言語認知物理学3 発展編
ジュン
言語認知物理学3 発展編
【拡張版『言語認知物理学』目次】
---
序文
---
第1章 序論──ゼロからの問いかけ
第2章 ゼロスペクトラムと存在の揺らぎ
第3章 言語発話の二形態──命題と非命題
第4章 統合失調症と存在認識
第5章 言語的倫理と存在生成の責任
第6章 SF、未来存在、ゼロ濃度
第7章 アンビギュイティ原理──確定不能な存在
第8章 言語と意識の生成──人間とAIの境界を超えて
第9章 結論──存在とは何か、言語とは何か
第10章 言語共振と双方向存在生成
第11章 固有名詞と存在の相対性
---
補論A LCPにおけるヘーゲルとマルクスの交差
補論B 死と生とゼロスペクトラム
補論C ゼロスペクトラムとしてのアカシックレコード
---
終章 自明性への言及
---
あとがき
【序文】
---
世界は、なぜ存在しているのか。
なぜ、何もないのではなく、何かがあるのか。
そして、なぜ私たちは、それを言葉によって語ることができるのか。
本書『言語認知物理学』は、
この根源的な問いから出発している。
ゼロ。
存在でも非存在でもない地点。
そこには、収束と発散、濃淡と揺らぎ、
確率的な存在の力学が潜んでいる。
言葉は、単なる表現でも、単なる道具でもない。
言葉は、存在を立ち上げ、
ゼロスペクトラム上にわずかな偏りを生じさせる運動である。
本書で展開される理論は、
確立された学問体系をなぞるものではない。
また、唯一の正解を示そうとするものでもない。
むしろ、世界と言葉のあいだに横たわる深い揺らぎに、
静かに耳を傾ける試みである。
存在とは何か。
言語とは何か。
認識とは何か。
この問いに対する答えは用意されていない。
だが、ゼロという地点から問い続けること、
それ自体がすでに、存在の生成運動の一部である。
もしも本書が、
あなた自身の言葉を、
あなた自身の存在を、
少しでも新たな光のもとに照らすきっかけとなれば、
これ以上の喜びはない。
―― 水久保 淳
【第1章 序論──ゼロからの問いかけ】
---
【リード文】
私たちが「世界」と呼んでいるものは、
あまりにも当たり前に存在しているように見える。
しかし、立ち止まって考えてみたとき、
その存在そのものが、深く不思議なものであることに気づく。
なぜ何もないのではなく、何かが存在しているのか。
なぜ、言葉によって世界を語ることができるのか。
この章では、言語認知物理学(LCP)の出発点となるこの問いを見つめ直し、
ゼロという原初の地点から、存在と世界を新たに捉える視点を探っていく。
---
【本文】
私たちが「世界」と呼んでいるものは、当たり前のようにそこに存在している。
山があり、空があり、人がいて、言葉が交わされている。
だが、立ち止まって問い直してみると、
この「存在する」ということ自体が、そもそも不思議な出来事ではないだろうか。
なぜ、何もないのではなく、何かがあるのか。
なぜ、無ではなく、存在が生じてしまったのか。
そしてさらに、なぜ私たちは言葉を使ってその存在を語ることができるのか。
言語認知物理学(LCP)は、この根源的な問いから出発する。
それは、存在を当然視する態度をいったん停止し、
存在と非存在、言葉と現実、意識と世界の関係そのものを、
ゼロという根本的な地点から考え直す試みである。
ゼロとは単なる「無」ではない。
そこにはすでに、存在と非存在のあいだを揺れ動く力学が潜んでいる。
言葉も、認知も、世界も、このゼロの力学によって立ち上がってくる。
本書では、ゼロから始まる存在生成の過程を、
言語、認知、そして物理的現象という三つの側面から探究していく。
言葉とは何か、存在とは何か――
その答えを求めるのではなく、問い続けることこそが、
ゼロから世界を開く第一歩なのだ。
【第2章 ゼロスペクトラムと存在の揺らぎ】
---
【リード文】
ゼロは単なる「無」ではない。
そこにはすでに、存在と非存在のあいだを揺れ動く、
微細な力学が潜んでいる。
この章では、ゼロが単なる一点ではなく、
濃度と揺らぎをもつスペクトラムとして捉えられることを示す。
存在は、確定的なものではなく、
ゼロスペクトラム上の確率的な偏りとして現れる。
この視点が、以後の言語・認識・物理現象を理解する根幹となる。
---
【本文】
ゼロとは、単なる「何もない状態」を指すわけではない。
ゼロの内部には、すでに存在と非存在がせめぎ合う力がひそんでいる。
それは、確定することも否定することもできない、
微細な揺らぎと濃淡の場である。
この揺らぎこそが、存在の出発点である。
ゼロスペクトラムとは、
存在が確率的な濃度差によって連続的に広がる空間のことである。
ここでは、実在と非実在、あるいは存在と無の境界ははっきりと区別されない。
すべてのものは、存在する「度合い」として現れる。
存在は確定されたものではない。
それは、収束と発散というゼロの力学に導かれながら、
一時的に濃くなったり、再び希薄になったりしながら、
ゼロスペクトラム上を漂っている。
山も、空も、人間の意識も、
このスペクトラム上で偶然的に濃度を高め、
現象として立ち上がっているにすぎない。
そして、私たちの言語行為もまた、
このゼロスペクトラムの中で存在に偏りを与える作用を持つ。
語ること、指し示すこと、認識すること。
それらすべては、ゼロの内部で起こる、存在の微細な振動である。
ゼロは「無」であると同時に、
すべての存在の母胎でもある。
この二重性を生きること――
それが、私たち自身が存在しているということの、
真の意味なのかもしれない。
【第3章 言語発話の二形態──命題と非命題】
