止まれなかった男

広川朔二

止まれなかった男

朝の国道沿い、車列の隙間をすり抜けるようにして、一台のクロスバイクが疾走していた。ペダルを踏み込むたび、久我篤志は、顔に生温い風を受けた。


「ったく、ちんたら走りやがって……!」


前方で停まっている車に苛立ちながら、彼は信号無視同然に歩道へと乗り上げた。歩行者の横をかすめるようにすり抜け、赤信号を無視して交差点を横断する。道端の女性が驚いた顔で振り返ったが、久我は気にしなかった。むしろ心の中で舌打ちする。


(自転車は歩行者より早いんだよ。邪魔すんなっての)


会社までは自転車で二十分。通勤電車の混雑に嫌気が差して以来、久我は毎朝こうして自転車通勤をしている。そして自転車に乗るうちに、ある「事実」に気づいてしまったのだ。


──事故っても、悪いのは車の方だ。


テレビでもネットでも、そう言っていた。交通弱者である歩行者や自転車と接触したら、原則車が悪い。ならば、多少危ない運転をしても、自分は守られる側なのだ。


「車のやつら、こっちが無茶しても止まるしかないもんな。可哀想に」


歩道から車道へと再び飛び出しながら、久我は鼻で笑った。同僚に「最近はドラレコがあるから気をつけた方がいい」と忠告されたこともあった。だが、久我にとっては取るに足らない話だった。


「どうせドラレコに映ってたって、車が悪くなるだけだろ」


無敵感に満ちたその思考は、周囲への配慮をすっかり失わせていた。今日もいつものように、狭い路地へとハンドルを切る。対向車線から軽自動車がやってきたが、久我は減速するどころか、わざとふらつくように車の鼻先をかすめた。


──ヒヤッ、とする感覚が楽しかった。


相手が急ブレーキを踏む様子を見るたびに、優越感に浸った。


(ビビってやんの。車なんてこんなもんだ)


誰も彼を止めることはできなかった。



少なくとも、その朝までは──。



それは、何の変哲もない交差点だった。細い脇道から抜け、国道へ合流しようとしたとき、久我はわずかにペダルを緩めた。だが、すぐに顔をしかめる。


「くそ、ちんたらすんなよ……」


国道は朝のラッシュで車が列をなしていた。そして、それは自転車専用レーンも同じで、数台の自転車が先行して走っていた。久我の出す速度よりも列の速度は遅かった。久我は迷うことなく、自転車専用レーンを大きくはみ出して車道へと出た。そのときだった。


キュッ――。


耳障りなタイヤの悲鳴とともに、久我からは白いセダンが頭を出してきたように見えた。慌ててハンドルを切ったが、間に合わない。バンッ! という衝撃とともに、体が宙に浮き、アスファルトへ叩きつけられた。


「いってぇ……!」


地面に手をつきながら、久我は立ち上がった。右膝から血が流れ、シャツの肘も擦り切れている。だが、それ以上に、腹の底からこみ上げる怒りが勝った。


「てめえ、どこ見て運転してんだよッ!」


久我は、車から降りてきたスーツ姿の中年男に食ってかかった。男は驚いた様子で「す、すみません、大丈夫ですか」と声をかけてきたが、そんな言葉に耳を貸す気はなかった。


「大丈夫なわけねーだろ! 完全にお前が悪いんだよ!」


近くのコンビニから通報を受けたのか、すぐにパトカーが到着した。警察官たちは、テキパキと現場を確認し始める。久我は勝ち誇ったように事情を説明した。


「自転車優先だろ? こっちは被害者だぞ!」


だが、警察官たちの表情は妙に冷静だった。それどころか、白バイ隊員が運転手に何やら耳打ちし、ドライブレコーダーを提出させている。


数分後、久我は路肩に呼び出された。


タブレット端末に映し出された映像を見せられる。そこには、久我が専用レーンから飛び出し、白いセダンに自らぶつかってくる姿が、はっきりと録画されていた。


「……っ!」


口を開きかけたが、声が出ない。警察官は事務的な口調で言った。


「久我さん、あなた車道のご確認されてましたか?」


「いや……でも、車の方も……!」


「ドラレコを見る限り、相手側は徐行してますね」


警察官は淡々と告げた。その無機質な声音に、背筋がぞっと冷たくなる。


(おかしい……俺は被害者のはずだ……)


久我は必死に頭の中で言い訳を探した。だが、目の前の映像と事実は、無惨なまでに彼の主張を打ち砕いていた。


冷たい汗が首筋を伝った。初めて、胸の奥に小さな違和感――いや、恐怖の種が芽生えた。


(……もしかして、やばいかもしれない)


