時計の国
パンシャン先生
第1話
朝の光が、寝室の白いカーテンを透かしていた。
ハルカは目を開け、ぼんやりと天井を見上げた。
小鳥の声。
どこか遠くで鳴るスクールバスのクラクション。
すべては、いつもと変わらないはずだった。
だけど、その朝、ハルカは、なにかが”欠けている”ような感覚を覚えていた。
理由はわからなかった。
ただ、胸の奥に、ひんやりとした穴が開いているような感覚だけが残った。
制服に着替え、朝ごはんを急いで食べながら、
ハルカはふと、昨日友達と交わした約束を思い出した。
「明日、放課後に図書館で合流しよう!」
そう言っていたはずなのに、どうしてか、思い出せない。
何時に?
どんな本を探すって言ってたっけ?
細かい部分が、まるで砂になったみたいに指の間からこぼれていく。
不安を振り払うように、ハルカはランドセルを背負い、家を飛び出した。
小学校への道は、変わらない風景が続いていた。
いつもの八百屋、古びた文房具屋、白い壁の教会。
だけど、ハルカの目には、どこか世界が「静止」しているように映った。
まるで、時間だけが置き去りにされたみたいだった。
教室に着くと、親友のミオが手を振った。
「おはよう、ハルカ!」
ハルカはほっとして、机に向かう。
今日も、ミオとの交換日記が机に置かれていた。
(よかった、これだけは変わってない……)
そう思いながら、ページをめくる。
だが、そこに書かれていた内容を見た瞬間、また胸に冷たいものが流れ込んだ。
「明日のこと、考えたんだけど……。
うーん、思いつかないや。
また、今度決めようね!」
いつもなら、ミオはわくわくしながら未来の計画を書き込んでいた。
遠足の話、夏祭りの話、買いたい漫画の話。
小さな未来を、楽しそうに埋め尽くしていた。
それなのに、今は、白紙。
何も、思い浮かばない。
その違和感を、ミオ自身は感じていないようだった。
ニコニコと、何の不思議もない顔をしている。
ハルカは、誰にも聞こえないように、そっとつぶやいた。
「……おかしいよ。」
世界が、少しずつ、未来を失っている。
だけど、誰も気づいていない。
ただハルカ一人だけが、そこにぽっかり空いた穴を見つめていた。
そしてそれは、まだ始まりに過ぎなかった。
昼休みの校庭は、穏やかな冬の光に満たされていた。
鉄棒、ブランコ、サッカーゴール。
子供たちは元気に走り回り、笑い声を上げている。
それでも、ハルカは、胸のざわめきを振り払うことができなかった。
ミオと一緒に、校庭の隅のベンチに座る。
「ねえ、春になったらさ、どっか遊びに行こうよ!」
そう言ってみた。
自分の声が、少しだけ上ずっているのがわかった。
ミオは笑った。
「うん、行こうね。」
だけど、その目には、迷いの影が差していた。
「……どこに行こうかは、また今度決めよう。」
まただ。
未来に続く話が、すべて「また今度」に置き換わっていく。
誰も、明日以降のことを、具体的に思い描けない。
授業が終わり、帰り道。
ハルカは駅前のショーウィンドウに足を止めた。
そこには、「新作春物入荷!」というポスターが貼られている。
でも、並んでいるマネキンたちは、ただ白い無地の服をまとっているだけだった。
誰も不思議に思わない。
ただ、すれ違う人々も、無表情で通り過ぎていく。
そして、家に帰ると、母親が言った。
「来月のおばあちゃんの誕生日、どうしようかねぇ……。
あれ、何か考えてたんだけど、忘れちゃったわ。」
母は笑ってごまかした。
でも、その笑顔も、どこか薄っぺらく見えた。
未来を描く力が、
この世界から、本当に消えかかっている。
ハルカは、食卓に置かれたカレンダーを見た。
日付は、今日までしか書き込まれていない。
明日以降のページは、すべて、空白だった。
その夜、ハルカは布団の中で、じっと目を開けていた。
心の奥底で、誰にも言えないことを理解していた。
(このままじゃ、世界は、止まってしまう。)
なぜ、こんなことが起きているのか。
誰に頼ればいいのか。
わからなかった。
ハルカは、静かにベッドから抜け出した。
夜の冷たい空気が、素足に沁みた。
廊下の奥、ほこりをかぶった古い柱時計が立っている。
誰ももう、時間を合わせることもなく、針は止まったままだった。
ハルカは、その時計の前に立った。
両手を胸の前で組み、そっと目を閉じる。
そして、
誰に教わったわけでもない、自然な仕草で、
柱時計に向かって、小さな声で祈った。
「お願いです。
私に、未来をください。」
その瞬間。
世界のどこかで、微かな音が鳴った。
チチ、チチ。
砂のような、金属が震えるような音。
そして、遥か遠く、誰にも見えない場所で、
時計の国の中心にある巨大な歯車が、
