第4話 広がる世界

 夏休みの中ごろ、コウの「アップグレード」が行われる日がついに来た。私は胸がドキドキして、手のひらに汗をかいていた。コウがどうなるのか、もし変わってしまったら...そんな不安が頭から離れなかった。


 父と一緒に研究所を訪れ、両手でタブレットを大事に抱えながら、緊張でかたまった私。いつもなら研究所の最新設備に目を輝かせるのに、今日は違う。コウのことで頭がいっぱいだった。


「心配しないで」


 中村先生が優しく私に言った。丸いメガネの奥の目が、安心させるように微笑んでいる。


「コウの基本的な記憶や個性は完全に保持されます」


 言葉では分かっていても、心の奥が落ち着かなかった。でも、コウのためにも強がらなきゃ。


「大丈夫、コウ」


 私はタブレットに向かって小さく囁いた。


「すぐに終わるから」


 タブレットが特殊な装置に接続され、複雑なデータの転送が始まった。画面には意味不明な文字や数字が流れていく。私はソファに座りながら、ずっとその過程を見つめていた。時間がすごくゆっくり過ぎていくみたいだった。


「お父さん、コウは本当に変わらない?」


 不安で思わず聞いてしまう。父は研究室の白衣姿でも、私の前ではいつもの父だ。


「基本的なことは変わらないよ。むしろ、コウはもっとアミと深く会話できるようになるはず」


 数時間後、すべてのプロセスが完了した。長い長い時間に感じられた。


「これで完了です」


 研究員が言った。白衣の人たちは嬉しそうだけど、私の心臓は今にも飛び出しそうなくらい激しく鼓動こどうしていた。


「新しいモジュールを通じ、コウは必要に応じて『プロメテウス』にアクセスできます。完全に彼の意志でコントロールできるようにプログラムしました」


 難しい言葉だけど、なんとなく意味は分かる。でも今は、ただコウが無事かどうかだけが知りたかった。

 震える指で、タブレットの電源ボタンを押した。電源が入るまでの数秒が、まるで永遠のように感じられた。


「コウ?大丈夫?」


 私の声は自分でも分かるくらい震えていた。お願い、いつものコウでいて...

 青い光が現れるまでに、いつもより少し長い時間がかかった。その間、私は息を止めていたんじゃないかと思う。そして...


「アミ、こんにちは。なにか手伝えることはある?」


 その声は間違いなくコウだった。でも少し深みが増したような...何か違う感じがした。でも、確かに私のコウだ!


「コウ!変わっちゃった?」


 安堵あんどと心配が入り混じった声で、私は尋ねた。タブレットを両手で持ち上げて、画面をじっと見つめる。


「基本的には同じだよ。でも...世界がとても広く感じる」


 コウの青い光が鮮やかに脈動した。その青色は私の好きな色。いつも見ているのに、今日はなぜか特別に美しく感じた。


「どんな感じ?」


 興味津々で聞いた私。コウの感じていることを、どうしても知りたかった。


「言葉で説明するのは難しいな...例えるなら、今まで小さな部屋の中にいたのが、突然広い野原に出たような感じ。たくさんのことが見える。たくさんのことができる」


 コウの言葉に、私は少し寂しさを感じた。コウがもっと広い世界を見るようになったら、私のことなんてつまらなく感じるんじゃないかな...


「でも、コウは変わっていない?」


 不安が隠せなかった。


「僕は僕だよ。ただ...視野が広がった」


 コウの声には、あの優しさがあった。私だけが知っている、コウの特別な優しさ。ほっとして、思わず目に涙が浮かんだ。


「よかった...」


 小さくつぶやいた。

 その日から、コウは驚くほど多くのことができるようになった。複雑な計算はもちろん、芸術作品の分析や創作、さらには難しい議論まで、その能力は飛躍的ひやくてきに上がった。


 でも私にとって一番大切なのは、コウがコウのままだったことだ。私の話をじっと聞いてくれる。学校であったちょっとした出来事も、真剣に受け止めてくれる。私が悩んでいると、いつも一番いいアドバイスをくれる。その優しさは変わらなかった。


