第二話 遥
柔らかな午後の光が差し込むオフィス。水野遥は、パソコンのモニターに集中していた。肩までの長さで綺麗に切り揃えられたナチュラルなボブヘアが、彼女の白いブラウスの襟にかかっている。指先はキーボードの上を滑らかに動き、時折、後輩の質問に丁寧に答える声は、落ち着いていて聞き取りやすい。三十二歳。中堅企業の営業事務として、彼女は部署に欠かせない存在だった。
その仕事ぶりは丁寧で正確。後輩の指導も的確で、誰に対しても分け隔てなく優しい。しかしそんな「完璧」な遥にも、時折小さな綻びがあった。例えば、重要な書類に押す判子の上下を逆にしてしまったり、淹れたお茶をデスクに運ぶ途中で、おっとっととバランスを崩してひっくり返したり。そんな時、周囲からは決まって和やかな笑いが起こる。
「あはは、遥さん、またやっちゃった」
「遥さんらしいね、可愛いところあるよな」
遥は、「もう、すみません!」と照れたように笑って応じる。そのしっかりしているようでいて、どこか抜けているギャップが、彼女を職場の「癒し系」「マスコットキャラ」たらしめている要因だった。男女問わず好かれ、「遥さんがいると場が和む」と誰もが口にした。
しかし、その笑顔の下で、遥はいつもギリギリの綱渡りをしているような感覚に苛まれていた。完璧を求められるプレッシャー。それに応えようとすればするほど、些細なミスが目立ってしまう自己嫌悪。そして何より、そのミスを「可愛い」「遥さんらしい」と、まるで許容されるべきキャラクターの一部のように消費されることへの、言いようのない苛立ちと屈辱感。
(……うるさい)
内心で毒づいても、表情は完璧な笑顔を崩さない。それが、三十二年間で彼女が身につけた、社会で生き抜くための鎧だった。
昼休み。社員食堂の喧騒を避け、遥は一人、普段はあまり人が来ない会社の屋上へと向かった。古びた扉を開けると、ひんやりとした風が頬を撫でる。手すりにもたれかかり、バッグから細いメンソールの煙草を取り出した。カチリ、とライターの音が響く。
深く吸い込むと、すっきりとしたミントの香りが口の中に広がり、肺を満たす。ゆっくりと煙を吐き出すと、オフィスで溜め込んだ澱んだ感情が、わずかに洗い流されるような気がした。遠くに見えるビル群を、遥はぼんやりと眺めていた。その横顔はオフィスで見せる柔和な表情とは違う、どこか硬質で、人を寄せ付けない雰囲気を纏っている。
ふと、視線を足元に落とす。履いているのは、今日おろしたばかりのベージュ色のポインテッドトゥパンプス。ヒールは7センチ。滑らかなカーフスキンが上品な光沢を放ち、鋭角的なトゥが洗練された印象を与える。肌色のストッキングに包まれた足首から、パンプスの美しいフォルムへと続くライン。完璧だ。しかしこの完璧さが、時として遥を息苦しくさせる。靴底はまだほとんど摩耗しておらず、メーカーのロゴがくっきりと刻まれている。この、まだ誰にも汚されていない綺麗な靴底が、まるで自分自身のようだと、遥は自嘲気味に思った。
煙草を携帯灰皿に押し付け、深く息をつく。さあ、午後の仕事も「完璧な笑顔」で乗り切らなければ。屋上の扉を閉める直前、遥はもう一度だけ、自分の足元を見下ろした。ヒールがコンクリートの床を打つ、硬質な音が小さく響いた。
午後の外回りから会社へ戻る途中、急な通り雨に見舞われた。折り畳み傘は持っていたが、足元はすっかり濡れてしまった。雨が上がり、雲間から薄日が差し始めた歩道を、遥は少し急ぎ足で歩いていた。水たまりを避けながら、パンプスが汚れないように気を配る。
ふと、目の前の濡れたアスファルトの上で、何かがゆっくりと動いているのに気づいた。立ち止まってよく見ると、それは一匹のカタツムリだった。雨に誘われて出てきたのだろう。灰色の殻を背負い、ぬらぬらとした体を懸命に動かして歩道を進んでいる。その動きはひどく鈍重で、無防備で、そしてひどく脆く見えた。
遥はその場に立ち尽くした。周囲を見渡す。平日の昼下がり、人通りは少ない。誰も遥の足元にいる小さな生き物には気づいていない。
遥の心の中に、黒く粘つくような衝動が、静かに鎌首をもたげた。それは日頃押し殺している苛立ちや攻撃性が、形を変えて現れたものだったかもしれない。「優しい」「いい人」の仮面が、音もなく剥がれ落ちていく。
肌色のストッキングに包まれた右足を、ゆっくりと上げる。雨に濡れたベージュのパンプス。その鋭利なポインテッドトゥが、カタツムリの真上に静止する。わずかな躊躇。しかしそれはすぐに、冷たい決意に変わった。
体重をかけ、一気に踏み潰した。
パリッ! グシャッ!
