第八話 茜

 夏休みが始まって、もう一週間以上が過ぎていた。外の世界では陽炎がアスファルトを揺らし、全てを焼き尽くそうとするかのような太陽が、青空に君臨している。しかしその絶対的な権力も、この鉄筋コンクリートの校舎の中までは届かない。誰もいないしんと静まり返った三階の廊下は、まるで深海のようにひんやりとしていて、現実世界から切り離された独特の空気でよどんでいた。


 その廊下に、パタパタと乾いた足音が響く。宮田茜の白い上履きが、リノリウムの床を規則的に叩く音だ。

 高校二年生、身長百六十五センチとやや高め。背中の中ほどまで伸びた黒髪を、高い位置で結い上げたポニーテールが、彼女の歩みに合わせて意志を持った生き物のように、背中で左右に揺れている。束ねた毛先が時折、セーラー服の白い襟を掠めるたび、茜にほんの僅かな痒みを伝えてくる。



 彼女が所属する部活は演劇部。秋の文化祭で上演する演目の主役に抜擢され、夏休み返上で稽古に明け暮れる毎日を送っていた。演目は、前衛的な現代悲劇『純白のノイズ』。茜に与えられた役は、永遠の愛を誓ったその日に恋人に裏切られ、純粋さのあまり狂気へと堕ちていく花嫁「リリィ」。


『もっと壊れてみせて、茜。あんたのリリィは、ただ悲しんでるだけ。狂気が足りない。愛が憎しみに反転する沸点を見せて!』


 演劇部部長で、この舞台の演出も手掛ける三年生の相良先輩が、涼しい顔で残酷な要求を突きつけてくる。相良先輩は、メガネの奥の長いまつ毛に縁取られた瞳で、いつも人を射抜くように見る。その視線は、茜の才能を評価しながらも、同時にその内側にある脆さや歪さを、面白がって暴こうとしているかのようだった。


(壊れる、なんて簡単に言う……)

 茜の胸のうちで、冷めた声が呟いた。

 真面目でおとなしい。物静かで感情を表に出すのが苦手。それが、周囲が抱く「宮田茜」のイメージ。その息苦しい殻を破れない自分に、焦りと苛立ちを感じていた。


(私には、無理なんだ……)


 鉛のように重い思考が、じわじわと全身に広がっていく。それは冷たい泥水の中に、ゆっくりと沈んでいくような感覚。焦燥、不安、自己嫌悪。言葉にならない感情の澱が、茜の静かな瞳の奥で、どす黒く渦巻いている。


 思考の迷宮から逃れるように、茜はいつも、部室へ向かう途中で校舎裏手にある渡り廊下を通る。今日も、吸い寄せられるようにそちらへ足が向いた。

 ガラス窓の外は、生命の坩堝るつぼだった。アブラゼミが、空気をビリビリと震わせるほどの大合唱を繰り広げている。何かに駆り立てられるように、ただひたすらに、己の存在を主張する声、声、声。


(うるさい……)


 茜は、無意識に眉をひそめた。生命力を何のてらいもなくひけらかすようなその無遠慮な鳴き声が、昔から好きではなかった。感情を押し殺して生きている自分への、当てつけのように聞こえたからだ。


 そんな嫉妬にも似た感情を抱きながら、ぼんやりと一歩を踏み出した、その時だった。


 ベキッ!


 右足の裏に、予期せぬ衝撃が走った。上履きの薄いゴム底を通して、硬くそれでいて脆い何かが砕ける、生々しい感触。乾いた小枝を踏み折るような音とはまったく違う、湿り気と抵抗を伴う不快で、なのに奇妙なほど鮮明な感触だった。


「……え?」


 思わず漏れた声は、誰に聞かれるでもなく蝉時雨の中に吸い込まれた。驚いて恐る恐る右足を上げてみる。

 視線の先、コンクリートの床にそれはあった。

 無惨に潰れた、一匹のアブラゼミ。

 緑がかった茶褐色の体液が、じわりと灰色の床に染みを作っている。ひしゃげた頭部、ばらばらになった翅。まだ、何本かの脚が、最後の生命活動を証明するかのように、痙攣しながら虚空を掻いていた。


