第三話 詩織
大学の写真サークルの部室は、薬品の匂いと古い紙の匂いが混じり合った、独特の空気に満ちていた。壁には、部員たちが撮った様々な写真が雑然と貼られている。その中で、相川詩織は、黙々と自分の作品の現像作業を進めていた。肩までの長さで切り揃えられた黒髪のボブが、作業に集中する彼女の白い首筋にかかっている。十九歳、大学一年生。彼女の周りだけ、空気が少し違うように感じられた。
詩織の撮る写真は、どこか影があった。光の中に潜む闇、生命の終わり、打ち捨てられたものの持つ静かな存在感。廃墟の一部、枯れたひまわり、錆びた鉄柵、雨に濡れたアスファルトの亀裂。モノクロームで表現されるそれらのイメージは、見る者に強い印象を与え、サークル内でも「相川さんの写真は独特だよね」「なんか、引き込まれる」と、一目置かれる存在だった。しかし彼女自身は、そうした評価にも特に興味を示すことなく、ただ淡々とシャッターを切り続けていた。
週に一度の定例会の後、近くの居酒屋で開かれたサークルの飲み会でも、詩織は輪の中心から少し離れた隅の席で、グラスを傾けていた。無理に会話に入ることもなく、ただ、喧騒をBGMのように聞き流している。そんな彼女に、屈託のない笑顔で話しかけてきたのが佐藤陽菜だった。
「詩織ちゃーん、隣いい?」
陽菜は、詩織とは対照的に、明るい茶色のゆるふわな髪で、服装もパステルカラーのニットにふんわりとしたスカートという、典型的な「可愛い」女の子だった。
「……どうぞ」
詩織は短く答える。陽菜は待ってましたとばかりに隣に座ると、目を輝かせて話し始めた。
「私ね、詩織ちゃんの撮る写真、すごく好きなんだ! なんていうか、他の人とは全然違う世界が見えるっていうか……。今度、もしよかったら、一緒に写真撮りに行かない?」
詩織は、陽菜の太陽のような明るさに、少しだけ眩しさを感じていた。正直に言えば、こういうタイプの人間は少し苦手だ。馴れ馴れしくて、感情がストレートすぎる。しかし、不思議と嫌悪感はなかった。むしろ彼女の持つ、自分にはない「光」のようなものに、ほんの少しだけ好奇心を刺激されていたのかもしれない。
「……気が向いたら」
詩織は、そう曖昧に答えることしかできなかった。
飲み会が終わり、一人になった帰り道。詩織は、人通りの少ない路地裏に立ち寄り、ポケットから黒いパッケージの煙草を取り出した。細身の一本に火をつけ、ゆっくりと煙を吸い込む。白い煙が、夜の闇に溶けていく。ファインダー越しに見る世界は、切り取られ、構成され、美しいモノクロームになる。しかし現実は、もっと雑然としていて、色に溢れていて、そしてどうしようもなく退屈だ。煙草の苦い味が、詩織の孤独感をわずかに紛らわせてくれるようだった。
数日後の休日。結局、詩織は陽菜の誘いを受け、二人で郊外の少し寂れた公園へ撮影に出かけることになった。古い住宅街の中にあるその公園は、かつては子供たちの声で賑わっていたのだろうが、今は訪れる人も少なく、どこか忘れ去られたような空気が漂っていた。
陽菜は、「わー、緑がいっぱい!」「あ、可愛いお花!」と、明るい声を上げながら、デジタル一眼レフで色鮮やかな風景や花を撮っている。一方、詩織は持参したフィルムカメラで、ペンキの剥げたブランコ、錆び付いた滑り台、地面に深く刻まれたひび割れといった、朽ちていくもののディテールにレンズを向けていた。二人の興味の対象は全く異なっていたが、陽菜は時折、詩織のファインダーを覗き込み、「へえー、詩織ちゃんはこういうのが好きなんだね。なんか、かっこいい」と、素直な感想を口にした。
公園の隅にある、古びた木製のベンチに腰を下ろして休憩している時だった。ふと詩織の視線が、足元の地面に固定された。そこには手のひらサイズの、黒光りする大きな甲虫がいた。おそらくカブトムシのメスだろうか。ゆっくりとした、しかし力強い足取りで、地面の上を歩いている。詩織はただ無表情に、その動きを見つめていた。
「うわ、虫! 大きいね…」
隣りで陽菜が、少し顔をしかめて言った。虫はあまり得意ではないらしい。
しかし、詩織は何も答えなかった。ただ、履いていた黒のアンクルブーツ――少しだけヒールがあり、厚めのラバーソールがついた、ややハードなデザインのもの――のつま先を、ゆっくりと持ち上げた。そしてためらうことなく、そっと甲虫の硬い背中の上に乗せた。
「えっ……し、詩織ちゃん…? 何してるの…?」
陽菜が驚きと戸惑いの混じった声で、詩織の名前を呼んだ。
詩織は、陽菜の反応を確かめるように、ちらりと横目で彼女を見た。そしてゆっくりと、しかし着実に、ブーツに体重をかけていく。
メキッ!
