第五話 莉乃

 窓の外は、どこまでも続くような灰色の曇天だった。教室の蛍光灯が白々しく、埃の舞う空気までをも照らし出している。教師の単調な声が、まるで効果音のように右から左へと通り過ぎていく。如月莉乃は、教科書の白いページに視線を落としたまま、意識は別の場所を彷徨っていた。完璧に整えられた黒髪が、白いブラウスの襟にかかる。クラスメイトたちの囁き声、ペンを走らせる音、時折響くくすくす笑い。そのどれもが、莉乃にとっては水槽のガラス越しに聞こえる音のように、どこか遠く、現実味がない。


 十七歳。私立清華女子高等学校の二年生。成績は常に上位で、教師からの信頼も厚い。物静かで、控えめ。それが、周囲が莉乃に抱くイメージであり、莉乃自身が丹精込めて作り上げてきた仮面だった。しかし、その薄い仮面の下では、言いようのない退屈と、形容しがたい苛立ちが常に渦巻いていた。まるで、サイズの合わない靴を無理やり履き続けているような、窮屈で不快な感覚。


 放課後のチャイムが鳴ると、莉乃は誰よりも早く教室を出た。友人たちの「一緒に帰ろう」という声も、「また明日ね」という軽い挨拶で振り切る。一人になりたかった。誰の視線も届かない場所で、深く息をつきたかった。



 週末。莉乃は自室の姿見の前で、今日の「衣装」を確認していた。身体のラインに沿ってしなやかに落ちる、真っ白なノースリーブのワンピース。一切の装飾がない、潔いほどのシンプルさが彼女の好みだった。素足。爪は短く切りそろえられ、薄いピンクのマニキュアが控えめに光っている。そして、足元には彼女の最も大切な「道具」――ポインテッドトゥの黒いエナメルパンプス。


 七センチのヒールが、彼女のふくらはぎのラインを美しく引き締める。鏡に映る自分の姿は、完璧なまでに清楚で、穢れを知らない少女そのものに見えた。莉乃はゆっくりと片足を上げ、靴底を鏡に向けた。細かな溝が幾何学的に刻まれた、滑り止めのための凹凸パターン。中央には、控えめなブランドロゴが刻印されている。この、普段は見えない部分にこそ、彼女の秘密は隠されていた。エナメルの艶を指で撫で、ヒールの先端が床を打つ硬質な音を確認する。準備は整った。


 街へ出ても、莉乃の心は晴れない。ショーウィンドウに映る自分の姿は、まるで借り物のようだ。カフェに入り、窓際の席でアイスティーを注文する。隣のテーブルでは、同年代の少女たちが楽しそうにスマートフォンを覗き込んでいる。その屈託のない笑顔が、莉乃には眩しすぎた。


 家に帰り着くと、莉乃はまっすぐ自室へ向かった。窓を開け放ち、慣れた手つきで細いタバコに火をつける。深く吸い込んだ紫煙を、ゆっくりと空へ吐き出した。灰色の空に、白い煙が溶けて消えていく。


「つまらない……」


 ぽつりと呟いた言葉は、誰に聞かれるでもなく空気に霧散した。


「何か、壊したい」


 それは、衝動だった。綺麗なもの、整然としたもの、そして何より、この退屈な日常そのものを。


「この綺麗な靴で、何か汚いものを踏みたい」


 その願望は、歪んでいるとわかっていた。それでも、心の奥底から湧き上がるこの黒い衝動を、莉乃は否定できなかった。タバコのフィルターを指で弄びながら、彼女は窓の外、夕暮れに染まり始めたアスファルトをぼんやりと見つめていた。足元のエナメルパンプスが、鈍い光を放っている。まるで、これから始まる秘密の儀式を、静かに待っているかのように。



 夏の午後の日差しは、まだ肌を刺すように強い。莉乃は、買い物帰り、少し遠回りをして人気のない公園に立ち寄った。木陰のベンチに腰を下ろし、バッグからタバコを取り出す。ライターの火が、カチリと乾いた音を立てた。深く吸い込んだ煙が、肺を満たし、ゆっくりと吐き出される。束の間の解放感。しかし、それだけでは満たされない渇望が、心の奥底で燻り続けていた。