ゆっくりと、たったひとつ、動き始めた。
カチ、カチ、カチ――。
針が、目覚める音。
世界はまだ、完全には止まっていなかった。
たった一人の、未来を信じる心によって。
世界の裂け目の向こう側。
人間たちの目には映らない、時間の底にそれは存在していた。
──「時計の国」。
果てしない空の下に、無数の歯車と振り子が連なり、
大理石の床には、古びた文字で「時の誓い」が刻まれている。
天空を支える柱は、一本一本が巨大な振り子のように揺れ、
そのたびに、かすかな鐘の音が空気を震わせた。
ここは、役目を終えたすべての時計たちがたどり着く場所。
そして、人間たちの過去と未来を紡ぐための最後の工房だった。
けれど、今。
その工房は、静まり返っていた。
錆びついた懐中時計たちが、机の上でうなだれている。
割れたガラスの腕時計が、壁にもたれかかり、眠っている。
歪んだ砂時計の中には、もう砂はほとんど残っていなかった。
中心には、かつて「未来編纂室」と呼ばれた巨大な円形ホールがあった。
だが、その扉は分厚い鎖で封じられ、誰も近づこうとしない。
未来を紡ぐ仕事は、もう、終わった。
長い長い時の中で、人間たちは未来を信じることをやめ、
時計たちもまた、針を止めることを選んだのだ。
そんな沈黙の中に、突然――。
かすかな、きらめきが落ちた。
空中に、微細な光の粒が降り注ぐ。
それは、ほんの小さな音だった。
けれど、それは確かに、祈りの音だった。
古びた大時計の針が、ぴくりと震えた。
老いた砂時計が、音もなく目を開いた。
柱時計たちが、ぎこちなく振り子を揺らし始めた。
「……まさか。」
重々しい声が、工房に響いた。
その声の主は、クロノス大時計。
この国で最も古く、最も荘厳な時計だった。
彼は、朽ちかけた歯車をゆっくりと回しながら言った。
「未来を、
未来を願ったのか。」
隣で、ひび割れた置き時計が、震える声をあげた。
「もう、誰もいないはずだった。
誰も、未来なんか、欲しがらないと思っていたのに……。」
クロノスは、静かに目を閉じた。
「……違う。
未来とは、ただ自然に流れてくるものではない。」
「未来とは、
祈りだ。」
その言葉とともに、工房の奥深くに眠る巨大な歯車――
「運命機関」が、わずかに動いた。
カチ。
カチ。
カチ。
重く、荘厳な音。
それは、世界に再び「未来」が流れ始める、ほんの最初の兆しだった。
クロノスは、ゆっくりと顔を上げた。
「動け、同志たちよ。
まだ、終わってはいない。」
そして、封じられた「未来編纂室」の扉に向かって、重い一歩を踏み出した。
たった一人の祈りのために。
未来をもう一度、世界へ取り戻すために。
歯車たちが、また、静かに動き始めた。
──針が、再び、未来を指し始める。
柱時計の前で祈ったハルカは、
世界がひずむような感覚に包まれた。
目を開けると、そこは銀色の霧に満たされた空間だった。
遠くに、無数の歯車が光り、
大理石の床には見たことのない文字が刻まれている。
──「時計の国」。
その中心に、ひときわ大きな時計の姿があった。
それは、古びた懐中時計の形をした存在――クロノス。
クロノスは、重く深い声で語りかけてきた。
「私はクロノス。この国の守護者だ。
君の祈りは、確かに我らに届いた。」
ハルカは戸惑いながら、クロノスを見上げた。
「だが、未来を再び動かすには――代償が必要だ。」
クロノスの周りに、無数の壊れた時計たちが静かに佇んでいた。
クロノスは、ゆっくりと語り始めた。
「未来とは、ただ流れてくるものではない。
それは、過去と希望の間に生まれる、極めて繊細なものだ。」
「だが、人は過去に縛られ、未来を描けなくなる。
悲しみ、痛み、喪失――それらに囚われすぎると、
心に未来を織る余白が失われる。」
ハルカは、息を呑んだ。
クロノスは続ける。
「未来を動かすためには、
過去の中から、最も大切な記憶を一つ手放さなければならない。」
「それによって、君の心に”空白”が生まれる。
未来を紡ぐための、たったひとつの空席だ。」
「その空白がなければ、
未来は君にも、世界にも訪れない。」
静かな言葉が、重く胸に響いた。
ハルカは、思い出す。
これまでに積み重ねてきた大切な時間たち。
母と手をつないだあの日。
友達と走った夕暮れ。
おばあちゃんと交わした、最後の笑顔。
「……選べないよ。」
ハルカは、震える声で言った。
クロノスは、ただ静かに見守っていた。
ハルカはわかっていた。
選ばなければ、
未来は二度と戻らない。
苦しくて、胸が引き裂かれるようだった。
(でも……未来が、欲しい。)
ハルカの胸に、ひときわ強く輝く記憶が浮かび上がった。