 この蝉も、先ほどまではコンクリートの上で、世界を埋め尽くすかのようにけたたましい声を鳴り響かせていたに違いない。

 しかし、茜が踏みつけたまさにその瞬間にぷつり、と。まるでテレビの電源をリモコンでオフにしたかのように、あまりにもあっけなく完璧にその生を途絶えさせたのだった。


 世界から、一つの騒音が、思いがけず完全に消去された。

 自分の意思によって。


 彼女は、しばらくその場で凍りついたように動けなかった。罪悪感は確かにある。でもそれ以上に、今まで感じたことのない奇妙な感覚が彼女の心を支配していた。すっと胸のつかえが下りるような、静かな達成感。

 そして身体の奥の方、子宮の辺りがきゅうと疼くような、微かな痺れ。

(あ……なんだろう、これ……)

 不謹慎だとわかっているのに、その微かな疼きが不快ではないと感じてしまう自分に戸惑う。


 足を上げて、自分の上履きの靴底をそっと見てみる。新品の時は真っ白だったはずのゴム底は、既に薄汚れて黒ずんでいた。そこに刻まれた、滑り止めのための無機質なギザギザしたパターン。その溝の一つ一つに、今踏み潰した蝉の体液と、砕けた外骨格の黒い欠片がべったりと、靴底の模様の一部であるかのように付着していた。


 汚い。

 そう思うはずなのに、なぜか目が離せない。

 これは、汚いのだろうか。それとも、美しいのだろうか。


 はっと我に返ると、慌てて周囲を見回す。誰もいない。見られてはいない。そのことに安堵しつつも、心臓が早鐘を打っているのがわかった。誰にも見られてはならない秘密の行為。その背徳感が、身体の奥の疼きをほんの少しだけ増幅させた。

 汚れた靴底を、コンクリートの縁に擦り付けようとして、茜は寸前でその動きを止めた。

(……いや)

 この汚れは、そのままにしておこう。

 この感触の記憶を、この罪の証拠を、消してしまいたくない。

 そのわずかな汚れが、彼女だけに与えられた興奮の刻印のように思えた。



 その日の演劇部の稽古で、茜はまったく集中できなかった。相良先輩の叱責が、ガラス越しのように遠く聞こえる。彼女の頭の中では、つい先ほどの一瞬の感触と音が、何度も何度もリフレインしていた。右足に体重をかけた瞬間の、硬い殻がミシリと軋む感触。抵抗がぐにゅりとした粘液質なそれに変わる瞬間。そして、足もとで鳴り響いていた騒音が、絶対的な無音へと転落する鮮やかな断絶。

 思い出すたびに、下腹部の辺りがまた小さく疼いた。


(もう一度……)

 脳裏に浮かんだその願望に、茜は自分で自分に戦慄した。

(もう一度、あの感触を、確かめてみたい)


 それは生まれて初めて抱いた、黒く、甘美な衝動だった。



 部活が終わった帰り道、茜は学校からやや離れたコンビニで、見慣れない赤いパッケージのタバコを買い求めていた。客に何の興味もなさそうな白髪頭の老人がレジにいるこのコンビニは、制服姿でタバコを買っても何も言われないと、学校の中でも素行の悪いクラスメイトたちが噂しているのを、茜も知っていた。


 衝動のままに購入したそれに、帰り道の人気のない公園の隅で、初めて火をつけた。甘い匂いが漂う。

 煙を深く吸い込むと、肺の奥がじんわりと熱くなる。咳き込みそうになるのを堪えながら、茜は空を見上げた。夏の終わりの夕焼けが、茜の頬を赤く染めている。指に挟まれたタバコの煙が、ゆらゆらと空に 消えていく。


「……なんだろう、これ」

 苦いような、甘いような、不思議な味が口の中に広がる。それは、蝉を踏み潰した時に感じた、戸惑いと微かな快感に似ていた。



 最初の偶然は、もはや偶然ではなかった。それは、茜の渇いた日常に投じられた一滴の毒であり、瞬く間に全身に回り、抗いがたい渇望へと姿を変えていった。


 学校は茜の狩場になった。

 部活前の放課後、まだ誰も来ていない部室に荷物を置くと、彼女はローファーに履き替えることもせず、上履きのままふらりと中庭に出た。夏草の匂いが、むわっと立ち上る。ベンチに腰を下ろして台本を開くふりをするが、目は活字を追っていない。彼女の聴覚と視覚は、ただ一点に集中していた。


 ジジジジジ……!