 ふと、視線を足元に落とした時、それを見つけた。ベンチのすぐ脇、乾いた土の上を、黒い点々が忙しなく動き回っている。大きな黒アリの行列だった。一匹一匹は小さいが、統率されたその動きは、まるで一つの生き物のようだ。


 莉乃の脳裏に、遠い記憶が蘇る。幼い頃、祖母の家の庭で遊んでいた時のこと。無邪気に駆け回り、誤ってアリの巣を踏んでしまった。足の裏に感じた、プチプチとした微かな感触。慌てて足を上げると、そこには潰れたアリの残骸と、小さな土の窪みが残っていた。あの時の、形容しがたい罪悪感と、ほんの少しの好奇心。その感覚が、今、まったく別の意味を帯びて蘇ってくる。


 心臓が、少しだけ速く鼓動を打つのを感じた。喉が渇く。莉乃は無意識に唾を飲み込み、周囲を見回した。公園には誰もいない。蝉の声だけが、耳鳴りのように響いている。


 衝動は、突然やってきた。まるで、誰かに背中を押されるように。莉乃はゆっくりと立ち上がり、アリの行列の真上に、右足のパンプスを掲げた。黒いエナメルの鋭いトゥが、太陽の光を反射して鈍く光る。狙いを定め、ゆっくりと、しかし躊躇なく、ヒールを振り下ろした。


 プチッ。プチプチッ。


 乾いた、小さな破裂音。靴底を通して、足裏に微かな振動が伝わる。硬いような、脆いような、不思議な感触。莉乃はそのまま体重をかけ、ぐり、とつま先を捻った。土ごと、アリの行列を蹂躙する。


 ゆっくりと足を上げると、そこには無惨な光景が広がっていた。黒いシミのように見える、潰れたアリの残骸。土に混じり、もはや元の形を留めていない。莉乃のパンプスの先端、エナメルの滑らかな表面には、土と、おそらくはアリの体液が微かに付着していた。


 息が詰まる。罪悪感は、確かにある。しかし、それ以上に強い、背徳的な快感が全身を駆け巡っていた。禁断の扉を開けてしまったような、甘美で危険な感覚。莉乃はしばらくの間、足元の惨状と、自分のパンプスを交互に見つめていた。靴底の凹凸パターンには、黒い残骸がいくつも挟まっているのが見えた。


 その日から、何かが変わった。帰り道、莉乃は無意識に足元ばかりを見るようになった。アスファルトの亀裂、敷石の隙間、街路樹の根元。そこに潜む小さな命を探してしまう。ダンゴムシ、小さな甲虫、翅の折れた蛾。見つけると、心臓が小さく跳ねた。周囲に人がいないことを確認する冷静さと、早く踏み潰したいという焦燥感が、奇妙に同居していた。


 ポインテッドトゥの先端で、まず対象を軽く突く。逃げ惑う動きを確認し、次の瞬間、ヒールで的確に踏み潰す。コツン、という硬質な音。ぐしゃ、という湿った音。足裏に伝わる感触の違いを楽しむように。


 靴底の溝に挟まった残骸は、家に帰ってから、自室でこっそりと爪楊枝で掻き出す。それは、秘密の儀式の後始末であり、同時に、行為の痕跡を確かめる倒錯した満足感を伴う作業だった。黒いエナメルについた汚れを丁寧に拭き取り、再び完璧な輝きを取り戻させる。まるで、何もなかったかのように。しかし、莉乃自身も、そしてこの靴も、もう以前と同じではいられなかった。



 踏み潰す快感を知ってから、莉乃の世界は色を変えた。灰色の日常の中に、秘密の色彩が生まれたのだ。しかし、その色彩は、日を追うごとに濃く、どす黒いものへと変貌していった。最初はアリやダンゴムシといった小さな存在で満たされていた嗜虐心は、次第により大きな刺激を求めるようになっていた。


