第三章「アルケー カイネース パーテース」

 森を抜けた先に、薄い霧のかかった滝が現れた。朝靄が水飛沫と混ざり合い、虹が空中に淡く浮かんでいる。その足元に、苔むした石段と、簡素な造りの神殿が静かに佇んでいた。

 翔陽は、無意識に息を呑んでいた。

「……あれが、“アルケー カイネース パーテース”。カップの集落の記録にあった、“純粋な想いの源泉”を祀る神殿だ」

 優菜は髪をまとめ直しながら、ぼんやりと神殿を見つめていた。

「思ったより地味だね。もっと金ピカとか、ありがたそうな雰囲気かと……」

「そういうのは外面だけの神殿だよ。ここは、本当に“大切なもの”しか見えない場所らしい」

 石段を登り、二人が神殿の扉に手をかけようとした瞬間、重々しい声が響いた。

「止まりなさい」

 どこからともなく現れたのは、白いローブを纏った女性だった。目元を布で覆い、静かな気配を纏っている。

「あなたたちは、この場所の真価を知ろうとしている。しかし、“入り口”を通るには試される必要がある」

 翔陽は神妙に頷いた。

「……どんな試しでしょうか」

「互いに、“秘めた感情”を見せ合いなさい。この神殿は、真実の感情にしか応えない。自分にすら曖昧な心を持った者に、その泉の意味は見えない」

 言葉の意味を理解した途端、翔陽の胸にひやりとしたものが走った。

 優菜は即座に露骨な顔をして後ずさった。

「は? なんでそんな……無理無理、感情とか見せ合うとか、冗談でしょ」

「そうだな、強制するつもりはない。ただ、カードを探す旅は、“外側の謎”だけでなく“内側の本音”にも向き合わなければいけない。それを知るための場所だ」

 ローブの女性は、優しくも決して譲らない声でそう言った。

 沈黙が落ちた。翔陽は口を開こうとしたが、言葉が出なかった。

 彼の心の奥には、ずっと押し込めてきた想いがあった。理屈ではなく、言語化すれば崩れてしまいそうな淡いもの——それが、今ここで形になることを求められている。

「……優菜」

 その名前を口にするのに、こんなにも力が要るとは思っていなかった。

「君と出会ってから、僕は……学び直してるんだ。知識じゃ解決できない感情があるってこと。言葉よりも、誰かのそばにいて、その沈黙を共有することの意味とか。君は、僕にそれを教えてくれた。……君といると、心が、軽くなる」

 優菜は驚いた顔をしていたが、目を逸らし、照れくさそうに小さく舌打ちした。

「……バカみたい。そんなの、言われても……」

 声は小さく震えていた。

「でも……分かるよ。私も、翔陽がいないと、たぶんこの旅、途中でやめてた。全部放り出して、寝てたと思う」

「それでも、君は一緒に歩いてくれた」

「……たぶん、あんたがバカみたいに真っすぐだから。何も言わなくても、黙ってそばにいてくれるから。気づいたら、隣にいたいって思ってた。……なんでかは、自分でも分かんないけど」

 その言葉と共に、神殿の扉が静かに軋みながら開いた。

 ローブの女性は、どこか慈しむような微笑みを浮かべていた。

「あなたたちの心が、ようやく揃った。入りなさい。あなたたちの“新しい感情”が、泉に宿るでしょう」

 神殿の内部は、外観からは想像もつかないほど広く、中央には静かに湧き出す小さな泉があった。その水面に、光が差し込み、やがて一枚のカードが浮かび上がってくる。

 翔陽がそっと手を伸ばすと、そのカードには「カップエース」の象徴——溢れ出る杯と、空から注ぐ一筋の水流が描かれていた。

「これが……感情の始まり。愛や、想いの、最初のかたち……」

 翔陽は静かに呟き、優菜は横でぼそっと言った。

「……変なの。こんな旅になるなんて、思ってなかったのに」

「でも、悪くないだろ?」

「……うん、悪くない」

 静寂の神殿に、二人の足音が響き、そして、泉の水音と混ざり合ってゆく。

 その音は、きっとまだ形にならない想いの証明。

 第三章 終

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