生々しい音が、遥の耳に届いた。靴底を通して、硬い殻が砕け、内部の柔らかい肉が潰れる感触が、ダイレクトに足裏に伝わる。遥は思わず息を飲んだが、すぐに無表情に戻った。
足を上げると、そこには無惨な光景が広がっていた。砕けた殻の破片と粘液状の体液が、アスファルトの上に飛び散っている。ベージュ色のパンプスの先端にも、その一部が付着していた。
遥は、その光景を冷めた目で見下ろした。罪悪感はほとんど感じなかった。むしろ胸の奥で澱んでいた何かが、すっと浄化されるような、歪んだ爽快感を覚えていた。まるで、心のデトックスでもしたかのように。
バッグからティッシュを取り出し、屈んで、パンプスについた汚れを拭き取る。粘液がなかなか取れずに少し手間取ったが、根気強く拭き取った。アスファルトに残った残骸には目もくれず、何事もなかったかのように立ち上がり、再び会社へと歩き出す。その顔には、いつもの穏やかで完璧な笑顔が戻っていた。
ただパンプスの靴底、細かな滑り止めの溝に残った、微細な殻の破片だけが、彼女がたった今犯した小さな秘密の行為を証明していた。ヒールがアスファルトを打つ音が、いつもより少しだけ、軽やかに聞こえる気がした。
一度知ってしまった解放感を、忘れることはできなかった。カタツムリを踏み潰したあの雨上がりの日から、遥にとって小さな生き物を踏みつける行為は、隠れて吸うメンソールの煙草と同じように、心のバランスを保つための、なくてはならない儀式となっていた。
通勤途中の公園の植え込みの影。昼休みに訪れる、古びたビルの裏手にある人気のない路地。時には会社の屋上の隅。遥は自分だけの「聖域」をいくつか見つけ、そこで人知れず、内なる衝動を解放した。
ターゲットはその時々で目についたものだった。雨上がりのミミズ、夏の盛りのセミ、秋の夜長のコオロギ。時には、道の端で力尽きているネズミの死骸を見つけることもあった。対象によって、踏み潰し方は変わった。柔らかいものには、ヒールで的確に一点を突くように。硬い殻を持つものには、体重をかけてじっくりと踏みしだくように。
その行為を行う時、遥は決まって、オフィスで着用している清楚な服装のままだった。白いブラウスに膝丈のタイトスカート。足元には、黒やベージュの、洗練されたデザインのパンプス。ヒールは5センチか、あるいは7センチ。ポインテッドトゥか、アーモンドトゥ。肌色のストッキングが、滑らかな脚のラインを強調する。
「こんな綺麗な靴で、踏まれてよかったね」
心の中で、あるいは本当に小さな声で呟きながら、彼女はヒールを振り下ろす。上品で完璧な自分と、足元で行われる残酷な行為。そのギャップ、背徳感が遥に倒錯した快感をもたらした。それは日頃の「いい人」という仮面を脱ぎ捨て、本当の自分を解放する瞬間だった。
パンプスは彼女の行為において重要な意味を持っていた。フラットパンプスは、面で押し潰す際に、独特の感触を足裏に伝えた。鋭利なピンヒールは対象を正確に貫き、破壊するのに効率的だった。ヒールの高さは、破壊力を増幅させた。そして、靴底に刻まれた、メーカーのロゴや滑り止めのための細かな線状のパターンは、踏み潰された残骸の上に、まるで彼女の署名のように、くっきりと痕跡を残すのだった。