 蝉の声。夏の主役たちの、生命の謳歌。


 茜の目は、獲物を探す狩人のように、鋭く執拗に、地面や木の幹を舐めるように観察する。

(いた……)

 ベンチのすぐ近く、コンクリートのたたきの上で、一匹の蝉がひっくり返り、力なく脚を蠢かせていた。死を待つだけの無力な生き物。


(こんなところで、無様に死ぬなんて……)

(私が、ちゃんと終わらせてあげる)


 囁きは、慈悲の仮面を被った、純粋な加虐心だった。

 周囲に誰もいないことを確認する。心臓が、どきどきと高鳴り、呼吸が少しだけ速くなる。頬が熱い。いけないことをしている。その背徳感が、茜の衝動を高めるたまらないスパイスだった。


 ゆっくりと立ち上がり、右足を、その小さな身体の真上に掲げる。白い上履きの、やや丸みを帯びたつま先。それを、蝉の腹部に、触れるか触れないかの距離でそっと近付ける。ぴくりと痙攣するだけの、微かな抵抗。それが、茜の嗜虐心をとんでもなく刺激した。


 じわ……じわじわ……。

 ミリ単位で、体重をかけていく。


 ミシ……ミシミシ……ッ


 薄いゴム底を通して、蝉の身体が軋み、ゆっくりと潰れていく過程が、茜の神経の末端まで克明に伝わってくる。硬い外骨格が内側に陥没し、内部の柔らかい組織が圧迫され、液状化していく感触。それは、まるで熟しすぎた果実を、指先で、その破裂する瞬間を確かめながら、ねぶるように潰していくのに似ていた。

 鳴き声はない。ただ、無音の破壊だけが、じっくりと官能的に進行していく。


 完全に潰し終え、靴底がコンクリートの硬い感触に到達した瞬間、茜の全身をぞくぞくとした快感が走り抜けた。熱い息がはぁはぁと漏れる。下腹部の疼きがさっきよりもずっと強く、熱を帯びていた。


 足を上げると、そこにはインクの染みのような、黒い痕跡とひしゃげた虫の跡だけが残っていた。そして、上履きの裏には、新たな汚れが加わっていた。

(……もっと、欲しい)

 死にかけの個体では、あの「音を支配する」という最も重要な興奮が得られない。

 物足りなさが、彼女を次のステージへと駆り立てた。



 やがて彼女の狩猟本能は、最も困難な獲物へと向かった。

 コンクリートの上でジリジリと激しく鳴き叫ぶ、元気なアブラゼミだ。

 もはや狩りではない。純粋な破壊衝動の発露だった。

 息を殺し、抜き足差し足で、射程距離を詰める。コンクリートに落ちた蝉が鳴き声に夢中になっている、その一瞬の隙を突く。


(死ね!)


 心の内で叫びながら、素早く的確に、体重のすべてを乗せて、一気に踏みつける。


 バギッ!

 ジジ……ッ!