硬い殻が砕ける、鈍い音が響いた。ブーツの底で、甲虫の体が完全に潰れる感触が、詩織の足裏に伝わる。陽菜が、隣りで息を飲むのがわかった。
詩織は、無表情のまま足を上げた。ブーツの底には黒い体液と、潰れた体の破片が付着している。それを近くに生えていた雑草の葉で、まるで何でもないことのように無造作に拭うと、初めてまっすぐに陽菜の方を向いた。その瞳には冷たい光が宿っていた。
「……何か、問題でも?」
挑戦的とも言えるその視線を受けて、陽菜は言葉を失った。目の前で起こった、あまりにも突然で、非日常的な出来事。詩織の、氷のように冷たい美しさ。それは恐怖を感じさせるものでもあったが、それ以上に陽菜の心を強く揺さぶっていた。何か、見てはいけないものを見てしまったような、禁断の扉を開けてしまったような、奇妙な興奮。日常の退屈さが、一瞬にして吹き飛んでいくような感覚。陽菜はただ、詩織の顔と、ブーツの底に残るわずかな汚れを、交互に見つめることしかできなかった。二人の間に流れる空気が、この瞬間、確実に変わったことを、陽菜は感じ取っていた。
あの公園での出来事以来、詩織と陽菜の関係は、目に見えて変化した。陽菜は以前にも増して詩織に懐き、積極的に連絡を取ってくるようになった。その態度の裏には、詩織が持つ「秘密」を知ってしまったことへの、どこかスリリングな緊張感と、自分だけが詩織の特別な一面を知っているのだという、密かな共犯意識が混じり始めているようだった。
一方の詩織も、陽菜の変化に気づいていた。自分の行為を目の当たりにしても、陽菜は逃げ出さなかった。非難もしなかった。むしろその瞳の奥には、恐怖よりも強い好奇心が宿っているように見えた。その反応は詩織にとって予想外であり、同時に初めて他者に受け入れられたような、奇妙な感覚をもたらした。陽菜の前では、少しだけ普段は見せない自分の「裏の顔」を出してもいいのかもしれない、と詩織は感じ始めていた。
二人は以前よりも頻繁に、二人だけで出かけるようになった。「撮影」という名目で、彼女たちが選ぶ場所は、決まって人気のない、どこか寂れた場所だった。廃線跡、打ち捨てられた工場、鬱蒼とした森の中にある古い神社、夕暮れの河川敷。そこで詩織はカメラを構える傍ら、まるでそれが当然の行為であるかのように、陽菜が見ている前で、虫や小さな生き物を踏み潰した。
履いているのは、いつもの黒いアンクルブーツか、あるいは、厚底のレースアップシューズ。時には、シャープなシルバーのバックルが付いた、黒いローファーパンプスを履いていることもあった。どの靴も、詩織のクールな雰囲気に合っていた。そして、どの靴も、躊躇なく冷徹に、足元の小さな命を奪った。陽菜はその瞬間を、固唾を飲んで見守った。詩織の、感情を一切排した横顔。振り下ろされる足の、洗練された動き。硬い靴底が対象を砕く音。そして、行為の後、何事もなかったかのように、再びファインダーを覗き込む詩織の姿。その一連の流れは、残酷であると同時に、陽菜の目には、どこか倒錯した儀式のように、美しくさえ映った。
陽菜自身、日々の大学生活やアルバイトに、漠然とした退屈さを感じていた。友達とのおしゃべりも、サークルの活動も、楽しいけれど、どこか物足りない。そんな日常の中で、詩織が見せる「非日常」は、強烈な刺激だった。危険だとわかっていながらも、目が離せない。詩織の隣りにいると、自分も何か特別な存在になれたような気がした。そして心の奥底で、密かに思い始めていた。(私も、詩織ちゃんみたいに……何かを、壊してみたい……)
