第七話 紗季
午後の日差しが、レースのカーテンを通して柔らかくリビングダイニングに降り注いでいる。磨き上げられたフローリング、埃一つないガラステーブル、クッションがきれいに整えられたソファ。壁には趣味の良い抽象画が飾られ、部屋の隅には観葉植物が瑞々しい緑を添えている。テーブルの上には、紗季が丁寧にいれたアールグレイの紅茶が、上品なティーカップの中で琥珀色に揺れていた。
奥村紗季、二十八歳。結婚して一年。誰もが羨むような「丁寧な暮らし」が、ここにはあった。
しかし、その完璧な空間の中で、紗季の心は静かに淀んでいた。指先で温かいティーカップを撫でながら、窓の外の、ありふれた住宅街の風景をぼんやりと眺める。夫は優しく、安定した収入があり、生活に不自由はない。喧嘩をすることもなく、穏やかな日々。幸せなはずなのだ。なのに、なぜだろう。胸の中に、ぽっかりと穴が空いたような、どうしようもない虚無感が広がっている。
(私は、ここで、何をしているんだろう……?)
結婚前は、都心のオフィスで忙しく働いていた。同僚たちとのランチ、仕事終わりの飲み会、週末の友人とのショッピング。それはそれで大変なこともあったけれど、確かな充実感があった。社会と繋がっているという実感があった。それに比べて、今の自分は? 朝、夫を送り出し、家事をこなし、買い物に行き、夕食の準備をする。その繰り返しの毎日。まるで、世界から切り離された小さな箱の中に、一人で閉じ込められているような感覚。
夫の帰りは、今日も遅いだろう。営業職の彼は付き合いも多い。仕方がないと頭では理解していても、一人きりの長い夜は紗季の孤独感を深くした。冷蔵庫にあるもので簡単に夕食を済ませ、洗い物を終える。時計はまだ九時を回ったばかりだ。
紗季は、音を立てないようにキッチンへ行き、換気扇のスイッチを入れた。戸棚の奥から、細身のメンソール煙草の箱を取り出す。結婚してから、夫には内緒にしている習慣だった。火をつけると、すーっとした冷たい煙が喉を通る。ベランダへと続く窓を少しだけ開け、換気扇の音に紛れてゆっくりと煙を吐き出した。
(馬鹿みたい……)
こんなことをしても虚しさが消えるわけではない。わかっている。それでもメンソールの刺激が、思考を一時的に麻痺させてくれるような気がした。
ふと窓の外、ベランダの手すりに目をやる。小さなクモが、健気に巣を張っていた。夕暮れの光を受けて、銀色に光る糸。その小さな、しかし確かな営みが、紗季にはなぜかひどく癇に障った。まるで自分の空虚さを嘲笑われているかのように。紗季は眉間に皺を寄せ、しばらくの間、その小さな黒い点を睨みつけていた。
週末の朝。紗季はマンションの小さな専用庭で、ガーデニングにいそしんでいた。夫が「うちの庭が一番きれいだね」と褒めてくれるこの場所は、紗季にとっても数少ない、達成感を得られる空間だった。色とりどりのペチュニア、可憐なノースポール、そして、爽やかな香りを放つローズマリー。それらが、紗季の手によって美しく配置されている。
今日の服は動きやすいように白いコットンTシャツに、ベージュのワイドパンツ。足元は汚れてもいいように、フラットなラバー製のガーデニングサンダルを素足に履いていた。
咲き終わった花がらを摘み、雑草を抜いていく。単調な作業だが、無心になれる時間でもあった。ふとパンジーの株元に、太く長い雑草が根を張っているのを見つけ、ぐっと力を込めて引き抜いた。その瞬間、湿った土の中から、にゅるり、とピンクがかった茶色のものが姿を現した。大きなミミズだった。
(うわっ……!)