 踏みつけた瞬間、あのけたたましい鳴き声が、電気的なノイズが混じったような、苦悶の悲鳴に変わる。そして、ぷつりと。

 その一匹分の騒音が、外科手術のように綺麗に切り取られ、世界から消去された。

 音を支配するこの感覚。世界を、自分の意のままにコントロールする感覚。それが、茜にとって最高の快感であり、何物にも代えがたいエクスタシーだった。踏みつけた足の裏から、脳天まで突き抜けるような、強烈な興奮。思わず、奥歯をぐっと噛みしめる。


 彼女の白い上履きは、ひと夏の間に、彼女だけの戦歴を物語るキャンバスへと変貌していった。

 靴底をきれいにするという発想は、もはや茜にはなかった。

 家に帰ると、自室に鍵をかけ、ベッドに仰向けになりながら、汚れた上履きを手に取り、その裏側を飽きることなく眺めるのが、秘密の儀式となった。

 ギザギザの溝は、様々な蝉の体液と、砕けた外骨格の破片で、黒く、汚く埋め尽くされている。こびりついた翅の破片、黒ずんだ体液の染み、硬い脚の一部。その一つ一つが、あの瞬間の興奮を鮮やかに蘇らせる。


「……ふふっ」


 汚れた靴底を飽きることなく見つめながら、茜は小さく笑った。その汚れを見るたびに、あの足応えと、身体の奥が疼く感覚が再現される。それは誰にも知られてはいけない、自分だけの自慰行為にも似ていた。

 汚れが増えれば増えるほど、興奮もまた、増していく。

 この汚れた上履きこそが、退屈な「宮田茜」の仮面を被った、自分の本当の姿の証明だった。



 部活の休憩時間、茜は一人、人気のない中庭の隅のベンチに座り、大胆にもポケットからライターとタバコを取り出した。手慣れた手つきで火をつけ、紫煙をゆっくりと吐き出す。肺の奥に残る、微かな苦味と甘い香りが、現実感を薄れさせていく。茜は、ぼんやりと空を見上げながら、今日、自分の足元で命を終えた蝉のことを考えるのだった。一瞬の抵抗。そして唐突な生命の終わり。その瞬間に湧き上がる快感。それはタバコの煙のように、甘く、すぐに消えてしまうものなのかもしれない。



 蝉の声が、その勢いを増すごとに、茜の演技もまた、凄まじい変貌を遂げていた。

 稽古場で、彼女はリリィになりきっていた。だが、それはもはや、役を演じるというより、内に秘めたもう一人の自分を解放するための、大義名分になりつつあった。


「愛してた……心の底から、あなただけを信じてた!なのに、なぜ!なぜ裏切ったの!?もう許さない、絶対に!」


 台詞と共に、茜は相手役の男子生徒の胸ぐらを、本気で掴みかからんばかりの勢いで睨みつけた。その目には、もはや演技ではない、本物の憎悪と狂気が宿っている。

「……すごい、今の。マジで怖い」

「茜、どうしちゃったんだろ……」

 部員たちの賞賛と戸惑いが入り混じった声が、茜の耳に届く。だが、それは彼女に満足感をもたらさなかった。


(違う、まだ足りない……)


 言葉だけでは、足りない。この身体の奥底で渦巻く、黒い衝動。破壊の快感。支配の悦び。それを、この役を通して、すべて解放してしまいたい。

 相良先輩は、腕を組んでその様子を見ていたが、やがて満足そうに口の端を上げた。

「いいじゃない、茜。あんたの中のリリィが、やっと目を覚まし始めたみたいね。でも、まだ足りない。もっと、暴力的に、破壊的になっていいのよ。純粋なものほど、壊れた時は美しいんだから」


(暴力的に、破壊的に……)


 その言葉は、悪魔の囁きのように、茜の心に深く染み込んだ。

 そうだ。私が毎日、校舎裏でやっていることこそ、最高の「役作り」ではないのか。

 生命を、この足で、暴力的に支配する感覚。あの絶対的な足応えこそが、リリィの狂気を体現している。



 その日から、茜の狩りはさらに暴力性を増した。

 もはや、踏み潰すだけでは飽き足らない。

 焼却炉の裏で、捕まえた蝉の翅をむしり、飛べなくなったそれに、何度も、何度も、上履きの踵を執拗に叩きつけた。


べキ!グチャ!ベチャッ!