ある曇った日の午後、二人は古い神社の裏手、苔むした石段の下で撮影をしていた。詩織が、足元にいた色鮮やかなハンミョウを、レースアップシューズの硬いソールで踏み潰した。メタリックな緑と赤の体が砕け、石の上に小さな染みを作る。陽菜は、その残骸をじっと見つめていた。そして、ほとんど無意識のうちにぽつりと呟いた。
「……綺麗……」
その言葉に、詩織がはっとして陽菜を見た。陽菜も、自分の口から出た言葉に驚き、慌てて口を押さえる。しかし、詩織の表情は、怒りでも軽蔑でもなかった。むしろ初めて自分と同じ言語を話す人間に出会ったかのような、驚きと、そして、ほんの少しの喜びのような色が浮かんでいた。
「……陽菜も、そう思うんだ」
詩織の声は、いつもより少しだけ、柔らかく響いた。その瞬間、二人の間の見えない壁が、音もなく崩れ落ちたような気がした。共有された秘密は、今、共有された倒錯した美意識へと昇華し、彼女たちの魂をより強く、深く結びつけようとしていた。
「綺麗」という一言は、まるで魔法の呪文だったかのように、詩織と陽菜の関係性を決定的に変えた。それはもう、単なる友人関係ではなかった。共有された秘密、共有された倒錯した美意識。それらが、二人を他の誰とも違う、特別な絆で結びつけていた。
二人は以前にも増して、二人だけの時間を過ごすようになった。サークルの集まりにも、あまり顔を出さなくなる。他の部員たちは、そんな二人を「相変わらず仲良いね」「二人とも、なんか雰囲気変わった?」と、少し不思議そうに見ていたが、詩織も陽菜も、そんな周囲の視線は気にならなかった。彼女たちには、二人だけの閉じた世界があればそれでよかった。
人気の少ない場所へ出かける「撮影会」は、彼女たちの密かな儀式の場となっていた。詩織は、もはや陽菜の視線を気にすることなく、彼女に見せるために行為を行っているかのように、大胆になっていった。そして陽菜は、その光景を以前のような戸惑いではなく、吸い込まれるような、熱っぽい視線で見つめるようになった。詩織の冷徹な美しさ、その足元で行われる破壊。そのすべてが、陽菜にとって抗いがたい魅力となっていた。
ある時河川敷の草むらで、詩織が大きなショウリョウバッタを踏み潰した後、陽菜に向かって言った。
「…陽菜も、やってみる?」
その声は、挑発的でもなく、命令的でもなく、ただ静かに、誘うような響きを持っていた。陽菜はドキリとしながらも、詩織の黒い瞳に見つめられると、逆らうことができなかった。
足元には、小さなテントウムシが歩いている。陽菜は震える足を、ゆっくりと持ち上げた。履いているのは、白いリボンのついた、フラットなバレエシューズ。可愛らしい彼女らしい靴だ。
しかしいざ踏みつけようとすると、どうしても躊躇してしまう。小さな命を、自分の手で、いや足で終わらせることへの、本能的な抵抗感。
「…できない…」
陽菜は、か細い声で呟き、足を下ろした。
詩織は、別にがっかりした様子もなく、ただ「そっか」とだけ言った。しかし、その瞳の奥には、陽菜が自分のコントロール下にあることへの、確かな満足感が浮かんでいるように見えた。
詩織は、陽菜が自分の影響を受けて、少しずつ変化していくのを楽しんでいた。それは明確な支配欲だった。そして陽菜もまた、詩織の期待に応えたい、詩織にもっと認められたいという思いから、無意識のうちに詩織の望む方向へと自分を合わせていこうとしていた。それは、歪んだ形の相互依存だったのかもしれない。
二人でいる時、詩織は時折、陽菜の足元に目をやった。陽菜の履いている、ガーリーなスニーカーや、フラットシューズ。
「その靴、可愛いね。…でも、意外と、しっかり踏めるかもよ」