行為の後、あるいはオフィスで強いストレスを感じた後、遥はしばしば煙草を吸った。屋上や帰り道の途中にある喫煙所で、メンソールの煙草に火をつける。すっきりとした煙を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。それは高ぶった神経を鎮め、冷静さを取り戻すための儀式でもあった。煙を吐き出しながら、パンプスのヒールで、コンクリートの床をコツ、コツ、と軽く打つ癖があった。それはまるで、次なる獲物を求める心の囁きが、ヒールを通して響いているかのようだった。
周囲は誰も、水野遥という女性が、その清楚な仮面の下に、これほどまでの暗い衝動と、歪んだ解放の手段を隠し持っていることなど、想像もしていなかった。彼女は今日も、完璧な笑顔と丁寧な物腰で、オフィスという名の舞台に立ち続けている。ヒールの下で囁かれる秘密の声を、誰にも聞かせることなく。
「水野さん、この資料のまとめ方、すごく分かりやすいです! 私も水野さんみたいに仕事ができるようになりたいです!」
キラキラとした瞳でそう話しかけてきたのは、入社半年の後輩、伊藤さんだった。彼女は、遥のことを心から尊敬しているようだった。仕事ぶりだけでなく、その優しい人柄、上品な服装や立ち居振る舞い、すべてが彼女の憧れの対象らしかった。
「ありがとう、伊藤さん。でも、私もまだまだ勉強中よ。一緒に頑張りましょうね」
遥は、いつものように穏やかな笑顔で応えた。後輩に慕われることは、悪い気はしない。しかしその純粋すぎるほどの憧憬の眼差しは、時として遥を息苦しくさせた。「完璧な先輩」でいなければならない、というプレッシャー。
その日の昼休み、遥は少し気分転換をしようと、会社の裏手にある小さな庭に出ていた。そこは普段あまり人が来ない、遥のお気に入りの場所の一つだった。古いベンチに腰を下ろし、ぼんやりと緑を眺めていると、足元に大きな黒いクモがいるのに気づいた。おそらくジョロウグモだろう。巣を張る場所を探しているのか、ゆっくりと地面を這っている。
(……ちょうどいい)
最近溜まっていたストレスが、むくりと頭をもたげる。周囲を確認する。誰もいない。遥は静かに立ち上がり、履いていた黒のアーモンドトゥパンプスのつま先を、クモの真上に持ってきた。そして躊躇なく、ぐっと踏みつけた。
ブチッ、という鈍い音と共に、足裏に確かな抵抗感が伝わる。さらに体重をかけ、ぐりぐりと靴底を擦り付ける。
その時、遥は気づかなかった。庭の入り口付近の物陰から、信じられないものを見るような目で、自分を見つめている伊藤さんの存在に。伊藤さんは、たまたま忘れ物を取りにオフィスに戻る途中で、憧れの先輩の衝撃的な行動を目撃してしまったのだった。
翌日から、伊藤さんの様子が微妙に変わった。遥に対してどこかぎこちなく、怯えているような態度が見え隠れするようになったのだ。以前のように、積極的に話しかけてくることも減った。
「伊藤さん、何かあった? 元気ないみたいだけど」
遥は、心配そうな表情で尋ねた。表向きは。しかし、内心では、冷たい予感が胸をよぎっていた。(まさか、見られた…?)
