第21話 官邸迷走す




――総理官邸、午前10時。


官邸内の会議室に、与党幹部と主要閣僚たちが集められていた。深い緑の絨毯の上に並ぶ椅子には、重苦しい沈黙の中、背筋を張る男たちが並んでいる。

その中心、長机の最奥に座る男――総理大臣・茫然総一は、まるで場違いな場所に連れてこられたかのような表情で虚空を見つめていた。


「総理……お言葉をお願いします」


財務大臣が口を開く。声の抑揚こそ丁寧だが、その実、苛立ちが滲み出ていた。


「国内のダンジョン、すでに28か所です。以前は6か所だったものが、わずか数週間で……。国民は不安を募らせているというのに、このまま静観とはどういうおつもりですか?」


「そ、それは……まず、関係省庁の……調整を……」


「“調整”という言葉が何度も出ますが、その調整とやらで、何か一つでも前進しましたか?」


続いて経済産業大臣が鋭く詰め寄る。


「我々のところには、地方自治体から直接の悲鳴が届いています。『ダンジョン調査の人員がいない』『自衛隊の派遣要請は受け流されている』と。これでは地方が孤立する」


「た、だから……省庁横断の連携を……」


「それを指示するのがあなたの役目です、総理!」


応接室の空気は、ぴんと張りつめていた。


かつて茫然総一は違った。


都内に最初のダンジョンが出現したとき、彼は記者会見で明言した。

「このままでは国民の安全を確保できない。速やかに対応を取る」と。

その言葉は多くの国民の胸を打ち、メディアも「久々にリーダーらしいリーダーが現れた」と持ち上げた。内閣支持率は急上昇し、与党内でも「総理のご判断に従うべき」と声が揃った。


だが、今――


「総理はなぜ、指示を出せないのですか?」


内閣官房長官が低く問う。


「なぜ……?……私は……皆の意見を尊重して……それで……」


「それでは、あらためて聞きます。現状、28か所のダンジョンにどう対処すべきとお考えですか?」


他の議員が重ねる。


「……」


総理は答えられなかった。否、答えたくなかったのかもしれない。


「総理。あなたに決めていただかないと、我々の席も失う羽目になるんです!」


声を荒らげたのは、党幹事長だった。机を強く叩き、身を乗り出して続ける。


「このまま政府の対応が遅れれば、内閣支持率は底を打ちます。そうなれば、選挙どころじゃない。我々が何十年も築いてきた地盤が崩れかねないんですよ!」


「わ、私だって……考えては……」


「考えている“だけ”では意味がない! 行動を! 決断を! 総理の一声がなければ、動けないんです!」


この場にいる者たちは、皆知っていた。

茫然総一が“変わった”のではなく、“変えられた”ことを。

彼は最初、自ら矢面に立ち、判断を下し、行動を起こそうとしていた。

しかし、ひとたび何かが起きれば「総理の独断だった」「我々は報告を受けていなかった」と責任を押しつける声が周囲から湧いた。


「責任は取っていただきますよ。最終的には総理なのですから」


その言葉を繰り返したのは誰だったか――今や皆の口癖になっていた。


総理が口を開こうとするたび、法務大臣が「それは問題がある」と遮り、文部科学大臣が「慎重な議論が必要だ」と挟み、最終的に「結論は持ち帰りましょう」となった。そうした積み重ねが、茫然総一から“決断”という行為を奪っていった。


「……今の俺は、誰の声を信じればいいのかもわからない」


ぽつりと漏れたその一言は、小さく、だが鮮烈に室内に響いた。

誰も返さなかった。返せなかった。今や“総理の失速”は、与党幹部たちにとって格好の盾となっていた。

すべての停滞、すべての遅延を「総理の指導力不足」に転嫁できる。

自ら手を汚さず、政治的責任から逃れる術を得た彼らにとって、茫然総一は都合の良い“失敗の象徴”となっていた。


「――会議を、終わりにしましょう」


その言葉が出たとき、誰一人として反論しなかった。

静かに立ち上がる者、ノートパソコンを閉じる者、そそくさと退出する者。それぞれが自分の保身と立場を意識した所作で動いていた。

ひとり残された茫然総一の姿だけが、取り残されたように静かだった。

窓の外、厚い雲の切れ間から、一筋の陽光が差し込んでいた。その光は、今やまったく光を宿していない男の肩に、虚しく降り注いでいた。


俯いたまま静まり返った室内に独り取り残され、茫然総一は深く息を吐いた。

目の前の書類には目をやらず、ただ自分の手を見つめる。かつて民を導くと誓ったこの手は、今や何を掴むこともできずに震えている。


「……これが俺に対する神からの試練だというのか」


呟きには、苦笑にも似た諦念が混じっていた。

決断を下す役目だけが、なおも俺に課されている。

だが、失敗すれば全ての責任が自分ひとりに押し寄せる。

誰も助けてはくれない。責任は常に“最終的には総理にある”――彼らが好んで使う言葉だ。


「どうすればいい……」


声はかすれ、空気に溶けて消えた。

逃げ出したい衝動と、捨てきれぬ責任感の間で、彼はただ、答えのない問いを反芻するしかなかった。


ふと胸に去来する思い――そもそも自分は総理の器ではなかったのではないか? 人の顔色をうかがい、声に流され、ひとりになることを恐れた男に、この国を背負う資格などあったのか?


沈黙は、なおも重く、長かった。


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