そんな言葉を、詩織は悪戯っぽく囁くこともあった。陽菜はその度に顔を赤らめながらも、否定はしなかった。
路地裏で、二人並んで煙草を吸うことも、彼女たちの習慣になっていた。最初は詩織だけが吸っていたが、いつの間にか、陽菜も「一本ちょうだい」と言うようになっていた。細い煙草の煙が、二人の間に流れる、言葉にならない親密な空気に溶け込んでいく。共有される秘密は、煙のように形を変えながら、彼女たちの絆をより濃く、深く、そして危ういものへと変えていっていた。
それは、雨がしとしとと降り続いた後の、湿った空気の夜だった。詩織のアパートの部屋。外はもう真っ暗で、窓ガラスを涼しげな風が静かに叩いていた。部屋の中には、間接照明の暖かな光と、二人の間に流れる穏やかな、しかしどこか張り詰めたような沈黙だけがあった。
詩織が、ベランダに出て夜風にあたっていると、陽菜もその後ろについてきた。ひんやりとした空気が心地よい。ふと、詩織はベランダの手すりの上を這う、黒くぬめったものを見つけた。雨に濡れた大きなナメクジだった。ゆっくりとした、しかし確かな動きで、手すりの上を進んでいる。
詩織は、何も言わず、履いていたベランダ用の黒いミュール――少しヒールがあり、つま先が開いたデザインのもの――のヒール部分を、ナメクジの真上に持ち上げた。いつものように、無表情で、冷徹に。
しかし、ヒールが振り下ろされようとしたその瞬間。
「待って」
陽菜が、強い口調で詩織の手を掴んだ。詩織は驚いて陽菜を見る。
「……私がやる」
陽菜の声は少し震えていたが、その瞳には、強い決意の色が浮かんでいた。
詩織は、何も言わずに足を下ろした。ただ、陽菜の行動を静かに見守っている。
陽菜は、深呼吸を一つすると、自分の足元を見た。履いているのは、白い厚底のスニーカー。詩織のシャープなミュールとは対照的な、カジュアルで、どこか少女っぽさを残した靴だ。
意を決したように、陽菜は右足を上げた。そして、狙いを定め、一気に、スニーカーの底でナメクジを踏み潰した。
ぐちゅり。
鈍く、湿った音が響いた。厚底のスニーカーを通して、柔らかく、不快な感触が足裏に伝わってくる。陽菜は一瞬顔を歪めたが、すぐにぐっと唇を結び、さらに数回、体重をかけて踏みつけた。白いスニーカーのソールに、黒い粘液がべっとりと付着した。
「……っ」
陽菜の顔は蒼白だった。しかしその目には、恐怖や嫌悪感だけではない、複雑な光が宿っていた。それは興奮であり、達成感であり、そして、何かを乗り越えた証のようでもあった。彼女は震える声で、詩織の方を向いた。
「……できたよ、詩織ちゃん」
詩織は、そんな陽菜の姿を、満足げなそして、どこか深い愛情を込めたような表情で見つめていた。まるで待ち望んでいた瞬間が訪れたかのように。
「……うん」
詩織は静かに頷くと、陽菜の肩を優しく抱き寄せた。
「よくできたね、陽菜」
その言葉と共に、詩織の唇が陽菜の唇に、静かに重ねられた。驚きと戸惑いと、そして抗いがたい引力。陽菜はゆっくりと目を閉じた。
共有された秘密。共有された倒錯した行為。それが今、二人を唯一無二のパートナーにした。風の音だけが、彼女たちの歪んだ、しかし確かな絆を祝福するように、静かに窓を叩き続けている。
この先、彼女たちの関係がどのような色を帯びていくのか、誰にも分からない。しかし今はただ、互いの存在だけが、このモノクロームの世界で唯一の確かな色彩として、そこにあった。二人の少女の、歪んだ愛の物語は、静かな風の夜に、始まったばかりだった。
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