五、紀蝶の章

 

 

 白檀のきつい匂いが部屋に漂い、壁には異国の絵や扇子が飾られている。天井からは優美な提灯が下げられていた。

「売れっ子の癖にこんな小店に入り浸るなんざ、女が腐るよ」

「女衒の主が何を言ってんのさ、ばあや?」

 番台の老婆が顔をしかめる。化粧以前にろくに髪を結っていない女は小気味よく笑った。

「あたしは殺しの為に廓にいるんだよ」

 女は髪をかき上げると、椿のかんざしで一つにまとめた。そして毒の入った紅を手に取る。指先で紅を救い取り、唇に乗せた。紅を引いただけなのに、女の顔は妖艶で禍々しい美しさがあった。

 老婆はわざとらしくため息をつく。

「ここはお陰参りの旅人が来る街だよ。毒なんて縁起でもない」

「そう言って、いつも見逃してくれるだろ」

 女の名は紀蝶。むろん誠の名ではない。十二才の時に遊郭の店、大里屋に入ってもう十年近く経つだろう。

 背中には醜い痣。腿には「じゃぐらを殺せ」「じゃぐらは化け物、女好き」と刻まれていた。顔に似合わず、醜い身体だこと。老婆は頬杖を突いて、番台の銭をいじっていた。

「お前さんが殺したい男ってのは未だ現れないのかい」

 老婆は銭を数えながら、紀蝶の横顔を盗み見た。彼女は鼻を鳴らして、唇を歪める。それから細いかんざしで頭を掻いた。

「化け物なんだよ」

 彼女は目を閉じて途切れ途切れの前世の記憶を思い起こそうとした。――薄暗い岩窟、遠くで聞こえる鳶の鳴き声、金色の瞳……。

「奴は女を喰う化け物。―ねえ、ばあや。あたしは美味しそうかい」

「お前を喰ったら、化け物でも腹を下すだろうよ」

 番台の老婆がからからと笑う。紀蝶が肩をすくめて、毒の紅を懐に入れた。



 鉅鹿峰の大蛇こと、じゃぐら。

 東の旅人より聞いた。神代より古に鉅鹿峰の岩窟に住まう奴は、かつて気に入った娘を探して、人に化けて山を降りたことがあるという。だが、その村は戦に巻き込まれ、略奪され、娘はいくら探しても見つからなかった。怒り狂った大蛇は娘の村を襲った郎党達を殺して回った。だが、娘は峰の崖下を流れる川で溺れ死んでいた……。

 記憶と同時に、熱く滾る憎しみが胸の底を炙った。慣れた熱だった。紀蝶は表情ひとつ変えずにふらりと店を出る。

 川下から吹く、生ぬるい風。

 自分の店へ帰ると禿の女童が三味線の練習をしていた。

「あんた、力みすぎだ。もっと力を抜いて弾いてみな」

 女童は紀蝶に見られて緊張したのか、さらに肩を強張らせる。紀蝶は肩をすくめると、床に腰を下ろした。

「餅、もろうてきたわ」

 竹包みにくるまれた餅を置くと、女童は三味線を置いて紀蝶のもとに寄る。もぐもぐと餅を頬張る女子たちを見ながら、彼女は微笑んだ。

 廓の下っ端は貧しい。飯にありつけるだけ田舎の娘っ子よりはマシかもしれないが、一杯おまんまが食べられて綺麗なおべべが着れるよと親に売られてきたにしちゃ、ひどく騙されたもの。そして最後はドブに若くして捨てられる。

 自分もその一人だが…と彼女は心内で笑いつつ、廓に来て良かったと独り言ちた。

(じゃぐらめ、いずれはこの遊郭に来い……)

 紀蝶は一塵の殺意を滲ませて、華やかなる郭の街道に目を向けた。


 廓へ来る前は文字なんぞ読めなかった。痩せた土地を耕して、痩せた幼い妹を背に負ぶって。真っ白な米は見たことない。母が病気になって、金が必要だった。すべて仕方のないこと。

 十二の時に大河を渡って、遊郭へ連れてこられた。道中の荒れ果てた山村と、船の帆先に鳶が留まっていたのを、今でも覚えている。



 その夜、馴染みの客が来なかった。問屋の太った男。事業が傾きかけていると噂を耳にしていたが、どうやら真らしい。何故か胸騒ぎしていた。紀蝶は所在なく太ももの痣に手をやった。普段、痛みはないはずなのだが、妙に疼いていた。

「あの子は高いからやめときなって」

 店先に覚えのない男が数人たむろしている。はじめてここへきたのだろう。身なりは悪くないが、浮足立っているのが端目にも分かる。田舎者よ――紀蝶は唇を湿らせ、愛想よく笑ってみせた。