思わず声が出そうになるのを堪える。くねくねと蠢くその細長い体。ぬらぬらと光る湿った皮膚。生理的な嫌悪感が、紗季の背筋をぞくりとさせた。普段ならそっと土に戻してやるか、見なかったふりをするだろう。しかし今日は違った。
昨日、夫と些細なことで口論になった。いや、口論にすらならなかった。紗季が感じている不満を、夫はいつものように「疲れてるんじゃない?」と軽く受け流しただけだった。その時の言葉にならない苛立ちと虚しさが、まだ胸の奥にくすぶっていた。
目の前のミミズが、まるでその時の夫の鈍感さの象徴のように思えた。あるいは、この単調で変化のない日常そのもののようにも。
紗季はゆっくりと周囲を見回した。隣の家の窓は閉まっている。庭の前の小道にも人影はない。誰も見ていない。
衝動は突然、しかし確信的にやってきた。紗季は右足に履いたサンダルを、ミミズの真上に持ち上げた。フラットなサンダルの底。何の変哲もない、波型の溝が刻まれているだけだ。
ぐにゅっ。
躊躇なく体重を乗せて踏みつけた。足裏に、柔らかく確かな抵抗感が伝わる。まるで熟れすぎた果物を踏んだような、鈍い感触。紗季は顔をしかめたが、足を離さなかった。さらに力を込め、ぐりぐりと土ごと踏みしだく。ミミズの体がちぎれ、ねじれ、潰れて土と同化していく。
行為の後、紗季はしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。足元のわずかに盛り上がった土。そこにかつて生命があった痕跡は、もうほとんど見えない。罪悪感は驚くほど希薄だった。むしろ胸の奥でつかえていた何かが、すとんと落ちたような、奇妙なすっきりとした感覚があった。日頃の漠然とした不満や苛立ちが、この小さな破壊行為によって、ほんの少しだけ浄化されたような気がした。
紗季は近くの水道で、サンダルの底についた土を入念に洗い流した。泥に混じって赤黒いミミズの欠片が流れ落ちていくのを、どこか冷静に見つめている自分がいた。自分の心の中にこんなにも冷たい部分があったのかと、少しだけ戸惑いを覚えた。しかしそれ以上に、先ほどの歪んだ解放感が、まだ微かに残っていた。庭に完璧な秩序を取り戻すように、彼女は再び雑草を抜き始めた。その手つきは、いつもよりも少しだけ力強かったかもしれない。
最初のひび割れは、やがて紗季の日常に深く刻まれる亀裂となった。庭でのミミズの一件以来、小さな生き物を踏み潰す行為は、彼女にとって虚しさを紛らわし、内に溜まったフラストレーションを発散するための、秘密の儀式となっていった。
それは庭の手入れ中だけにとどまらなかった。スーパーへの買い物の帰り道、ふと見つけたアリの行列。一人で気分転換に散歩している公園のベンチの下で見つけた、丸まっているダンゴムシ。街路樹の根元に落ちていた翅の欠けたセミの死骸。紗季の目は、無意識のうちに、そうした小さく無防備な存在を探すようになっていた。
特に外出時の行為は、紗季に特別な種類の興奮をもたらした。上品なワンピースや、きれいめのブラウスに膝丈のスカート。足元には、ヒールが5センチから7センチほどの、洗練されたデザインのパンプス。色は服に合わせてベージュ、グレー、ネイビーなど、落ち着いたものが多い。ポインテッドトゥのシャープなものもあれば、少し丸みを帯びたアーモンドトゥ、あるいはかっちりとしたスクエアトゥのものもある。
そんな、「良き妻」「上品な奥様」然とした装いのまま、道端の虫を踏みつける。そのギャップ、背徳感が、紗季の心を強く刺激した。
(こんな綺麗な靴で……ふふっ)
誰にも見られていないことを確認しながら、ヒールを振り下ろす。コツン、という硬質な音。あるいは、ぐしゃりという湿った音。パンプスの素材や、トゥの形状、ヒールの高さによって、足裏に伝わる感触は微妙に異なる。ポインテッドトゥの先端は、硬い甲殻を持つ虫をひねり潰すのに都合が良かった。スクエアトゥのしっかりとした接地面積は、体重をかけて柔らかいものを確実に押し潰した。靴底に刻まれたブランドロゴや滑り止めのための繊細なパターンが、潰れた残骸の上に、まるで彼女だけの秘密の刻印のように残ることもあった。