 原型がなくなるまで、憎しみを込めて。だが茜の表情は怒りではなく、恍惚としていた。破壊すればするほど、身体の奥の疼きは、熱い痺れを伴う快感へと変わっていく。


 ある時は、まだ生きている蝉を、上履きのつま先で地面に押さえつけ、逃げられないようにしてから、反対の足の踵で、じっくりとその頭部だけを狙ってすり潰した。


 ミシ……グチュ……


 断末魔の音さえ立てさせない、冷酷な処刑。その絶対的な支配感に、茜は腰が砕けそうになるほどの性的興奮を覚えた。


「……はぁっ、はぁっ、ん……っ」


 息が上がり、口からは吐息とも呻きともつかない声が漏れる。制服のスカートの下で、太ももが微かに震えていた。

 役作りのため、という言い訳はもはや必要なかった。

 これが、宮田茜という人間の本質なのだ。

 演劇は、その本性を解放するための、最高の舞台に過ぎない。


 稽古の後、茜は一人、部室に残っていた。誰もいない静かな空間で、彼女は窓を開け、タバコに火をつけた。紫煙が、ゆっくりと夕焼け空に吸い込まれていく。今日の稽古での、リリィの感情の爆発。それは、演じているというよりも、自分の中の何かを解き放つ行為に近かった。足元には、今日も中庭で踏み潰した蝉の残骸が付着したままの上履きが履かれたまま。その感触を反芻すると、再び身体の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。



 八月の終わりが、じりじりと肌で感じられるようになった頃。文化祭の舞台本番を二週間後に控え、演劇部の稽古は佳境を迎えていた。

 その日は、衣装と小道具をすべて揃えた、初めての通し稽古だった。


 茜は、割り当てられた楽屋で鏡の前に座っていた。

 目の前には、普段の自分とは似ても似つかぬ、一人の花嫁がいる。

 純潔を象徴するような、ミニ丈のウェディングドレス。繊細なレースとパールで飾られているが、その短すぎる丈は、どこか挑発的でアンバランスな印象を与える。

 そして、足元。

 相良先輩がリリィのイメージに合わせて見つけてきたという、一足のパンプス。


 それは、穢れを知らない雪のような、真っ白なエナメルのパンプスだった。

 照明を浴びて、ぬらりとした官能的な光沢を放っている。ポインテッドトゥの鋭く尖ったつま先。ピンのように細く高いヒール。それは、純潔の仮面を被った凶器だった。


「はい、これ履いて。あんたの足に、一番似合うと思ってね」

 相良先輩が、笑みを浮かべて手渡す。


 素足で。

 茜は、ごくりと喉を鳴らしながら、そのパンプスに足を入れた。

 ひやり、とした感触が、足の裏から直接、脳に伝わる。少し汗ばんだ素肌に、エナメルパンプスの内側が、吸い付くように張り付く。それは、布一枚を隔てるのとは全く違う、生々しく、官能的な感触だった。このパンプスは、硬く、冷たく、そして何もかもを拒絶する。それでいて、足の形にぴったりと沿い、まるで第二の皮膚のように一体化する。


 立ち上がると、カツンと硬質な音が床に響いた。

 視線が、普段より10センチは高くなっている。世界を見下ろす、狂った花嫁の視点。

 ドレスの裾が、歩くたびに素足の太ももを掠める。その感触さえも、彼女の興奮を煽った。


 舞台袖で、出番を待つ。心臓が、早鐘のように打っている。

 期待だ。この姿で、この足で、舞台の上で、すべてを破壊することへの、狂おしいほどの期待だった。


 やがて、自分の出番が来た。

 カツン、カツンとヒールの音を響かせながら、茜は舞台の中央へと歩み出る。スポットライトの熱が、肌を焼く。


 物語は、クライマックスへと向かっていた。リリィが恋人の裏切りを知り、狂気の中で結婚式のすべてを破壊し尽くすシーン。

 演出では、リリィは祭壇の上の花瓶を叩き割り、泣き叫ぶはずだった。

 だが、茜は動かなかった。

 彼女の目は祭壇ではなく、その横に置かれた、三段重ねのウェディングケーキに釘付けになっていた。

 純白のクリームで覆われ、真っ赤な苺が可憐に飾られた、幸せの象徴。


(……壊して)

 声が聞こえる。相良先輩の声か、それとも自分自身の声か。

(その純白を、あんたの色で汚してごらん)