 その男の中に妙な雰囲気をまとった者がいる。年は二十半ばだろうか。ゆったりとした濃紺の羽織に、鼠色の袴。地味な形にしては目つきがやけに鋭い。紀蝶が手招きすると、嘘のように目つきの鋭さがなくなり、柔和で親しみやすい男の顔になった。

 演技の上手いことだ。それにかなりの色男。

「おいでなすってよ」

 紀蝶は甘ったるい声で男たちを店へ招いた。


 青魚を酢で〆たもの、丸茄子の焚き合わせ、海老真薯の吸い物、茶椀蒸し、酒は澄んだ吟醸。出された料理を横目で見ながら、紀蝶は眉を寄せた。見かけによらず、随分と金のある客だったらしい。

(田舎者が羽目をはずしたかね)

 妙な雰囲気をまとった色男は青魚を肴に酒をゆっくりと味わっていた。きれいな酒の飲み方だった。

 しばらく明るい部屋で酒や踊りをたしなんだ後、目当ての男の腕に絡みつく。

「その名を聞いてなかったね」

 色男は口元に笑みを浮かべ、無言のまま酒をすすった。

「つれないこと」

 紀蝶は男の手を引き、一番の奥の部屋へ案内する。

 他の男たちは既に気に入った遊女を連れて二階に上がっていた。廓の階段はよくきしんだ。



 ふすまを閉めると、灯りを入れる。

「あたし、明るいのが好きなのよ」

「珍しいタチだな」

 男が愉快そうに笑った。

「腿にさ、痣があってね……」

 紀蝶は灯りを前にゆっくりと帯を解き始める。しかし、帯留めがどこかで引っかかっているのか、上手くほどけてくれない。紀蝶は心内で舌打ちする。

「おれが解いてやろうか」

 男が帯に指をかける。がっしりとした手だった。紀蝶は小さく頷いて、両手を男の頬に当てる。

 男の顔がほころび、「口づけても?」と尋ねられる。紀蝶は意地悪な笑みを浮かべた。

「まだ駄目」

「そうかい」

 男が紀蝶を押し倒し、一思いに着物の帯を解いた。

「腿に痣があるんだっけ」

「本当は腿だけじゃないけれど」

 紀蝶は苦笑しながら、閉じていた足を少し開いて見せた。男が目を細め、痣を視認する。

「じゃぐらを殺せ……?」

 男の眼つきが変わった。鋭くなり、端正な顔が青ざめる。懐から短刀を出した。

「何故だ」と男がきつく問うた。

 紀蝶は微笑み、男に深く口づける。あの毒を塗った唇で。

「こんなに痺れる口づけは二度とないわ、え?――化け物よ」

 男の息が荒くなる。

「復讐か」

「ええ」

 紀蝶は口紅を拭うと、サザンカのかんざしを髪から引き抜く。その切っ先は鋭く、兜花の毒を焼き付けてある。男が唇の端を噛んで何とか意識を保とうとしていた。無駄な抵抗に、ふふっと心の底から笑いが込みあがってくる。

「さっさと正体を現しな、じゃぐら!」

 男に馬乗りになると、喉元にかんざしを突き付ける。男がもうろうとした意識の中で、その腕を掴んだ。

「おれはじゃぐらではない……楡の…」

「は?」

 紀蝶は目を見開いた。尋ね返す前に男が力尽き、腕を離されてしまう。その刹那、かんざしが落ち、男の喉笛を突き刺した。

 激しく血潮が噴き出し、廓の小部屋を真っ赤に染める。

「なぜ、復讐と分かった」

 紀蝶は顔に着いた血を拭わず、男に詰め寄った。

「お前はなんだ、なんなんだ?」

 彼女が問いかけるも男は既に事切れていた。

 騒ぎを聞きつけた店の者たちがふすまを開け、中の惨状に驚愕する。

 紀蝶は即刻捕えられ、牢獄に送られた。殺した男の名は、楡家の夏仁というらしい。かの国できちんと埋葬されたと聞く。それは彼が化け物ではない、れっきとした人間だったという証明だった。

 彼女は牢でひどい拷問にかけられる。殴られ、鞭で打たれ、塩水をかけられ……。なぜ、殺したかと何度も何度も尋ねられたが、紀蝶は口を閉ざし続けた。

「じゃぐら、お前はどこにいる」

 傷口が膿み、熱を帯びる。そのまま病にかかって、彼女は紀蝶としての生を終えた。





 前世で受けた傷が痣となって今生に現る子。紀蝶を殺したいくつもの傷や打ち身は全て痣となり、顔も身体も化け物のごとく成り果てた。忌子を産んだ母親は慄き打ち震えて、涙を流しながら子を捨てる。春先のうららかな日だった。薬師のばあさんが痣だらけの子を拾って、育てようと決心する。ばあさんは赤子に名前を授けた。


 名は、荒菊という。 

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