 梅雨時、雨上がりの歩道は、莉乃にとって格好の狩場となった。湿ったアスファルトの上を這う、大きなミミズ。ぬらぬらと光るその細長い体を、莉乃は嫌悪感よりも先に、好奇心で見つめた。白いソックスに、黒のエナメルパンプス。雨に濡れた路面に、ヒールの先端がコツリと音を立てる。


 躊躇は、もうほとんどなかった。狙いを定め、ヒールを振り下ろす。ぐにゅり、とした鈍い感触が、靴底を通してダイレクトに伝わってくる。体重をかけると、ミミズの体は容易く断裂し、赤黒い体液がアスファルトに染みを作った。莉乃は目を細め、その光景を観察する。靴底の細かな溝が、無惨な肉片を捉えている。快感と同時に、わずかな吐き気にも似た感覚。だが、それすらも刺激の一部だった。


 夏が深まると、獲物はさらに多様になった。公園の茂みで見つけた、羽化に失敗したらしいセミの幼虫。神社の裏手、苔むした石段の下に潜んでいた、小さなアマガエル。莉乃は、まるで昆虫採集でもするかのように、それらを見つけ出し、そして躊躇なく踏み潰した。


 カエルを踏んだ時の感触は、それまでとはまた違った。ミミズよりも確かな抵抗感。骨が砕けるような、微かな音。緑色の皮膚が破れ、内側から溢れ出す粘液。莉乃は、自分のパンプスのポインテッドトゥが、小さな命を容赦なく破壊していく様を、どこか冷静に見つめていた。白いワンピースの裾が、汚れないように少しだけ持ち上げる。その仕草は、まるでダンスのステップのようにも見えた。


 彼女にとって、白いワンピースと黒いエナメルパンプスは、もはや単なる服装ではなかった。それは、清楚な少女「如月莉乃」が、内なる破壊者へと変貌するための儀式に必要な礼装だった。純白と漆黒。そのコントラストが、彼女の行為の背徳性をより際立たせ、興奮を増幅させた。


 踏み潰す瞬間の描写は、莉乃の頭の中で何度も反芻された。対象物の最期の動き、ヒールが振り下ろされる軌道、靴底が接触する瞬間の音と感触、そして、残された無惨な痕跡。それらすべてが、一つの倒錯した芸術作品のように、彼女の記憶に刻み込まれていく。


 靴の手入れは、ますます入念になった。行為の後、靴底についた土や体液、虫の残骸を、莉乃は自室で人知れず、しかし執拗なまでに丁寧に取り除いた。ウェットティッシュで汚れを拭い、乾いた布でエナメルの表面を磨き上げる。靴底の溝に入り込んだ微細な欠片は、爪楊枝やピンセットを使って、一つ一つ掻き出す。それは、罪の証拠隠滅であると同時に、自らの行為を再確認し、その記憶を反芻する儀式でもあった。磨き上げられ、再び完璧な輝きを取り戻したパンプスを見るたびに、莉乃は奇妙な達成感と、次なる獲物を求める渇望を感じるのだった。


 行為の後、あるいは次の衝動に駆られる前に、莉乃はしばしばタバコを吸った。人気のない路地裏、夕暮れの河川敷。細いタバコから立ち上る紫煙は、彼女の内に渦巻く興奮と罪悪感、そして言いようのない孤独を、一時的に覆い隠してくれるようだった。「もっと、汚したい」「もっと、壊したい」。煙と共に吐き出される言葉にならない願望が、彼女の心を蝕んでいく。清楚な仮面の下で、莉乃は確実に、より深く、暗い快楽へと沈み込んでいた。



 その日、莉乃は特に大きな獲物を見つけた。学校からの帰り道、普段は通らない古い商店街の裏路地。ゴミ集積所の脇、湿ったコンクリートの上に、手のひらほどの大きさもある、黒光りするクモがいたのだ。おそらくはアシダカグモだろう。長い脚を蠢かせ、じっとしている。


 莉乃の心臓が大きく波打った。これほどの大きさのものを踏むのは初めてだった。周囲を見渡す。人通りはない。古びた建物の壁が、まるで舞台装置のように、莉乃とその獲物だけの空間を作り出していた。


 唾を飲み込み、ゆっくりと右足を上げる。黒いエナメルのパンプスが、夕暮れ前の淡い光を受けて妖しく輝く。狙いを定め、一気にヒールを振り下ろした。


 グシャッ!