 茜は、ゆっくりとそのケーキに近づいた。

「茜……?何を……」

 舞台袖から、共演者の戸惑った声が聞こえる。だが、茜の耳には入らない。

 彼女は、うっとりとした表情で、ケーキの頂上に飾られた、最も大きく、熟した真っ赤な苺を一つ、指でつまみ上げた。

 そして、それを、こともなげに、自分の足元、舞台の床に、ことり、と落とした。


 純白のドレス。純白のパンプス。そして、床に転がる、真っ赤な苺。

 すべてが、完璧な倒錯の準備を整えていた。


 共演者たちが、息を呑んで見守っている。相良先輩だけが、舞台袖で、恍惚とした笑みを浮かべていた。

 その視線が、たまらなく快感だった。

 見なさい。これが、本当のわたくしよ。


 茜は、ゆっくりと、右足を上げた。

 鋭く尖った、白いエナメルのヒール。その先端がスポットライトを浴びて、きらりと光る。

 そして躊躇なく、そのまま一気に、その小さな苺の心臓をヒールで貫いた。


 ブチュッ!


 潰れた苺の赤い果汁が、白い舞台の上に、血痕のように飛び散る。

 だが、茜は止めなかった。それでは全然足りない。

 彼女は、まるでダンスを踊るかのように、その場を移動し、今度はケーキそのものへと向かった。


 そして、その白いパンプスを履いた足で、無慈悲にウェディングケーキの側面を思いきり蹴りつけた。


 グチャッ!


 柔らかいスポンジとクリームが、いともたやすく崩れ落ちる。

 さらに、茜は崩れたケーキの残骸の上に飛び乗り、両足で、何度も何度も、それを踏みつけた。


 グチャッ!グジュッ!ベチャッ!


 白いクリームと、赤い苺のジャム、そしてスポンジケーキが、彼女のパンプスの下で、ぐちゃぐちゃの汚物へと変わっていく。

 純白だったエナメルパンプスは、見る影もなく、赤と白の甘い残骸にまみれて汚れていく。

 その汚れこそが、今の茜にとっては、最高の装飾だった。


「あ……ぁ、あ……っ、んんっ……!」


 茜の口から、もはや台詞ではない喘ぎ声が漏れる。

 足の裏に伝わる、柔らかく、ぐじゅぐじゅとした、生命のないものを破壊する感触。それは蝉とはまた違う、背徳感に満ちた、甘ったるい破壊。

 ドレスの裾が汚れ、素足にクリームが飛び散る。そのすべてが、彼女を性的興奮の頂点へと導いていく。

 腰が震え、全身が痙攣しそうになる。これは、狂気の演技などではない。

 これは、宮田茜という少女のオーガズムそのものだった。


「……これが、永遠の、愛……」


 息も絶え絶えに呟いた言葉は、マイクを通して、しんと静まり返った稽古場に響き渡った。

 彼女は、汚れたパンプスをゆっくりと上げ、その裏側を、観客に見せつけるように、ちらりと見せた。

 真っ白だったはずの靴底に、べったりと付着した、ケーキの残骸。それは、純潔の少女が、自らその純潔を破壊し、喰い散らかした痕跡のようだった。


「……カット!」

 相良先輩の、震えるほどに満足しきった声が響いた。

 茜は、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。

 もう、後戻りはできない。

 本当のリリィが、本当の宮田茜が、今、この瞬間に、誕生したのだから。



 通し稽古の後、茜は再び中庭の隅のベンチに座っていた。夕焼け空の下、彼女は震える手でタバコに火をつける。深く吸い込み肺いっぱいに煙を充満させると、ゆっくりとそれを吐き出した。白い煙が茜の周りを 優しく包み込む。今日の稽古での、あの破壊の衝動。靴底を通じて足の裏に残る、ケーキのべたつく感触。それは、夢か現か。茜は、指先で軽く唇に触れた。まだ、ほんのりと甘い香りが残っている気がした。