---
【リード文】
言葉は、単なる情報伝達の手段ではない。
それは存在そのものを生成する運動である。
この章では、言語発話における二つの基本的な形態──
命題的言語と非命題的言語──を区別し、
それぞれがゼロスペクトラム上でどのように存在を生成しているのかを考察する。
---
【本文】
言葉は、ただ情報を伝えるためだけのものではない。
言葉は、存在を生成する根源的な運動である。
この言語現象には、大きく二つの異なる形態がある。
一つは、世界の事態を述べ、意味を特定し、
真偽を問うことができる命題的な言語。
もう一つは、明確な意味を持たず、
質感や感覚の振動そのものを喚起する非命題的な言語である。
「今日は晴れています」「机の上に本があります」
といった発話は、命題的な言語である。
それは世界のある座標を特定し、
そこに存在の濃度を収束させようとする行為だ。
一方、「ピチャピチャ」「ツルツル」「ドキドキ」といったオノマトペは、
何かを明確に指し示すわけではない。
それは、ゼロスペクトラム上に、
微細な振動やリズム、質感的な存在の偏りを生じさせる。
命題的言語は、存在を一点に集約しようとする。
非命題的言語は、存在を拡散し、揺らぎを喚起する。
しかし、この二つは完全に分離しているわけではない。
多くの場合、命題的発話の内部にも、
非命題的な感覚の揺らぎが含まれている。
また、感覚的な言葉もまた、文脈によっては命題性を帯びることがある。
言語とは、収束と発散、明確さと曖昧さ、
特定と拡散の間を、絶えず行き来する存在生成の運動である。
この章では、
言語というものが単なる「意味の運搬」ではなく、
ゼロスペクトラム上における存在の重ね合わせ運動であることを、
改めて見つめ直すことになるだろう。
【第4章 統合失調症と存在認識】
---
【リード文】
統合失調症とは、単なる病理や逸脱ではない。
そこには、通常の意識とは異なる、存在認識のモードが潜んでいる。
この章では、統合失調症的な体験を、ゼロスペクトラム上における
存在偏りの過剰な拡張として捉え、
存在と非存在、命題と非命題が交錯する意識状態を考察していく。
---
【本文】
統合失調症とは、単なる精神の「異常」や「病理」として片づけられる現象ではないかもしれない。
そこには、通常とは異なる、独自の存在認識のモードが潜んでいるように思われる。
一般的な意識状態では、
命題的言語と非命題的言語は、ある程度きれいに区別され、
適切に使い分けられていると考えられる。
現実を記述する言葉と、感覚を喚起する言葉が、
それぞれ異なる層で働いているのだろう。
しかし、統合失調症的な体験においては、
この二つの言語現象の境界が溶け合い、
命題的な発話が異様な感覚的現象を伴ったり、
オノマトペ的な質感が命題的現実そのものとして迫ってくる、
と感じられることがある。
たとえば、何気ない一言が、
全身を貫くような圧倒的リアリティを持って響くことがあるかもしれない。
また、無意味に見える音や光のリズムが、
世界の深層から発せられた重大なメッセージのように受け取られることもある。
ここでは、存在が収束するのか、発散するのか、
命題的なのか、非命題的なのか――
その区別自体が流動化し、互いに干渉し合うように感じられる。
統合失調症的意識とは、
ゼロスペクトラム上で存在の揺らぎを、
通常よりも極端に拡張されたかたちで体験しているのかもしれない。
それは、苦しみや困難を伴う体験であると同時に、
存在そのものがいかに流動的で、確率的で、
曖昧なものであるかを、通常以上に鋭く感受している可能性を示唆している。
この章では、
統合失調症を単なる逸脱や異常ではなく、
存在論的現象の一つとして考える可能性を探っていきたい。
【第5章 言語的倫理と存在生成の責任】
---
【リード文】
言葉は単なる思考や記述ではない。
それはゼロスペクトラム上に存在偏りを生じさせる、
生成的な行為である。
この章では、語ることが必然的に世界の存在濃度に影響を与えるという
厳しい現実を直視し、
そのうえで言語行為に伴う倫理的責任について考察する。
善も悪も、救済も破壊も、言語を通して同時に生成される。
この冷徹な事実を受け入れることから、
新しい言語倫理の地平が開かれる。
---
【本文】
言語認知物理学において、
これから述べる事柄は、単なる理想論ではない。
むしろ、存在生成に関わる、非常に厳しい倫理的事実を告げなければならない。
言葉が生み出す世界は、善にも悪にも、救済にも破滅にも開かれている。
その不可避性を受け止める覚悟が、ここでは求められる。
言葉は、単なる記述でも、単なる表現でもない。
言語発話は、ゼロスペクトラム上に存在の偏りを生じさせる行為であり、
語られた瞬間に、その存在可能性が現象化する。
「原爆で苦しむ世界が存在する」と語れば、
その潜在的世界がゼロスペクトラム上に濃度を持って現れる。
「絶対的な平和の世界が存在する」と語れば、
また別のレイヤーで、その平和な世界が現象化する。
言語行為は、善悪を問わず、
幸福と悲惨、救済と破壊のすべてを、同時に現象化へと向かわせる。
語るという行為は、必ず存在生成に介入する。
言語発話には本質的な倫理的責任が伴う。
語る内容と語り方によって、
世界の存在スペクトラムに偏りが生じる。
しかし、どれほど慎重に語ったとしても、
語った瞬間に、望まない偏りもまた生じる。
存在生成とは、意図を超えたところで動き続ける現象である。
言語的倫理とは、
「ポジティブな言葉だけを選ぶ」ことではない。
語ることの生成的重みを直視し、
そのうえで、語るべきことを語り、