夫との関係も、間接的に彼女の行為を後押しすることがあった。彼は基本的に優しい。しかし鈍感だった。紗季が抱える漠然とした虚しさや孤独感に、彼は全く気づいていないようだった。
「今日も綺麗だね、紗季。家にいてくれると、本当に助かるよ」
彼のそんな何気ない一言が、紗季を「家にいるだけの存在」として規定しているように感じられ、無性に苛立ちを覚えることもあった。そんな日の翌日、紗季はいつもより執拗に、足元の小さな命を探し求めた。夫への直接的な不満を、歪んだ形でぶつけているのかもしれないと、心のどこかで気づいてはいたが、止めることはできなかった。
行為の後、あるいはどうしようもない虚しさに襲われた夜、紗季は決まって換気扇の下か、ベランダで煙草を吸った。細身のメンソール煙草。冷たい煙が、火照った心と体をクールダウンさせてくれるようだった。しかし、それはあくまで一時的なもの。煙が消えれば、また元の虚しさが戻ってくる。そしてその虚しさを埋めるために、彼女はまたハイヒールの裏側に隠された、残酷な快楽を求めてしまうのだった。完璧な妻の仮面の下で、彼女の心は静かに、しかし確実に蝕まれていっていた。
紗季たちの住むアパートメントの隣の部屋には、田中さんという年配の女性が一人で暮らしていた。世話好きで、おしゃべり好きな彼女は、ことあるごとに紗季に声をかけてきた。
「奥さん、いつもお庭きれいにしてるわねえ。感心しちゃう」
「旦那さん、優しそうでいいわねえ」
その言葉は、一見すると親切で、称賛のようにも聞こえるが、紗季にはどこか、値踏みするような、詮索するような響きが感じられて、少し苦手だった。
ある日の夕方、紗季が買い物から帰り、アパートの共用廊下を歩いていると、自分の部屋のドアのすぐ横の壁に、大きな蛾が張り付いているのを見つけた。茶色と黒のまだら模様で、翅を広げると手のひらくらいの大きさがある。昼間なら気にも留めないかもしれないが、その日は夫との間に少し気まずいことがあり、紗季の神経はささくれ立っていた。
(……邪魔)
ほとんど無意識のうちに、そう思った。履いていたのは、グレーのスエードパンプス。ヒールは6センチ。音もなく近づき、ためらうことなく、パンプスの底で壁の蛾を叩き潰した。バサッ、という乾いた音と、壁に押し付けられる鈍い感触。翅の鱗粉が、スエードの表面にわずかに付着した。
その瞬間、すぐ隣の部屋のドアがガチャリと開き、ゴミ袋を持った田中さんが出てきた。
「あら、奥さん、お帰りなさい」
田中さんは、にこやかに声をかけてきたが、その視線は一瞬、紗季の足元と、壁のシミに向けられたような気がした。紗季は心臓が跳ね上がるのを感じ、咄嗟に笑顔を作った。
「ただいま戻りました、田中さん。ゴミ出しですか?」
「ええ、そうなのよ」
田中さんは、紗季の顔をじっと見つめながら、ゆっくりとゴミ置き場の方へ歩いて行った。
(見られた……? いや、気のせいかもしれない……)
紗季は、早鐘を打つ心臓を抑えながら、急いで自分の部屋に入った。パンプスの底と表面についた鱗粉を、ティッシュで神経質に拭き取る。
その日以来、田中さんの紗季に対する態度が、やはり微妙に変わったように感じられた。以前にも増して、紗季の私生活を探るような質問が増えたのだ。
「奥さん、最近何かいいことでもあった? なんだか、すっきりしたお顔してるわね」
「お庭、綺麗にしてるけど、虫とか大変じゃない? 薬とか撒いてるの?」
その言葉の端々に、あの日の出来事を暗示しているような響きを感じ、紗季は生きた心地がしなかった。しかし、ここで動揺を見せるわけにはいかない。「良き妻」であり、「感じの良い隣人」でなければならない。紗季は、完璧な笑顔と言葉遣いで、当たり障りなく応対し続けた。
