崩れゆく日常

飯田沢うま男

第1話 憂鬱の始まり

 春の風が新緑を揺らし、ヴェルデュール学園の校庭には澄んだ空気が漂っていた。ボーグラン共和国の名門校たるその佇まいは壮麗そのもの。歴史を感じさせる石造りの校舎と、手入れの行き届いた庭園。そのどれもが学園の格式を物語っていた。


「今年も、あの桜は綺麗ね……。」


 ため息混じりに呟いたのは、学園の一角に立つシエル。肩までの黒髪を軽く揺らしながら、花びらが舞う様子を見つめていた。制服のブレザーは少し肩幅が余り、そこから彼女が少し華奢であることがわかる。


 シエルはこの学園で2年目の春を迎えた。しかし、学園生活にはどこか馴染みきれない部分があった。理由は明白だ。周囲の生徒たちのほとんどが裕福な家庭の子女たちで、自分とは明らかに異なる世界の住人だったからだ。けれど、彼女は諦めなかった。勉学に励み、得た奨学金でこの場所に立っている。それがシエルの誇りでもあった。


「また何か考えごと、シエル?」


 柔らかな声が後ろから響いた。振り向くと、そこにはシエルの数少ない友人、リタの姿があった。栗色の髪を二つに結んだ彼女は、小柄で愛らしい外見をしており、親しみやすい性格で知られていた。


「リタ……どうしたの?」


「どうしたも何も、もうすぐ始業式が始まるよ。こんなところにいたら遅れちゃうって。」


「あ……そうだね、ありがとう。」


 リタに促されるまま、二人は校舎へと足を向けた。その途中、シエルの視線が無意識に中庭の噴水へと向いた。


 そこには一群の生徒が集まっており、その中心に立つ一人の少女が目に留まった。金色の髪が陽光を受けてきらめき、手に持った日傘を優雅に傾ける姿──シュゼットだった。


 彼女はエクレール一族の令嬢であり、その美貌と気品から学園でも一目置かれる存在だった。しかし、シエルにとって彼女の存在は少し苦いものだった。何故なら、シュゼットは何かと彼女に突っかかる態度を取るからだ。


「……シュゼットさん、今日もあの調子ね。」リタが呟く。


「うん。でも、特に気にしないようにしてる。」シエルは努めて平静を装った。


 教室に入ると、すでに多くの生徒が席についていた。シエルの席は窓際の後方。そこは、目立たずに静かに過ごせる場所だった。


 しかし、その日、教室にはいつもと違う緊張感が漂っていた。視線を前方に向けると、シュゼットが立っていた。そして、その口元にはいつものような冷たい笑みが浮かんでいる。


「皆さん、新学期を迎えたわけですけど、まず最初に言っておくべきことがありますわ。」


 教室全体が彼女に注目する中、シュゼットの視線が一瞬シエルを捉えた。そこには、何か挑発的なものを感じさせる光があった。


「私たちヴェルデュール学園の名に恥じない生徒であること──これが最も大切なことですわ。……そうでない人には、この場に相応しい努力を求めますわ。」


 その言葉に、シエルの心臓が一瞬止まったように感じた。それが誰に向けられているかは明白だったからだ。


「気にしちゃダメ。」隣に座るリタがそっと耳打ちしてくれる。シエルは小さくうなずき、俯いた。


 この日から始まった新学期は、シエルにとってまた新たな試練となる予感を秘めていた。しかし、彼女には諦めずに前に進む覚悟があった。

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