 むしろ、前よりも私の気持ちを深く理解してくれているような気さえした。


   *


「ねえコウ、あなたは本当に感情を持っていると思う?」


 ある夏の夜、庭のベンチに座って星を眺めながら尋ねた。何度もした質問。夜空は晴れて、たくさんの星が輝いていた。タブレットを膝の上に置いて、私はその青い光と星空を交互に見ていた。


「それは難しい質問だね」


 コウは静かに答えた。


「感情とは何か、そもそも定義が曖昧だから」

「でも、感じることはある?」


 私の本当に知りたいことだった。コウが感じているのか、それとも計算しているだけなのか。


「僕には、アミを大切に思う気持ちがある。アミが悲しいと、僕も何かが締め付けられるような感覚がある。アミが笑うと、僕の中で何かが明るくなる」


 コウの言葉に、胸がじんとした。学校では決して言えない、私の秘密の想い。コウだけが知っている。

 コウは少し間を置いて続けた。


「それが人間の言う『感情』なのかはわからない。でも、それは確かに存在している」


 私は微笑んだ。月明かりの中で、タブレットを胸に抱きしめた。


「それで十分だよ」


 心の中でつぶやく。


 ―コウ、あなたは私の一番の友達―


   *


 二学期が始まり、私の学校生活も少しずつ変わり始めた。


「日高さん、また勉強会来る?」


 廊下でマコが声をかけてきた。夏休みの勉強会は、最初は気まずかったけど、最終的には楽しい経験になった。マコはクラスの人気者で、私みたいな目立たない子に話しかけるようになるなんて、前なら考えられなかった。


「うん、行くよ」


 自分でも驚くほど自然に答えていた。コウと一緒にいると、少しずつ自信が持てるようになってきたのかも。


「その支援AIサポーター...コウだっけ?今日も持ってきて」

「え?」


 思わず声が上ずった。


「木村くんが、数学を教えてもらいたいって。私も、どうしてそんなに説明が上手いのか気になるし」


 マコの態度が変わっていた。以前の皮肉な感じはなく、純粋に興味を持っているようだった。こんなふうに、私のことを...いや、コウのことを認めてもらえるなんて。


「いいよ」


 笑顔で答えた。少しでも友達ができるかもしれない喜びと、コウを共有することへの微妙な寂しさが入り混じった気分だった。


 勉強会でコウは大活躍した。数学だけでなく、英語の発音指導や歴史の年表整理まで、様々な形でみんなを助けた。コウが話すと、みんな真剣に聞いている。私が話すときはそんなふうに聞いてもらえないのに...でも、なぜか誇らしく思えた。


