は続いた。男性保護施設からの脱出者は増え続け、各地で衝突が起きた。一方で、解毒剤の情報は急速に広まり、非公式ルートでの製造と配布が始まった。


僕たちの研究チームも、公式に解毒剤の開発と検証を進めていた。テスト結果は良好で、MSS-V5までの全ての変異株に効果があることが確認された。


「これは革命的です」


三條は検証結果を見て言った。


「もしこの解毒剤が大規模に配布されれば、パンデミックは終息する可能性があります」


「しかし、そうなると…現在の社会体制は」


別の研究者が心配そうに言った。


「変わらざるを得ないでしょう」


三條は厳しい表情で答えた。


「男性保護政策は、パンデミック対策として正当化されてきました。パンデミックが終われば…」


彼女の言葉は重かった。


その夜、三條が僕の居室を訪れた。


「佐伯博士、率直に話しましょう」


彼女はソファに座った。


「私は最初から気づいていました。このウイルスが人工的に作られたものだということに」


僕は息を呑んだ。


「そして…あなたが関与している可能性も」


「三條さん、それは…」


「否定する必要はありません」


彼女は手を上げた。


「私は科学者として、あなたの業績を評価しています。どんな目的であれ、そのような高度なウイルスを設計し、さらに解毒剤まで開発できる能力は驚異的です」


彼女は意外な言葉を続けた。


「実は、解毒剤の大規模配布を承認するよう、政府に働きかけているところです」


「本当ですか?」


「ええ。このパンデミックは終わらせるべき時が来ました」


彼女は立ち上がり、窓の外を見た。


「男性保護政策には、当初から疑問を持っていました。しかし、権力の構造上、公には反対できなかった」


「なぜ今、解毒剤の配布を?」


「現状は持続可能ではありません。社会の分断が深まり、生産性は低下し、国際関係も悪化しています」


彼女は振り返った。


「それに…」


彼女の声が柔らかくなった。


「私には息子がいます。海外留学中に感染し、重症化しました。彼を救いたいのです」


僕は彼女の本音を聞いて、複雑な思いを抱いた。権力者にも、人間らしい一面があるのだ。


「解毒剤の配布は、いつ始まりますか?」


「明日、緊急閣議で決定される予定です。私もそこに出席します」


彼女は僕の肩に手を置いた。


「あなたの協力に感謝します、佐伯博士」


---


翌日、予想通り政府は解毒剤の大規模配布を承認した。公式には「新薬の緊急承認」という形を取ったが、実質的には僕と篠原が開発した解毒剤だった。


「解毒剤の緊急配布開始」

「MSS感染者に希望の光」

「男性保護政策の見直しを検討」


ニュースは解毒剤の配布と、それに伴う政策変更の可能性を報じていた。


研究所では、僕と篠原を含む研究チームが24時間体制で解毒剤の製造と品質管理に携わっていた。


「このペースで行けば、1ヶ月以内に主要都市の感染者全員に行き渡ります」


篠原が報告した。


「そして、3ヶ月以内に世界中に…」


「終わりが見えてきたな」


僕は疲れた表情で言った。この半年間、常に罪の意識と恐怖に苛まれていた。ようやく、僕たちの犯した罪を少しでも償う機会が訪れたのだ。


しかし、すべてが順調に進むわけではなかった。一部の過激派は、男性保護政策を維持すべきだと主張し、解毒剤の配布を妨害する動きを見せた。また、保護施設を管理する組織の多くは、男性の解放に抵抗した。


「デモ隊と警察が衝突」

「一部保護施設で解毒剤の配布拒否」

「新たな社会秩序を求める声と、旧体制復帰を求める声が対立」


社会は大きな変革期を迎えていた。


そんな中、ある日、僕の居室に三條が訪れた。彼女の表情は重々しかった。


「佐伯博士、重要な話があります」


彼女はタブレットを見せた。そこには僕と篠原の写真と、「MSS原因ウイルスの開発者」という見出しがあった。


「これは…」


「まだ公開されていません。しかし、情報機関が証拠を掴んだようです」


「どうなりますか…」


「正直言って、厳しい状況です。テロ行為として裁かれる可能性が高い」


僕は覚悟を決めた。


「そうなるだろうと思っていました」


「しかし、私には提案があります」


三條は声を落とした。


「逃げるチャンスを用意しました。今夜、私専用のヘリコプターが離陸します。海外への脱出ルートも確保しています」


「なぜそこまで?」


「あなたの科学的才能は貴重です。それに…」


彼女は微笑んだ。


「私の『コレクション』を手放したくないというのもあります」


皮肉な申し出だった。逃亡者として生きるか、彼女の「所有物」として生きるか。


「篠原は?」


「彼女も含めて、計画しています」


僕は考え込んだ。逃げれば、罪から逃れることになる。しかし、それは責任からも逃げることを意味する。


「ありがとうございます。しかし…」


僕は決断した。


「自分の犯した罪から逃げるわけにはいきません」


三條は驚いた様子だった。


「本当に?裁判になれば、死刑も…」


「わかっています。それでも、自分の行動に責任を取るべきです」


彼女は長い間僕を見つめ、やがて頷いた。


「あなたの決断を尊重します」


彼女が去った後、僕は篠原に連絡した。彼女も同じく、逃亡を拒否する決断をしていた。


「一緒に責任を取りましょう」


彼女の声には覚悟が感じられた。


---


「MSSウイルス開発者、逮捕される」

「佐伯透博士と篠原美咲博士、パンデミックの首謀者として起訴へ」

「世界を震撼させた『オスベラシ計画』の全容が明らかに」


逮捕から一週間後、僕は独房の中でニュースを見ていた。予想通り、僕と篠原は重大犯罪で起訴された。国際テロ、大量殺人未遂、生物兵器開発など、罪状は多岐にわたった。


同時に、解毒剤の配布は続いていた。MSS感染者の回復例が報告され始め、社会は少しずつ正常化に向かっていた。男性保護政策も段階的に緩和され、一部の施設では男性の解放が始まっていた。


「面会です」


看守が独房のドアを開けた。面会室に入ると、そこには河野の姿があった。


「佐伯…」


彼の表情は複雑だった。怒り、悲しみ、そして何か別の感情が混じっていた。


「河野…来てくれたのか」


「ああ。真実を知りたかった」


「すまない…」


僕は頭を下げた。親友を裏切り、危険にさらした罪悪感で胸が締め付けられた。


「なぜだ?」


彼の声は震えていた。


「なぜそんなことを…」


「理由など、今となっては言い訳にしかならない」


僕は正直に答えた。


「透明人間だった僕が、存在を認められたかった。女性に振り向いてもらいたかった。そんな愚かな願望から始まったことだ」


河野は長い間黙っていた。


「君がそんな計画を…信じられない」


「ああ。僕自身も、今では信じられない」


「多くの命が失われた…」


「わかっている。償いようのない罪だ」


再び沈黙が流れた。


「ただ一つだけ」


河野が静かに言った。


「解毒剤を開発してくれたことには感謝している。僕も感染したが、回復できた」


「それだけでは、全てを埋め合わせることはできない」


「ああ、もちろんだ」


彼は立ち上がった。


「裁判では、全てを正直に話せ」


「ああ」


「それじゃあ…」


彼は去り際に振り返った。


「さようなら、佐伯」


河野が去った後、僕は面会室の椅子に座ったまま、長い間動けなかった。


---


裁判は世界中の注目を集めた。「オスベラシ計画」の詳細が明かされ、僕と篠原の証言は連日のように報じられた。

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