どす黒い不安が、じわじわと体を侵食し始めた。





事故から三日後。

久我篤志のもとに、一通の封筒が届いた。


「……損害賠償請求書?」


重たい手つきで封を開けると、中には車両修理費、相手の治療費、レンタカー代、さらに営業損失に対する補填金額までが、ぎっしりと細かい文字で並んでいた。合計額は、目を疑うほど高額だった。


(冗談だろ……? なんで俺が……)


信じられない気持ちで書類をめくると、さらに追い打ちをかけるように、保険会社からの通知が目に入った。


──お客様側に過失が全面的に認められたため、保険金の支払い対象外となります。


久我の行為は故意とみなされたのだ。膝から力が抜けた。リビングに座り込み、呆然と天井を見上げる。


(どうして、俺だけ……こんな目に……)


翌日。出社すると、職場の空気が一変していることに気づいた。同僚たちは久我を見ると、さっと目をそらす。昼休み、スマホを開くと、ニュースサイトの見出しが目に飛び込んできた。


【ドラレコ映像が拡散 危険運転の自転車男、事故で損害賠償へ】


(……俺だ)


体の芯が、氷水をかけられたように冷えた。


まとめサイト、SNS、動画投稿サイト──どこを覗いても、久我の事故映像は晒されていた。

コメント欄は罵声であふれていた。


「チャリカスw」

「自業自得」

「こんなのにぶつかられたら最悪だわ」


誰も、久我の味方はいなかった。


上司に呼び出されたのは、その日の夕方だった。会議室で向かい合った課長は、深いため息をついた後、淡々と通告した。


「久我君……君の件、会社としては看過できない。信用問題だ。悪いが今の部署にはいさせられない」


提示されたのは追い出し部屋と社内で揶揄される閑職だ。しかし反論する余地など、どこにもなかった。何もかも、あっけなかった。


自転車を買った頃は、自由を手に入れた気がしていた。誰よりも早く移動できて、誰にも縛られない。車だって怖くなかった。


──だが、すべては幻想だった。


久我は、社会という巨大な装置の中で、取り返しのつかない「違反」を犯してしまったのだ。


損害支払いのため、生活費を削る必要があった久我はボロアパートに引っ越しをした。割れたスマホを握りしめたまま、布団の上でぼんやり天井を見つめていた。


通知欄には、差し押さえ予告のメールが何通も並んでいる。それでも、もう何も感じなかった。


(こんなはずじゃ、なかったのに)


心の中で繰り返すその言葉は、誰にも届かなかった。冬の冷たい雨が、薄汚れた窓ガラスを叩いていた。


着の身着のまま、数日ろくに風呂にも入っていない。食費すら削らざるを得ず、スーパーの見切り品ばかりをかじっている。


プライドだけは高かった久我は閑職に追いやられるのが我慢ならず退職をした。そんな彼と外界との接点は、ほとんど断たれていた。友人たちは、あの日以来、誰一人として連絡を寄越さない。家族からも、最後に届いたのは「しばらく連絡しないでくれ」という短いメールだけだった。


(全部……終わったんだ)


狭い玄関に、あのクロスバイクが立てかけてある。事故のあと、フレームが歪んで使い物にならなくなったものだ。それでも久我は、捨てられなかった。かつての自由の象徴。


そして、転落の象徴。


彼は、ぼんやりと画面の割れたスマホを手に取った。もうSNSも、ニュースも、怖くて見られない。それでも、無意識に指が動いてしまう。


──「またチャリカス事故ってて草」

──「こいつまだ生きてるの?」

──「こういうバカは一生治らない」


どこを覗いても、匿名の嘲笑が飛び交っていた。自分に向けられたものではない。だが、それでも胸が痛んだ。


窓の外を見ると、通りを小学生たちが傘を差して歩いていた。その脇を数台の自転車が通り過ぎる。彼らは誰一人、無茶な運転をする者などいなかった。律儀に信号を守り、車をやり過ごしながら走っていた。


(……あたりまえ、か)


ようやく、久我は理解した。あの日々、彼が振りかざしていた「弱者の権利」は、ただの勘違いだった。他人への配慮を忘れ、好き勝手に振る舞えば、たとえどんな立場であろうと、社会は決して許してはくれないのだ。


カシャン、と音がして、クロスバイクが倒れた。


それを直す気力も湧かなかった。久我はただ、雨音を聞きながら、静かに目を閉じた。二度と戻れない過去を悔やむこともできず、これからを生きる覚悟も持てず、ただ、深く、暗い孤独の中へと沈んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

止まれなかった男 広川朔二 @sakuji_h

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