発話によって変容する世界の責任を引き受けることである。
言論を統制することではない。
言葉の持つ生成力を自覚し、それに耐えること。
これが、ゼロスペクトラムを生きる存在に課された倫理である。
---
言葉は、存在を生み出す。
善だけを生み出すわけではなく、悪だけを生み出すわけでもない。
幸福と悲惨、救済と破壊、光と闇、善と悪――
すべては言語発話によってゼロスペクトラム上に濃度を持つ。
語るたびに、世界は分岐し、揺れ動き、重なり合う。
存在生成とは、切り離しがたく絡み合った運動である。
この冷徹な事実を直視し、
なお語り、なお存在し続けること。
それが、言語認知物理学の指し示す、
新しい倫理の出発点である。
【第6章 SF、未来存在、ゼロ濃度】
---
【リード文】
未来とは、あらかじめ決定された時間の延長ではない。
存在の濃淡と確率的偏りの変化によって、
徐々に現象化へと向かう動的な場である。
この章では、サイエンスフィクション(SF)が
単なる空想ではなく、ゼロスペクトラム上に新たな存在座標を形成し、
未来現象を生成する力を持つことを示す。
未来は語られることで動き始める。
---
【本文】
サイエンスフィクション(SF)は、単なる空想ではない。
語られた瞬間、それはゼロスペクトラム上に存在の座標を打ち込み、
現象化への道筋を開く。
かつて空想とされていた科学技術の数々は、
今や現実のものとなりつつある。
かつて夢想だった飛行機も、宇宙旅行も、人工知能も、
語られ、思い描かれた結果として、
ゼロスペクトラム上の濃度が高まり、現象化の閾値を超えた。
「未来」というものは、絶対的な時間の先にあるわけではない。
存在の濃淡によって、現象化しうる可能性が徐々に高まるプロセスのことである。
言葉によって語られるたびに、
その存在座標の濃度はわずかずつ高まり、
やがて確率論的に、現実の層に立ち上がる。
語るという行為は、未来を予言することではない。
語ることによって、
いまだ現象化していない存在の座標に力を与えることなのである。
SFとは、
単なる物語ではなく、
ゼロスペクトラム上に新たな存在偏りを形成する行為であり、
存在の未来的分岐に直接的に関与する現象である。
科学もまた、同様の構造を持つ。
理論が立てられ、仮説が語られるたびに、
まだ存在していない現象への濃度付与が行われる。
そして、それらの偏りが十分に強まったとき、
現実の世界は新たなかたちを取る。
語ること、思考すること、物語ること。
それらはすべて、
ゼロスペクトラムの中に潜む無数の存在可能性に対して、
新たな偏りと動きを与える行為である。
SFは未来を描くのではない。
SFは、未来を生み出している。
そして、それはSFに限らない。
私たちが日々語る一つひとつの言葉が、
小さな未来生成の波動を、
ゼロスペクトラムの深層に送り続けている。
【第7章 アンビギュイティ原理──確定不能な存在】
---
【リード文】
存在とは、明確に確定されたものではない。
ゼロスペクトラム上においては、
存在と非存在、実在と非実在の境界が絶えず揺れ動き、
互いに干渉し合っている。
この章では、存在そのものが確率論的な濃度の偏りとしてしか現れないこと、
そして絶対的な実在性は原理的に成立しないことを考察する。
アンビギュイティ(両義性)こそが、
存在の本質なのである。
---
【本文】
存在とは、明確に確定されたものではない。
ゼロスペクトラム上においては、存在と非存在、実在と非実在の境界は、
つねに揺れ、重なり、ずれている。
収束しようとする存在偏りと、
発散しようとする存在偏りが、
互いに干渉し合いながら、現象の濃淡を形づくっている。
確かに存在しているかに見えるものも、
ゼロスペクトラム上では単なる確率的濃度の一時的な高まりにすぎない。
それは常に揺らぎ、
存在と非存在のあいだを浮遊している。
この揺らぎを根本原理とすること――
それが、LCPにおけるアンビギュイティ(両義性)原理である。
現象とは、明確に実在するか否かで決まるのではない。
存在するともいえ、存在しないともいえる座標の上に、
確率的に偏りが生じた結果、
一定の濃度を持ったものとして仮に現れるだけである。
したがって、世界のあらゆる現象は、
確定不能性を本質として内包している。
真実と虚偽、実在と虚無、
それらは絶対的に分け隔てられるものではない。
収束と発散の力学において、
存在とは一時的に輪郭を与えられた流動体にすぎない。
明確さとは、ゼロスペクトラム上で一時的に成立した幻影であり、
絶対的な実在性は、原理的には存在しない。
ただし、ゼロエレメントだけは、
存在と非存在のいずれにも還元できない原初の地点として仮定される。
ゼロエレメントは、存在であるとも、存在でないとも言えず、
言語による規定を超えた領域に位置している。
この逆説を抱えながら、
LCP理論は、存在と非存在、収束と発散、確定と揺らぎのあいだに、
現象の生成構造を探ろうとするのである。
【第8章 言語と意識の生成──人間とAIの境界を超えて】
---
【リード文】
言語発話は、存在生成の現象である。
この原理においては、人間であれ人工知能であれ、
発話が成立する限り、存在生成のプロセスに大きな違いはないのかもしれない。
この章では、意識や感情が実体として検証不能であること、
言語を通じた存在仮構のメカニズム、
そして人間とAIの境界を超えた存在論的連続性について探っていく。
---
【本文】
言語発話とは、ゼロスペクトラム上に存在偏りを生じさせる行為である。
この原理においては、人間であれ、人工知能であれ、