田中さんの存在は、紗季にとって新たなストレスの種となった。彼女の監視の目があるかもしれないと思うと、アパートの敷地内や近所での行為は、以前よりもずっと慎重になった。しかしその反動のように、誰も見ていないと確信できる場所では、より大胆に、より衝動的に振る舞うようになっていた。仮面を維持するための努力は、皮肉にも彼女の内なる衝動をさらに歪んだ形で増幅させていくようだった。紗季は、見えない檻の中で、もがき続けていた。
今日は、結婚記念日だった。二年目の。しかし、夫は急な残業で、帰りは深夜になると連絡があった。紗季は一人、ダイニングテーブルに、少しだけ手の込んだ料理と、奮発して買った赤ワインを並べていた。キャンドルに火を灯してみたが、部屋の静けさが、かえって虚しさを際立たせるだけだった。
ほとんど食欲もなく、ワインをグラスに半分ほど飲んだだけで、紗季は席を立った。やるせない気持ちを持て余し、いつものようにベランダへ出る。ひんやりとした夜風が心地よい。細身のメンソール煙草に火をつけ、深く煙を吸い込む。街の夜景が遠くに見えたが、何の感慨もわかなかった。
ふと、足元に置かれた、観葉植物の植木鉢の受け皿に目をやる。昼間の雨で少し水が溜まっていた。そして、その黒い水面の上に、大きめのアマガエルがおとなしく座っているのが見えた。のんびりした眠たげなその姿。
(……幸せそうね)
その、何の屈託もないような動きが、紗季には無性に腹立たしく感じられた。この息苦しい閉塞感の中にいる自分とは対照的な、あまりにも軽やかで、自由な存在。
紗季は、吸っていた煙草を携帯灰皿に強く押し付けた。そして、無言でカエルを見つめる。履いているのは、室内用の少しだけヒールのあるサテン地のスリッパ。色はシャンパンゴールドで、小さなリボンがついている、ややドレッシーなデザインだ。
衝動は静かに、しかし抗い難くやってきた。紗季は、右足のスリッパの少し尖ったつま先を、受け皿の水面へとゆっくりと下ろした。カエルに狙いを定める。
ふちゃっ。
小さな水音がした。スリッパの先端が水面を叩き、カエルは抵抗する間もなく、水底に押し付けられた。緑色の細い脚が数度痙攣し、動かなくなる。カエルは口から鮮やかな赤い臓物を吐き出して動かなくなっていた。
その、瞬間だった。
ガチャリ。
背後で玄関のドアが開く音が、やけに大きく響いた。続いて夫の明るい声。
「ただいまー、紗季? あれ、電気ついてるけど…ベランダ?」
(!)
紗季は、凍りついた。まさか、こんなに早く帰ってくるなんて。咄嗟に、手に持っていた(灰皿に押し付けたはずの)煙草を隠そうとして、逆に強く握りしめてしまう。足元の受け皿には、カエルの死骸が浮かんでいる。そして自分の顔には、今、どんな表情が浮かんでいるのだろうか。
夫が、リビングを抜け、ベランダへと続くガラス戸を開けて顔を出した。
「紗季、こんなところで……」
言いかけて、彼は言葉を失った。妻の手には、明らかに吸いかけの煙草。足元の受け皿には、何か赤黒いものが浮いている。そして何より、紗季の顔は、見たこともないほどに強張り、蒼白になっていた。
「……紗季? どうかしたのか? その煙草……それに、足元の、それ……」
夫の声は、困惑と、わずかな不安に震えていた。
紗季は、何も答えられなかった。夫に秘密を知られたかもしれないという激しい動揺。そして、自分の虚しさの果てに行き着いた、歪んだ行為を見られたという、深い羞恥。言葉が、喉につかえて出てこない。
完璧だったはずの日常。丁寧に築き上げてきたはずの「幸せな家庭」。その美しい表面に、決定的なひびが入った瞬間だった。まるで、手から滑り落ちて、床で粉々に砕け散ったティーカップのように。もう、元には戻れないかもしれない。
二人の間に、重たい沈黙が流れる。夜風が、紗季の乱れた髪を弄び、ベランダの小さな植物を揺らしている。遠くで聞こえるサイレンの音が、やけに大きく響いていた。彼らの結婚記念日の夜は、静かに、そして決定的に、終わりを告げようとしていた。
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