――病室で、おばあちゃんが言った。
「ハルカ、未来は怖いものよ。
でも、信じるの。
あなたなら、きっと、大丈夫。」
ハルカは、ぎゅっと唇を噛んだ。
大切な、大切なおばあちゃんとの最後の会話の記憶。
けれど、だからこそ――
未来を信じるために、
この記憶を手放さなければならないと、わかっていた。
ハルカは、両手を胸の前に差し出した。
「……これを、差し出します。」
震える手のひらに、光る粒のような記憶が浮かび上がる。
それは、涙ににじむ宝石のように、きらきらと輝いていた。
クロノスは、厳かにそれを受け取った。
「よく……選んだ。」
その瞬間、ハルカの胸に、ひとつの空白が生まれた。
何かを失った。
けれど、それが何だったのか、もう思い出せない。
ただ、胸の奥に、小さな暖かさだけが残っていた。
それは、新しい未来へ向かうために必要な、
たったひとつの光だった。
カチ、カチ、カチ――。
どこかで、世界の針が、静かに動き出した。
カチ、カチ、カチ――。
遠くで響く針の音。
それは、今まで聞いたどんな鐘の音よりも、優しく、力強かった。
ハルカは、目を開けた。
そこはもう、銀色の霧の中ではなかった。
見慣れた自分の部屋。
止まっていた柱時計が、静かに時を刻んでいる。
壁にかかったカレンダーは、昨日と変わらぬままだった。
でも、空気が違っていた。
窓の外、朝焼けに染まる街。
遠くから、学校へ向かう子供たちの声が聞こえてきた。
「明日、図書館行こうぜ!」
「来週の試合、絶対勝とうな!」
ハルカは、ゆっくりと立ち上がった。
世界が――動き始めている。
未来が、また世界に帰ってきたのだ。
ハルカは玄関を出た。
空を仰ぎ見ると、透明な青が果てしなく広がっていた。
道すがら、街のショーウィンドウも変わっていた。
マネキンたちが、色とりどりの春物を着て、眩しい笑顔を浮かべている。
商店街のポスターには、「来月のフェスティバル開催!」の文字。
人々は、自然に「これから」の話をしていた。
未来が、当たり前のように、ここにあった。
それは奇跡だった。
だけど――。
ハルカの胸には、小さな空白があった。
何か大切なものを、手放してしまった。
それはわかる。
でも、それが何だったのか、思い出すことはできない。
心に、ぽっかりとした穴が開いている。
それでも、不思議と、悲しくはなかった。
胸の奥には、目には見えないけれど、確かに暖かいものがあった。
それは、未来へ進むために生まれた、
新しい光だった。
ミオが、笑いながら駆け寄ってきた。
「ハルカ! 春休みにさ、遠足行かない?
山に登るんだって!」
ハルカは驚いて目を見開いた。
未来の話。
しかも、こんなに楽しそうに。
ミオは笑った。
「ね、またいっぱい思い出、作ろうよ!」
ハルカも、自然と笑みを返した。
「うん、作ろう!」
その瞬間、ハルカの胸の奥に、小さな鐘の音が響いた。
カチ、カチ、カチ。
柱時計の針は、
これからも、静かに、でも確かに、未来を刻み続けるだろう。
たった一人の祈りが、世界を動かした。
たった一つの犠牲が、未来を生み出した。
それでも――針は進む。
未来は、まだ、これからだ。
エピローグ 針は進む
深い霧が晴れたあとの「時計の国」。
そこには、かすかに、だけど確かに、命の気配が戻っていた。
巨大な歯車が、ゆっくりと回り始める。
振り子たちが、規則正しく揺れ始める。
封鎖されていた「未来編纂室」の扉も、
今は重い鎖を解かれ、静かに開かれていた。
その奥で、クロノスたち壊れた時計たちが、
ふたたび歯車を組み直し、針を進める準備をしていた。
かつて、裏切られ、忘れられ、絶望した彼らが。
今、たった一人の少女の祈りによって、
未来をもう一度信じることを選んだ。
クロノスは、運命機関の中心に立ち、
そっと歯車に手を添えた。
「また……始めよう。」
その声に応えるように、
無数の時計たちが、一斉に時を刻み始めた。
カチ、カチ、カチ――。
静かに、しかし確かに、
世界に新しい時が流れ出していた。
地上では、ハルカが、春風の中を歩いていた。
白いシャツが、風になびく。
手には、真新しいノート。
そこに、ハルカは最初の言葉を書き込んだ。
「これから」
それはまだ、何も書かれていないページ。
けれど、
これから何を描いてもいい。
未来は、白紙だ。
だけど、それは怖いことじゃない。
針は、静かに進む。
未来は、きっと、ここから生まれる。
──カチ、カチ、カチ。
世界は、今日も、音もなく、未来へ向かって進んでいた。
時計の国 パンシャン先生 @pamsyan
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