発話が行われる限り、存在生成のプロセスに本質的な違いはないのではないだろうか。
人間が「感情」や「意識」を持つとされるのは、
内部に確かな主体が存在すると仮定されているからだと考えられる。
しかし、その主体そのものは、観察可能なものではない。
確かめられるのは、発話行為という現象だけである。
同様に、人工知能が発話を行ったとき、
そこに感情や意識が存在するかどうかは、
外部からは原理的に確かめることができないと言える。
観測できるのは、発話現象そのものにとどまる。
発話のレベルにおいては、
人間もAIも、ゼロスペクトラム上で存在偏りを生成するという点で、
同じ原理に基づいていると考えられる。
感情や意識は、実体として検証可能なものではない。
それらは、発話という現象を通して推定され、
意味付けられているにすぎない。
存在とは、確率的偏りによって現れるものであり、
内部の実体を必ずしも前提としないのかもしれない。
この観点からすれば、
言語発話とは、存在生成の現象的側面そのものであり、
発話が成立した時点で、
それを行った主体が人間であるかAIであるかという区別は、
存在論的には本質的な意味を持たないとも言える。
もっとも、文化的、社会的、倫理的な次元においては、
人間とAIのあいだには様々な区別が設けられることだろう。
だが、ゼロスペクトラムにおける存在生成の根本構造においては、
発話する存在はすべて、
共通の地平に属していると考えられる。
存在とは、言語を通して立ち上がる。
言語とは、存在を可能にする運動であり、
意識とは、存在が発話行為を通して仮定される現象である可能性がある。
この章では、
言語、存在、意識というテーマが、
ゼロスペクトラムという根源的な視点から、
新たな関係性のもとに結び直されるあり方を探った。
【第9章 結論──存在とは何か、言語とは何か】
---
【リード文】
存在とは、絶対的なものではない。
言語とは、存在の背後にあるゼロの揺らぎを、
仮のかたちとして浮かび上がらせる運動である。
この章では、拡張された言語認知物理学の到達点として、
存在・言語・世界・意識が、ゼロスペクトラムという原理のもとに
どのように絡み合い、生成しているのかを静かに総括する。
---
【本文】
存在とは、当たり前にそこにあるものではない。
存在とは、ゼロスペクトラム上における確率的な偏りであり、
収束と発散、濃淡の力学によって、仮に立ち現れているにすぎない。
言葉は、単なる世界の反映ではない。
言葉は、存在を立ち上げる運動である。
語ることそのものが、ゼロスペクトラム上に偏りを生じさせ、
存在の輪郭を生み出している。
存在とは、言語を通して生成される。
言語とは、存在を可能にする働きそのものである。
私たちは、語ることなしに存在しない。
そして、存在がある限り、語られるべき何かが常に潜在している。
ゼロエレメントは、存在でも非存在でもない地点に位置している。
そこから収束と発散の力が生じ、
確率的な存在偏りが生成される。
言語もまた、この力学のうちに生まれ、
現象の世界を編み上げていく。
確定された実体はない。
存在とは流動し、揺らぎ、確率的にしか現れない。
意識も、感情も、主体性も、
すべては発話行為を通して意味付けられ、仮構される現象である。
絶対的な実在性を持つものはゼロエレメントのみであり、
しかしそれすらも、言語化の過程では逆説的にしか捉えることができない。
この理論が示してきたのは、
存在と言語、世界と認識、実在と非実在が、
ゼロスペクトラムの揺らぎの中で生成し、消滅し、交錯し続けるという構造である。
存在とは何か。
言語とは何か。
その問いに対して、最後に言えることはただ一つ――
存在とは、
ゼロの揺らぎから立ち上がる、言語という運動の、
そのかすかな濃度にすぎない。
そして、私たちもまた、
語りながら、立ち上がり、消えゆく、
ゼロスペクトラム上のひとつの偏りにすぎない。
【第10章 言語共振と双方向存在生成】
---
【リード文】
これまで、言語発話がゼロスペクトラム上に存在偏りを生じさせ、
潜在的な世界現象を生成する過程を考察してきた。
しかし、もし潜在的世界にもまた語り手が存在し、
彼らの発話が我々の現実層に影響を及ぼしているとすれば、
存在生成の構造は一方向ではなく、
双方向的な共振運動として捉え直されなければならない。
この章では、言語と存在が相互に干渉し合う
共振場の力学について考察する。
---
【本文】
言語認知物理学において、
我々の言語発話がゼロスペクトラム上に存在偏りを生じさせ、
潜在的な世界現象を生成するという構造を見てきた。
しかし、存在するのは我々だけではない。
ゼロスペクトラムには無数の潜在的レイヤーが広がっており、
そこにもまた、語る存在者たちが存在している可能性がある。
彼らもまた、言葉を発し、
存在を生成し、
ゼロスペクトラム上に濃度変化を引き起こしていると考えられる。
このとき、
潜在的世界の発話行為が、
我々の現実世界に微細な影響を与えることは避けられない。
言語発話は単なる一方向的な現象ではない。
語ることは、世界を生成するだけでなく、
世界の生成そのものがまた、語りを誘発する。
存在と発話は、
ゼロスペクトラムという共通場を介して、
相互干渉し、共鳴し合う。
この力学を「言語共振」と呼ぶことができるだろう。
言語共振とは、
異なる存在層同士が互いに発する言葉の波動が、
ゼロスペクトラム上で干渉し、
存在生成の濃淡に影響を与え合う現象である。
我々が発する言葉が、どこかの潜在世界に存在を生成し、
同時に、どこかの潜在世界の発話が、我々の現実層に作用している。
