隣の車両は優しい世界

鏡水たまり

第1話

 四月、通勤通学に慣れていない新入生や新社会人が車内環境を悪化させる。スマホを操作するのが精一杯の窮屈な空間から束の間解き放たれて、憂鬱な気分のまま乗り換えのホームへ向かう。前の電車を降りた人達が改札機の前に溜まっている。その人混みの中に車椅子を一人で操る彼がいた。通勤ラッシュで一番混んでる時間に、車椅子なんて邪魔だな。

 その時は人ごとで、苛立さえ覚えていた彼の肩を持つようになるなんて思いもしなかった。


 桜もとうに散り、今は葉が生い茂るだけだ。季節の移り変わりはこんなにも目まぐるしいのに、車内の窮屈さはまったく変わらない。たった先週だけど先月の車内がひどく懐かしく感じてしまう。電車の本数が減ったのかと錯覚してしまいそうなほどの人の多さ。群れの中の草食動物みたいに、人の波にただ従って、乗り換えのホームへ向かう。

 今日は少し早かったのか、予定の一本前の電車がホームに入ってきたところだった。乗車位置に並ぶと、隣の乗車位置にスロープを持った駅員がいるのが見えた。

 電車のドアが開くと車椅子の彼が居座っていた。駅員が持っていたスロープを広げ、一番に彼が下車する。

 最後尾に並んでいた俺が電車に乗り込むとき、ホームはあれだけの人がいたのが嘘のように、ほとんどの人がすでに電車に乗り込んでいた。けれど隣はやっとスロープが片付け終わったようで、今から彼以外の乗客が乗り降りするところだった。

 ここだけ、ホームにまだ乗客が取り残されていた。


 発車した車内で、スマホがポケットにあることに気づく。身動きできない満員電車では、もうスマホを取り出すこともできない。

 さっきの光景を思い出す。前にすれ違った車椅子の彼なんだろうか? それなら、これから毎日彼とすれ違うことになるのか。すれ違うだけだったらまだマシだけど、同じ車両になると邪魔だな。あの車両には近づかないようにしよう。

 取り留めのないことを考えて、窮屈な満員電車の中で時間が過ぎるのを待つ。広告を無意味に見ながら、力強く車椅子を漕ぐ彼の後ろ姿が頭に残っていた。

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