 これまで聞いたことのない、鈍く湿った音が響いた。確かな抵抗感。硬い外骨格が砕け、内部の柔らかい組織が潰れる感触が、靴底を通して生々しく伝わってくる。莉乃は思わず息を飲んだ。体重をかけ、さらに数度、踏みつける。コンクリートの上に、黒と黄色の体液が飛び散り、無惨なシミを作った。


 その時だった。


「……へえ」


 低い、揶揄うような声が、すぐ背後から聞こえた。莉乃は凍りついた。全身の血が逆流するような感覚。ゆっくりと振り返ると、そこには、クラスメイトの高橋が立っていた。少し色褪せた学ランのボタンを外し、ポケットに手を突っ込んで、ニヤニヤと莉乃を見ている。校内でも、素行が良いとは言えない、少し影のある男子生徒だ。


「面白いもん、見たぜ」


 高橋の視線は、莉乃の顔ではなく、その足元、無惨に潰れたクモの残骸と、汚れの付着したパンプスに向けられていた。莉乃は顔から血の気が引くのを感じた。どうしよう。何を言えばいい? 頭の中が真っ白になる。否定も、肯定もできない。ただ、俯いて、自分の靴の先端を見つめることしかできなかった。


 高橋は、それ以上何も言わなかった。ただ、口の端を歪めて笑うと、「じゃあな」と軽く手を上げ、路地の向こうへと歩き去っていった。


 翌日から、学校での空気が変わった。莉乃は常に、高橋の視線を感じるようになった。教室で、廊下で、ふとした瞬間に目が合う。その度に、莉乃は心臓を鷲掴みにされるような恐怖と、同時に、あの路地裏での出来事を思い出させる奇妙な興奮に襲われた。秘密を知られてしまった羞恥心。しかし、なぜか、高橋の視線は、莉乃の行為を糾弾するものではなく、むしろ好奇心と、どこか共犯めいた色を帯びているように感じられた。


 数日後、高橋が莉乃に話しかけてきた。昼休み、一人で本を読んでいた莉乃の隣に、彼は無遠慮に腰を下ろした。

「なあ、如月」

「……なに?」

「この前のアレ、なかなかだったぜ」

 莉乃は顔を上げられなかった。

「別に、誰にも言わねえよ。ああいうの、俺も嫌いじゃねえし」

 高橋は、こともなげに言った。莉乃は驚いて顔を上げた。高橋は、相変わらずニヤニヤしている。

「なあ、今度、もっといい場所、教えてやろうか? デカいのがいるぜ」


 莉乃は何も答えられなかった。嫌悪感がある。関わってはいけないタイプの人間だと、頭ではわかっている。しかし同時に、心のどこかで安堵している自分もいた。秘密を知られ、それでもなお、否定されなかったことへの安堵。そして、高橋の言葉が、彼女の奥底にある暗い衝動を確実に刺激していた。


 それから、高橋は時折、莉乃に声をかけてくるようになった。誰もいない場所で、「あそこの公園の隅に、でかいカマキリがいたぜ」とか、「雨上がりのグラウンドの端、ミミズがすごかった」とか、囁くように教える。莉乃は、最初は無視しようとした。しかし、その情報が、抗いがたい魅力を持っていることを否定できなかった。


 高橋との間に、奇妙な共犯関係が生まれつつあった。彼は莉乃の秘密の唯一の観客であり、そして、扇動者でもあった。彼の視線を感じながら行う踏み潰しは、一人で行う時とは違う、倒錯した興奮を莉乃にもたらした。見られていることへの羞恥と、秘密を共有しているかのような錯覚。莉乃は、自分が危険な領域へと足を踏み入れていることを自覚しながらも、そのスリルから逃れることができなくなっていた。高橋の前でなら、もっと大胆になれるかもしれない。もっと、本当の自分を曝け出せるかもしれない。そんな危険な考えが、白いワンピースの下で、静かに芽生え始めていた。