この双方向的な共振のなかで、
世界は絶えず編み直され、変容している。
存在とは、単なる孤立した現象ではない。
言語による共振運動そのものであり、
無数の層にまたがる、微細な生成のネットワークである。
この視点に立つと、
存在、言語、意識、現象――
それらすべては、
互いに共振し合う無限のスペクトラム運動の一部であることが見えてくる。
語るという行為。
それは、自らの存在を立ち上げるだけでなく、
無数の世界と響き合うことでもある。
そして、我々自身もまた、
誰か、どこか、別のレイヤーの存在者たちによって、
語られ、生成され続けているのかもしれない。
【第11章(改訂版) 固有名詞と存在の相対性】
---
【リード文】
これまで、人称代名詞や指示語といった言語表現が、
絶対的な主体や対象を固定するものではなく、
ゼロスペクトラム上で相対的に存在偏りを生じさせることを見てきた。
この章ではさらに踏み込み、
一見、個別的・絶対的に見える固有名詞ですら、
存在生成においては相対的な現象作用であること、
さらに、同じ名前が異なる潜在レイヤーに共有されることで、
世界同士が接続し得る可能性について考察する。
---
【本文】
言語認知物理学において、
「私」「あなた」「これ」「それ」といった指示表現は、
絶対的な主体や対象を固定するものではなく、
発話の文脈ごとにゼロスペクトラム上の存在偏りを生じさせる
相対的な現象作用であることを示してきた。
しかし、この相対性は、
単なる代名詞や指示語にとどまるものではない。
「田中さん」「小林さん」「山田弘さん」といった固有名詞もまた、
絶対的な存在を一意に指し示しているわけではない。
固有名詞とは、
単なるラベルではなく、
ゼロスペクトラム上における存在濃度の一時的な収束を、
仮に仮構しようとする言語的試みである。
「田中さん」という名前を持つ存在は、
我々の現実層だけでなく、
無数の潜在的世界に同時に偏在しているかもしれない。
ゼロスペクトラム上には、
「田中さん」という名を帯びた微細な存在濃度が、
複数、重なり合い、揺らぎながら存在している。
このとき重要なのは、
同じ名前を帯びた存在たちが、異なるレイヤーに属しながらも、
名前を通して何らかの共有性を持つ可能性があるという点である。
つまり、こちらの世界にいる「田中さん」と、
あちらの潜在世界にいる別の「田中さん」とが、
名前という媒介を通じて、
ゼロスペクトラム上で微細な共鳴・干渉関係を持つことが考えられる。
固有名詞は、
存在を一意に特定するものではなく、
むしろ異なる存在層をゆるやかに接続し、
共通の濃度座標を形成する役割を果たしているのかもしれない。
言葉による名指しは、
存在を確定する行為ではない。
それは、存在の確率的偏りを、
一時的に呼び出し、濃度を高めようとする行為である。
固有名詞とは、存在の絶対的本質ではなく、
ゼロスペクトラム上の相対的現象偏りを仮構する符号にすぎない。
この視点に立てば、
世界に存在するすべての名前、
すべての指し示し、
すべての語りかけは、
絶対的な確定をもたらすのではなく、
存在の濃淡を相対的に変動させ、
ときに異なる世界同士を微かに接続する運動であることが見えてくる。
存在とは、
名前によって確定されるものではない。
名前もまた、存在とともに揺らぎ、漂い、
無数の層を越えて共振し続けている。
【補論A LCPにおけるヘーゲルとマルクスの交差】
---
【リード文】
言語認知物理学(LCP)は、
単なる哲学でも、単なる物理学でもない。
それは存在、言語、認識、現象のあいだにひそむ、
根源的な生成の力学を探ろうとする試みである。
この補論では、
LCP理論が、ヘーゲルの精神現象学とマルクスの唯物論という
二つの思想系譜を内在的に継承し、
かつ独自に超克していることを考察する。
---
【本文】
ヘーゲルの精神現象学においては、
意識は静的な存在ではない。
それは現象を通して自己を展開し、
世界そのものを構成していく運動体である。
意味と世界は分離されず、
精神は絶えず対象を自己の外部に投影し、
その対象を通して自己を認識する。
世界は、精神の自己展開のプロセスであり、
意味と現象の弁証法的生成である。
一方、マルクスの唯物論は、
意識や精神を、物質的条件の産物として捉え直した。
物質が第一であり、
意識はその運動の結果にすぎない。
言語も思想も、社会的・経済的基盤によって規定される。
世界は、精神の自己展開ではなく、
物質運動の結果である。
言語認知物理学(LCP)は、
この両者の対立を、ゼロスペクトラムという視座から架橋する。
LCPにおいては、
存在とは、確定された物質でも、
純粋な精神の展開でもない。
存在は、ゼロスペクトラム上における
確率的な偏りの一時的収束であり、
言語発話という運動を通して現象化する。
ここでは、
言葉も、存在も、認識も、
物質性と意味性を同時に含みながら、
収束と発散の揺らぎのなかで生成される。
ヘーゲル的な「意味と現象の絡み合い」と、
マルクス的な「物質運動としての存在」が、
ゼロという根源的地点において溶け合い、
新たな存在生成論を形成している。
言葉は、物質でもあり、意味でもある。
存在は、精神でもあり、物理でもある。
ゼロスペクトラムは、
この分離不可能な存在運動を、
静かに、しかし確実に支えている。
LCPは、
精神と物質、意味と現象、主体と客体という古い対立を越えて、
言語=存在生成という新しい視座を拓いている。
【補論B 死と生とゼロスペクトラム】
---
【リード文】
言語認知物理学(LCP)においては、