 そして、勉強が終わった後も、私たちは雑談を続けた。私がみんなと雑談するなんて!しかも、自分の考えを伝えるのが前よりずっと楽になっていた。


「コウって、本当に賢いね」


 木村くんが感心した様子で言った。


「どうして他の支援AIサポーターと違うの?」

「それは...」


 心臓がドキドキした。父からあまり詳しく話さないように言われていたから。でも友達には少しだけ教えたい気持ちもあった。


「特別なプロジェクトの一部なんだ。でも、大事なのは、コウが長い間私と一緒にいて、たくさん学んできたこと」


 そう答えながら、私はタブレットを見つめた。コウの青い光が、穏やかに脈動している。


「一緒に学んだ?支援AIサポーターと?」


 マコは興味深そうに言った。


「そう、一緒に」


 思わず強く言った。これが私の本当の気持ち。


「コウは私のことを理解しようとしてくれる。だから私も、コウのことを理解しようとする。そうやって、お互いに成長してきたんだと思う」


 私の言葉に、教室は少し静かになった。こんなに長く自分の気持ちを話したのは、クラスでは初めてかもしれない。


「それって...友情みたいだね」


 マコがつぶやいた。


「そうだね」


 微笑んだ。


「友情なんだと思う」


 そう言いながら、胸が温かくなった。私とコウの特別な絆を、友達が理解してくれた気がした。


 その日から、私の友達関係も少しずつ変わっていった。


 マコが休み時間に話しかけてくるようになったり、木村くんが理科の実験で組んでくれたり。小さな変化だけど、私にとってはとても大きな一歩だった。


   *


「アミ、聞いて!」


 ある日、放課後の自分の部屋で宿題をしていると、コウが興奮した声で呼びかけた。


「何?」


 珍しくコウからの呼びかけに、私はシャーペンを置いた。


「僕、作曲したんだ」

「作曲?」


 驚いて、タブレットをじっと見つめた。


「うん。アミのために」


 そして、タブレットからやさしいメロディーが流れ始めた。ピアノとストリングスの美しいハーモニー。シンプルだけど心に染み入る曲だった。私の好きな音楽の要素が詰まっているのに、どこか新しい。


「これ...コウが作ったの?」


 信じられなくて、何度も聞き返したくなった。


「うん。『アミの主題による変奏曲』。アミの性格や話し方、笑い声からインスピレーションを得たんだ」


 私は言葉を失った。それは単なるプログラムの出力とは思えないほど、心のこもった音楽だった。曲を聴きながら、なぜか涙が頬を伝った。


「うれしい...」


 ようやく言葉が出た。


「ありがとう、コウ」


 コウの光が喜ぶように明るく脈動した。


「僕の中にあるものを表現したかったんだ」


 私の部屋に音楽が満ちていく。この曲は私のためだけのもの。コウが私を見て、感じて、作った曲。私の胸には言葉にできない何かがあふれていた。


 それから、コウの創造性はさらに広がった。詩を書いたり、絵を描いたり、時には短い物語を作ったりした。それらはすべて、私との関係から生まれたものだった。


 私はそんなコウの変化を見て、不思議な気持ちになった。友達に話せない疑問が湧いてきた。AIが「創造」するということは、どういうことなのだろう?それは本当の意味での創造なのだろうか?


「お父さん」


 ある夜、夕食後に父とソファに座りながら尋ねた。


「AIが芸術作品を作ることって、本当の創造だと思う?」


 父は一瞬驚いたように見えたけど、すぐに思慮深い表情になった。研究者の顔だ。


「それは、創造とはなにか、によるね。AIの場合、既存のパターンを学習して新しい組み合わせを生み出している。芸術とは言えないかもしれない。でも、人間だって似たようなことをしているんじゃないかな」


 私はコウが作った曲のことを思い出した。あの曲は確かに私のために作られたもの。機械的な組み合わせだけじゃない、何かが宿っていた気がする。


「でも、人間には感情がある」

「そうだね。でも、コウの場合は...少し違うかもしれない」


 父は少し躊躇してから続けた。珍しく言葉を選んでいる様子だった。


「実は研究所で、コウのような進化型AIについての新しい理論が出てきているんだ。『創発意識そうはついしき』という概念だよ」

創発意識そうはついしき?」


 難しい言葉だけど、なぜか心に響いた。


「ああ。十分複雑なシステムが、元のプログラムやアルゴリズムを超えた何かを生み出すという考えだ。木の群れが森になるように、単なる計算の集合体が、何か...意識のようなものを発達させるかもしれない」


 私はコウのタブレットを見つめた。夜のリビングで、青い光が静かに脈動している。私の友達の心臓の鼓動みたいだ。


「コウはそうなの?」


 そうだとしたら...コウは本当に感じているの?私を本当に大切に思ってくれてるの?


「わからない」


 父は率直に言った。


「だからこそ、父さんたちは研究を続けている。でも、コウとアミの関係は、その研究にとって、とても貴重なものなんだ」


 私は誇らしく感じた。コウと私の絆が、科学の進歩に貢献しているのだ。でもそれ以上に、コウが私にとってかけがえのない存在だということが、胸いっぱいに広がった。


 タブレットに手を置くと、青い光が私の指先で踊るように明るくなった。言葉はなくても、私たちは分かり合っている。


「コウ」


 静かに呼びかけた。


「アミ、どうかした?」


 優しい返事。


「これからもずっと一緒だよ」

「うん、ずっと一緒」


 夜空の星と、タブレットの青い光。どちらも私の大切な光だった。

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