その疑念は、日を追うごとに強まっていった。伊藤さんの視線が、以前とは明らかに違う。それは憧憬ではなく、恐怖、あるいは戸惑い、そしてもしかしたら軽蔑の色を帯びているように感じられた。
ある日、遥がデスクでうっかりコーヒーを少しだけ書類にこぼしてしまった。以前なら、「遥さん、大丈夫ですか?」とすぐに駆け寄り、一緒に笑ってくれたはずの伊藤さんが、その時は一瞬、凍りついたように遥を見つめ、そしてさっと目を伏せたのだ。その表情には、怯えと、そして明らかに冷めたものが含まれていた。遥はその一瞬の変化を見逃さなかった。
(……やっぱり、見られたんだ)
確信に近い感情が、遥の心を支配した。完璧な先輩であり続けなければならないというプレッシャー。秘密が暴かれるかもしれないという恐怖。しかしそれと同時に、奇妙なことに、遥の心には別の感情も芽生え始めていた。それは伊藤さんもまた、自分と同じように、何かを隠しているのではないか、という歪んだ期待のようなものだった。
伊藤さんの視線を意識するようになってから、遥の踏み潰し行為は、より一層隠密になった。しかし時には逆に、まるで伊藤さんに見せつけるかのように、大胆な行動に出たいという衝動に駆られることもあった。彼女の心は、危ういバランスの上で揺れ動き始めていた。後輩の視線という名の新たなスパイスが加わったことで、秘密の儀式はより倒錯的で、危険なものへと変貌しつつあった。
部署の懇親会。居酒屋の賑やかな喧騒の中、遥はいつものように、にこやかに同僚たちの話を聞き、時折、気の利いた相槌を打っていた。しかし、内心では早く帰りたくて仕方なかった。注がれるビールを断りきれず、思ったよりも酔いが回っていた。テーブルの向こう側では、伊藤さんが同期の女性社員と小声で話している。ちらりとこちらを見たような気がしたが、すぐに目を逸らされた。
二次会には参加せず、遥は一人で店を出た。ひんやりとした夜風が心地よい。しかしアルコールのせいか、少し足元がおぼつかない。傘を差しながら、雨がぱらつき始めた夜道を歩く。
ふと、歩道の端、街灯の光が作る小さな円の中に、何かがうずくまっているのが見えた。近づいてみると、それは一羽のスズメだった。雨に濡れぐったりとしている。翼を痛めているのか、飛ぶこともできないようだ。小さな体で、か細く震えている。
遥は傘を差したまま、その場に立ち止まった。スズメを見下ろす。
「……可哀想に」
口ではそう呟いた。しかし、その目に宿っていたのは、同情とは程遠い、冷ややかな光だった。酔いと日頃のストレスと、そして伊藤さんへの複雑な感情が、頭の中で渦を巻いていた。この無力な小さな命が、今の自分にはひどく不快なものに思えた。
誘惑は突然やってきた。まるで悪魔が耳元で囁くかのように。遥はゆっくりと、持っていた傘を地面に置いた。雨粒が、彼女の髪や肩を濡らし始める。
履いているのは、今日の懇親会のために新調した、黒のエナメル素材のポインテッドトゥパンプス。ヒールは7センチ。雨に濡れたその表面が、街灯の光を妖しく反射している。
遥は震える息を吐き出しながら、右足を上げた。鋭く尖ったつま先が、うずくまるスズメの小さな頭の上へと、ゆっくりと近づいていく。
その瞬間だった。
「水野さんっ!!」
切羽詰まった、甲高い声が、雨音を切り裂いた。
はっとして振り返ると、そこには、息を切らした伊藤さんが立っていた。彼女も懇親会の帰りだったらしい。その手には、遥が店に忘れたストールが握られていた。届けに来てくれたのだろう。
しかし、伊藤さんの目は、ストールではなく、遥の足元にうずくまる小鳥、そしてまさにそれを踏み潰そうとしていた遥の、凍りついたような表情を捉えていた。その瞳には、恐怖と、信じられないものを見るような戸惑い、そしてはっきりとした軽蔑の色が浮かんでいた。
「……伊藤、さん……どう、したの…?」
遥は、はっと我に返り、慌てて足を引っ込めた。いつもの優しい先輩の顔を作ろうとしたが、声はかすかに震え、表情は引き攣っていた。取り繕うことなどもう不可能だった。
伊藤さんは、何も言わなかった。ただ手に持っていたストールを落としそうになりながら、泣きそうな顔で、震える唇で、遥を見つめているだけだった。
雨音だけが、しとしとと響き続けている。オフィスでの「完璧な先輩」の仮面は完全に剥がれ落ち、ヒールの下に隠されていた、遥自身の残酷な真実が、憧れていた後輩の目の前に、無残に晒されていた。
この先、どうなるのだろうか。遥は自分自身のこの闇と、どう向き合っていくのか。伊藤さんとの関係は、修復不可能なまでに壊れてしまったのか。
答えはまだ雨の中に霞んでいる。ただ、遥は悟った。もう二度と「いい人」の仮面だけでは生きていけないことを。ヒールの下で囁かれていた秘密の声は、今、はっきりと現実の音となって、彼女の耳に届いていた。雨に打たれながら、遥はただ立ち尽くすしかなかった。
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