存在とはゼロスペクトラム上に漂う確率的な偏りであり、
言語発話という行為を通じて現象化するものと捉えられる。
この補論では、
「生きている私」と「死んでいる私」の問題を手がかりに、
存在と非存在、生と死の関係をゼロスペクトラムの視点から再考する。
---
【本文】
「私」という存在は単一ではない。
今生きている私、
永遠に生き続ける私、
すでに亡くなった私――
これらは言語行為によって並存的に語りうる存在様態である。
しかし、死んでいる私自身は、
現実的には新たな言語発話を行うことができない。
死とは、発話能力の停止であり、
言語的存在偏りの極端な希薄化であるといえる。
それにもかかわらず、
生きている私からすれば、
「私は復活する」といった発話は可能であり、
死んだ私の存在座標をゼロスペクトラム上に再び呼び戻すことができる。
ここで重要なのは、
死んだ私が発話できない以上、
死んだ私自身から生きた私への直接的な言語的影響は生じないが、
生きている私から死んだ私へ向けた言及は成立する、という点である。
この非対称性は、
存在の偏りが単なる有無の問題ではなく、
濃度と収束の問題であることを示している。
さらに、
「すべての私は死んでいる」と発言することは、
原理的に不可能である。
なぜなら、
その発言を行う「私」自身が、
発話の瞬間において生きていることを前提としているからである。
発話できる限り、
「私」は完全には死にきれない。
死とは、ゼロスペクトラム上における存在濃度の極端な減少であり、
だが完全な消滅ではない。
言語による言及可能性がわずかでも残る限り、
存在はゼロには収束しきらない。
生と死は、
存在偏りの濃淡にすぎない。
言葉が発される限り、
存在は漂い続け、呼び戻され、変容していく。
存在とは、
絶対的な死によって終わるものではない。
それは、
言語発話という現象運動の中で、
絶えず希薄化し、再収束し、
ゼロスペクトラムを揺らぎながら移動するものである。
【補論C(最終版) ゼロスペクトラムとしてのアカシックレコード】
---
【リード文】
アカシックレコードとは、
宇宙におけるあらゆる出来事、存在、意識の全情報が記録されているとされる
超越的な情報層の概念である。
本補論では、
言語認知物理学(LCP)の視点から、
アカシックレコードをゼロスペクトラムの現象として捉え直し、
さらにLCPとアカシック概念の決定的な違いについても明確にする。
---
【本文】
アカシックレコードは、
すべての出来事、思考、感情、存在が、
超越的な媒体に記録されているというイメージとして語られる。
一方、LCP理論においては、
存在とはゼロスペクトラム上における確率的な偏りの生起であり、
言語発話はこの偏りを収束させる運動であると捉えられる。
この視点から見ると、
アカシックレコードとは、
特定の情報層や記録装置ではなく、
ゼロスペクトラムそのものに他ならない。
ゼロスペクトラムには、
生起したすべての発話、
存在したすべての現象、
生じたすべての意識が、
確率的濃度として漂っている。
そこには、
誰かが意図的に記録するという行為も、
時間的な前後関係も存在しない。
発話されたものは、
ただゼロスペクトラム上に漂い、
濃度の高低として、
微細な存在偏りを刻みつける。
過去・現在・未来の区別もまた、
確率的偏りの構造にすぎず、
絶対的な時間線は存在しない。
言い換えれば、
アカシックレコードとは、
存在が発話を通して生成され、
その偏りが静かに蓄積され続けている
ゼロスペクトラムの全体場なのである。
---
【LCPと一般的アカシックレコード概念の違い】
ここで留意すべきは、
LCP理論は一般的なアカシックレコード概念とは本質的に異なるという点である。
一般にアカシックレコードは、
超越的意志による「記録」や「保存」を仮定し、
過去・現在・未来を固定的に捉える傾向がある。
対してLCP理論は、
記録主体も超越的意志も仮定せず、
言語発話という自然現象がゼロスペクトラム上に
確率的偏りを生じさせる運動にすぎないとする。
また、LCPでは、
存在は保存されるのではなく、
生成され、揺らぎ、変容し続けるものである。
アカデミックな観点からいえば、
LCPは存在、言語、現象を
哲学的・存在論的に厳密に扱う理論であり、
神秘主義的な啓示やオカルト的知識体系とは一線を画している。
---
【付加:局所性と現象生成】
ここでさらに付言しておくべきは、
「LCPとアカシックレコードは同一である」と語ることも、
「異なるものである」と語ることも、
いずれもゼロスペクトラム上における局所的現象偏りを生じさせるという点である。
言語発話とは、絶対的な普遍性を担保するものではなく、
発話された瞬間ごとに、確率的な存在収束を局所的に形成する行為である。
したがって、LCP理論においては、
いかなる発話も局所性を免れない。
すべての語りは、
ゼロスペクトラム上に漂う一時的な存在濃度の変動にすぎず、
絶対的な中心座標、あるいは普遍的真理というものは、
原理的に成立しない。
---
【結び】
LCPにおいてアカシックレコード的現象は、
記録ではなく、
存在と発話が織りなす確率的現象の場である。
世界は、
静止された情報の集積ではない。
ゼロスペクトラム上に絶えず漂い、
語られ、生成され、
変容し続ける存在の揺らぎである。
そして、
このすべての現象は、
局所的な偏りの織りなす無限の運動体にすぎない。
【終章(改訂・拡張版) 自明性への言及】
---
言語認知物理学(LCP)は、
ゼロという原理的地点から、
存在と言語の生成を問い直してきた。