 九月が、その最後のページをめくろうとしていた。

 あれほど世界を支配していた蝉の声は、いつの間にか鳴りを潜め、朝夕には、ツクツクボウシのどこか寂しげな、季節の終わりを告げる声が微かに響くだけとなった。


 その年の文化祭は、伝説となった。茜の演じた狂気の花嫁は、「観る者を支配する」「危険なほど美しい」と、校内で大きな話題となった。特に、ウェディングケーキを破壊し尽くすあのシーンは、観客に強烈な興奮と、ある種の恐怖を与えた。

 カーテンコールで、割れんばかりの拍手を浴びた時、茜は一瞬だけ、満たされたような気持ちになった。

 だが、それは、ほんの一瞬のことだった。


 舞台が終わり、衣装を脱ぎ、化粧を落とし、「宮田茜」に戻った瞬間、激しい虚脱感が彼女を襲った。

 あれほどの興奮を、快感を知ってしまった今、日常はあまりにも色褪せて、退屈だった。


 獲物が、いない。

 部活の合間に校内を探し回っても、見つかるのは、地面に転がった、すでに命の尽きた蝉の死骸ばかり。試しに上履きで踏んでみても、カサリ、と乾いた骨が砕けるような音がするだけで、もはや何の興奮も感じない。

 あれほど愛おしかったはずの上履きの汚れも、今では色褪せた過去の栄光のようにしか見えなかった。

 白いパンプスは、洗浄されて小道具室に返却された。もう、あの感触を味わうことはできない。


「……どこに行ったのよ、みんな」


 誰もいない放課後、茜は一人、渡り廊下の窓辺に立ち、人気のない中庭を睨みつけていた。

 夏が終わる。

 私の、特別な季節が。

 花嫁でいられた、あの短い時間が。


 部活が終わり、一人、夕暮れの渡り廊下を歩く。

(……楽しかった、のに)

 ぽつりと呟いた、その時だった。


 視界の隅、床タイルの継ぎ目を、黒く、硬質で、艶のある何かが、素早く横切った。

 ゴキブリではない。もっと大きい。動きは、直線的で力強い。

 おそらくは、コガネムシか、あるいはクワガタのメスかもしれない。夏の忘れ物のような存在。


 茜の動きが、ぴたり、と止まった。

 全身の血が、逆流するような感覚。

 死んでいたはずの細胞が、一斉に目を覚ます。


 彼女の瞳孔が、きゅっと小さくなる。その目は、ただひたすらに床の上を這うその黒い影の動きを、じっと捉えていた。

 夏の王者たちが去った王国に現れた、新たな住人。


 ゆっくりと茜の口元に、本当に微かな、それでいて確かな笑みが浮かんだ。

 それは、獲物を見つけた狩人の静かで獰猛な微笑みだった。

 そして次の演目を見つけた、女優の笑みでもあった。


「……そっか」


 声が、漏れる。


「君が、いたんだ」


 夏の終わりは、絶望ではなかった。

 季節は巡り、舞台は変わり、役者もまた変わる。


 茜は、履き慣らした白い上履きをそっと一歩、前に踏み出した。逃げられないようにゆっくりと確実に、その黒い影との距離を詰めていく。

 上履きでは、物足りないかもしれない。

 でも、今はこれでいい。

 これは、次の舞台へのウォーミングアップ。


「次は、君にしようかな」


 その独り言は、誰に聞かれるでもなく、秋風が吹き始めた夕暮れの校舎に、静かに溶けていった。


 終わってしまった夏への鎮魂歌レクイエム

 そして、これから始まる、終わりなき破壊への前奏曲プレリュード



 その日の帰り道。

 茜は、最後に残ったタバコの煙をゆっくりと肺に吸い込んだ。かすかに甘い香りが、喉の奥に残る。彼女は、その煙を、まるで自分の内なる衝動を鎮めるかのように、静かにゆっくりと吐き出した。燃え尽きたタバコのフィルターを指先で弄びながら、茜は小さく笑った。

 まだ終わらない。

 私の夏は、まだ終わらない。

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彼女とタバコと踏み潰し 写乱 @syaran_sukiyanen

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