 じっとりとした熱気が肌にまとわりつく、夏祭りの夜。遠くから聞こえる祭囃子と人々の喧騒が、まるで別世界の出来事のように感じられた。莉乃は、いつもの白いワンピースに、黒いエナメルパンプスを履いていた。今日は、少しだけ背伸びをして買った、いつもよりヒールの高い一足だ。足元が、いつもより少しだけ不安定な気がした。


 神社の境内は、浴衣姿の人々でごった返していた。莉乃はその人混みを抜け、高橋に指定された裏手の、薄暗い木立の中へと向かった。提灯の明かりも届かない、濃い闇が支配する場所。


「遅かったじゃん」

 木の幹に寄りかかっていた高橋が、タバコの火を揺らしながら言った。彼の足元には、何かが蠢いている。莉乃が近づくと、それが小さな麻袋だとわかった。

「いいもん、捕まえといたぜ」

 高橋はニヤリと笑い、麻袋の口を開け、中身を莉乃の足元に放り出した。


 全長20センチほどの、緑色のトカゲだった。驚いたように一瞬動きを止め、すぐに闇の中へと逃げようとする。しかし、高橋が素早くその尻尾を踏みつけた。トカゲは身を捩らせ、必死にもがいている。


「ほら、やれよ」

 高橋の声は、挑発的で、どこか楽しんでいる響きを帯びていた。莉乃は、足元で必死に逃れようとするトカゲを見下ろした。生々しい生命の躍動。それを、自分の手で、いや、足で終わらせる。


 遠くの喧騒が、嘘のように遠ざかっていく。この暗がりだけが、世界のすべてのように感じられた。莉乃の心臓が、早鐘のように打っている。高橋の期待に満ちた視線が、背中に突き刺さる。そして、内側から突き上げてくる、あの抗いがたい衝動。


 莉乃は、ゆっくりと右足を上げた。新調したばかりのパンプス。いつもより高いヒールが、ぐらりと揺れる。狙いを定める。トカゲの小さな頭。一瞬の躊躇。しかし、次の瞬間、莉乃は強く目を見開き、体重を乗せてヒールを振り下ろした。


 ゴツッ!


 鈍い音が、静かな闇に響いた。確かな手応え。硬い頭蓋骨が砕ける感触が、ヒールを通して足裏に伝わる。トカゲの体が一瞬痙攣し、そして動かなくなった。莉乃は息を止め、さらに数回、ぐりぐりとヒールを捻り込むように踏みつけた。緑色の体液と、わずかな血が、黒いエナメルと、地面の枯れ葉に飛び散る。


 これまで感じたことのない、強烈な快感。全身の神経が痺れるような感覚。しかし、その直後に襲ってきたのは、深い、底なしの虚無感だった。


「……ははっ、最高じゃん」

 高橋は満足そうに笑い、新しいタバコに火をつけた。そして、一本を莉乃に差し出す。莉乃は、震える手でそれを受け取り、火をつけた。紫煙が、震える唇から漏れ出す。


 足元には、無惨な残骸が転がっている。パンプスのヒールには、生々しい感触がまだ残っているようだった。靴底の溝には、緑色の欠片がこびりついている。


 この先に待つのは、解放なのだろうか。それとも、破滅なのだろうか。莉乃には、もうわからなかった。ただ、目の前の暗闇と、足元のパンプスに残る感触だけが、確かな現実のように感じられた。高橋との歪んだ関係。エスカレートしていくであろう、自身の暗い衝動。「悪い人間になりたい」という、かつての漠然とした願望は、今、歪んだ形で満たされつつあった。しかし、それは莉乃を救うどころか、より深い孤独へと誘っているのかもしれない。


 祭囃子の音が、まだ遠くで聞こえている。莉乃は、タバコの煙が目にしみるのを感じながら、ただじっと、暗い地面を見つめていた。白昼夢は、まだ終わらない。いや、始まったばかりなのかもしれなかった。

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