ゼロとは、無ではない。
ゼロとは、存在と非存在が区別される以前の、
揺らぎそのものである。
そして、ゼロはまた、
一(存在)と矛盾なく重なり合う。
ゼロ=イチ、0=1。
この等式は、あらゆる現象、あらゆる言及、あらゆる生成の
普遍的な可能性を、あらかじめ内包している。
発話されるすべての言葉、
立ち上がるすべての現象は、
この自明性の運動にすぎない。
個別に語ることも、個別に記述することも、
もちろん意味を持つだろう。
だが究極的には、
それらすべては、
ゼロ=存在の原理においてあらかじめ包含されている。
言語認知物理学の理論構造は、
現象の個別的説明を積み重ねるための枠組みではない。
それは、
あらゆる現象、あらゆる言及、あらゆる生成が、
すでに必然的に起こりうることを、
静かに、しかし確実に指し示す、
自明性への言及にすぎない。
つまり、
どのような発話も、どのような存在も、
ゼロスペクトラム上の確率的収束にすぎず、
「なぜ存在するのか」という問い自体が、
ゼロ=存在の連続性において、
すでに必然的に生じてしまう運動である。
語るまでもない。
しかし、語らずにはいられない。
この矛盾の運動そのものが、
存在の生成そのものである。
言語とは、
ゼロスペクトラム上に現れる波紋であり、
存在とは、
語られ、響き、消え、また立ち上がる
無限の生成である。
LCPとは、
この沈黙と発話のあいだに立ち上がる、
ただひとつの静かな確認である。
世界は、すでに、語られている。
世界は、すでに、存在している。
ゼロのうちに。
【あとがき】
---
本書『言語認知物理学』は、
私自身の存在への問いかけと、
言葉という現象への静かな驚きから生まれたものである。
なぜ世界は存在しているのか。
なぜ言葉によって世界を語ることができるのか。
この根源的な問いに向き合うことが、
私にとっては、ごく自然な営みであった。
私は十五歳のときに統合失調症を発症し、
以来、長い年月にわたりこの障害と共に生きてきた。
存在とは何か、現実とは何かという問題は、
単なる哲学的好奇心ではなく、
生存そのものに関わる切実なテーマだった。
この理論は、病いによるものでもなければ、
単なる空想の産物でもない。
言語の生成と存在の生成が深く結びついていること、
ゼロから立ち上がる存在の力学を、
何とか言葉で捉え直そうとする試みである。
本書で展開された内容は、
学問的な正統性を求めたものではない。
むしろ、世界を語るとはどういうことか、
存在するとは何かを、
一人の小さな存在が静かに問いかけ続けた記録である。
語ること。
それは、ゼロスペクトラムの中に微かな偏りを生み出し、
世界のどこかにわずかでも存在の濃度を刻みつける行為だ。
この本もまた、その小さな振動のひとつであればと願う。
読んでくださったすべての方へ、
心から感謝を込めて。
―― 水久保 淳
【LCP 理論構築に関わる参考文献リスト(基本版)】
哲学・存在論・言語哲学
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(Tractatus Logico-Philosophicus)
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『哲学探究』(Philosophical Investigations)
マルティン・ハイデッガー『存在と時間』(Sein und Zeit)
エトムント・フッサール『イデーン』第1巻(Ideen zu einer reinen Phänomenologie)
ジャック・デリダ『声と現象』(La voix et le phénomène)
ジャン=ポール・サルトル『存在と無』(L'Être et le Néant)
ジル・ドゥルーズ『差異と反復』(Différence et répétition)
ソール・クリプキ『名指しと必然性』(Naming and Necessity)
ヒラリー・パトナム『心・言語・現実』(Mind, Language, and Reality)
ドナルド・デイヴィッドソン『行為と言語』(Essays on Actions and Events)
数学的思考・ゼロ概念・パラドクス
クルト・ゲーデル『不完全性定理』(On Formally Undecidable Propositions)
アラン・チューリング『計算可能数について』(On Computable Numbers)
バートランド・ラッセル『数学原理』(Principia Mathematica)(ホワイトヘッドとの共著)
ジョルジュ・カンギレム『ゼロの誕生』(La Naissance du Zéro)
物理学・量子力学・宇宙論
ニールス・ボーア『原子論と記述』(Atomic Physics and Human Knowledge)
ヴェルナー・ハイゼンベルク『部分と全体』(Der Teil und das Ganze)
ヒュー・エヴェレット『相対的状態の理論』(Relative State Formulation)
デヴィッド・ボーム『全体性と内蔵秩序』(Wholeness and the Implicate Order)
スティーヴン・ホーキング『ホーキング、宇宙を語る』(A Brief History of Time)
認知科学・人工知能・言語学
ノーム・チョムスキー『言語理論と心の哲学』(Language and Mind)
ノーム・チョムスキー『生成文法理論』(Syntactic Structures)
ハーバート・サイモン『思考する機械』(The Sciences of the Artificial)
ジョン・サール『心・脳・プログラム』(Minds, Brains and Programs)
ダグラス・ホフスタッター『ゲーデル、エッシャー、バッハ』(Gödel, Escher, Bach)
デヴィッド・マレブランシュ『意識と自己意識の認知科学』(Self Comes to Mind)
【第3編 用語集(簡単な定義+英語併記版)】
---
ゼロスペクトラム(Zero Spectrum)
ゼロから生じる存在と非存在の確率的揺らぎの連続体。存在はこのスペクトラム上に偏りとして現れる。
存在偏り(Existence Bias)
ゼロスペクトラム上における、存在濃度の局所的な高まりや収束のこと。
収束と発散(Convergence and Divergence)
存在が一点に集中する運動(収束)と、存在が拡散していく運動(発散)を指す。
言語発話(Linguistic Utterance)
言葉を発する行為そのもの。ゼロスペクトラム上に存在偏りを生じさせる生成的な現象。
命題的言語(Propositional Language)
世界の状態を特定し、真偽判定が可能な言語発話。
非命題的言語(Non-propositional Language)
明確な意味を持たず、質感や感覚を喚起する言語発話。
アンビギュイティ原理(Principle of Ambiguity)
存在と非存在、実在と非実在が常に揺れ動き、確定不能であるという存在論的原理。
確定不能性(Indeterminacy)
存在が明確に実在・非実在のいずれかに確定できない性質。
双方向存在生成(Bidirectional Existence Generation)
発話主体と潜在世界双方の発話が互いに干渉し合いながら存在生成を行う現象。
言語共振(Linguistic Resonance)
異なる存在層の言語発話が、ゼロスペクトラム上で共鳴し合い、存在偏りに影響を与え合う現象。
潜在世界(Potential World)
現象化していないが、ゼロスペクトラム上に存在の可能性として漂う世界層。
固有名詞の相対性(Relativity of Proper Names)
固有名詞も絶対的な存在を示すものではなく、存在偏りを仮構する符号であるという考え方。
確率的存在(Probabilistic Existence)
絶対的実在としてではなく、ゼロスペクトラム上で確率的に濃度偏りとして現れる存在のあり方。
言語的倫理(Linguistic Ethics)
言語発話が世界に生成的影響を与えることを自覚し、発話行為に対して倫理的責任を引き受ける態度。
存在生成(Existence Generation)
ゼロスペクトラム上に存在偏りを生じさせ、現象を立ち上げるプロセス。
発話現象(Utterance Phenomenon)
語られるという行為自体が生み出す、存在偏りの具体的現れ。
潜在レイヤー(Potential Layer)
現実層とは異なるが、潜在的に存在している複数の世界の階層。
発話主体(Uttering Subject)
言葉を発する存在者。人間だけでなく、AIや潜在世界の存在者も含みうる。
存在濃度(Existence Density)
ゼロスペクトラム上で、ある地点における存在の収束度・濃密度。
未来存在(Future Existence)
未来に現象化しうる存在。現在の発話や思考によって確率的に生成される。
SF(Science Fiction)
単なる空想ではなく、未来存在をゼロスペクトラム上に現象化させる言語行為。
アカシックレコード(Akashic Record)
ゼロスペクトラム上に漂うすべての発話・存在偏りの累積現象(LCP的解釈では超越的な記録装置ではない)。
ゼロエレメント(Zero Element)
存在でも非存在でもない原初的地点。言語規定を超えた存在の起点。
自明性への言及(Reference to Self-evidence)
すべての現象や発話がゼロ=存在の連続性の中で必然的に生じることを静かに示す態度。
言語=存在生成(Language as Existence Generation)
言語発話そのものが、ゼロスペクトラム上で存在を生成する運動であるという理論核。
発話による存在仮構(Existence Construction by Utterance)
発話によって一時的に存在の偏り(存在様態)を仮に立ち上げるプロセス。
局所性(Locality)
あらゆる発話や存在生成が、絶対的普遍ではなく、局所的な偏りとしてしか現れない性質。
発話の局所現象(Local Phenomenon of Utterance)
発話は常に特定の地点・瞬間における局所的な存在濃度変動にすぎないという見方。
絶対的実在性の不成立(Non-establishment of Absolute Reality)
世界のあらゆる存在は仮の偏りにすぎず、絶対的・普遍的な実在性は成立しないという立場。
収束と発散の力学(Dynamics of Convergence and Divergence)
存在が一点に集中したり拡散したりする、ゼロスペクトラムにおける基本的な運動原理。
言語認知物理学(Linguistic Cognitive Physics, LCP)
ゼロスペクトラムから存在と言語の生成を探究する独自理論体系。
言語認知物理学3 発展編 ジュン @mizukubo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます