第8話 献花

 八月の夜気は粘つくように肌にまとわりつき、汗ばんだ首筋を不快に濡らしていく。蒸し暑さが息苦しさを誘い、呼吸するたびに重い空気が肺を満たす。


 コンビニでのバイトを終えた私は、住宅街の薄暗い道をとぼとぼと歩いていた。スマートフォンの画面には既に九時二十分という文字が光っている。


 明日の朝一限から大学の必修講義があるというのに、店長に頼まれた残業でこんな時間になってしまった。足の裏が靴の中で蒸れて、疲労が骨の髄まで染み込んでいるような感覚だった。早く帰ってシャワーを浴び、ベッドに倒れ込みたい。そんな願いだけが頭の中を占めている。


 この時間帯の住宅街は人の気配が薄く、街灯の黄色い光がまばらに道を照らすだけだった。住宅の窓からは暖かな明かりが漏れているが、それがかえって周囲の闇を深く感じさせる。


 自分の靴音だけがペタペタと湿ったアスファルトに響き、その音が妙に大きく聞こえて心細い。時折、どこかの家から聞こえるテレビの音や、遠くを走る車の音が静寂を破るが、それもすぐに夜の静寂に飲み込まれてしまう。


 その時だった。視界の隅に、普段は見ることのない異質なものが映り込んだ。


 電柱と古い住宅の塀に挟まれた、わずか一メートルほどの狭い空間。ゴミ袋や雑草が散乱していそうな、誰も注意を払わないような場所に、それは置かれていた。


 花束だった。


 真っ白な包装紙に丁寧に包まれた、花屋で買ったばかりのような美しい花束。夜の闇の中でその白さが浮かび上がり、そこだけに淡い光が当てられているかのような錯覚を覚える。バラ、カスミソウ、かすかに香る甘い匂いが夜風に乗って鼻腔をくすぐった。こんな場所に、なぜこんなに花が……。


「あれって……もしかして……」


 胸の奥で、冷たい何かが蠢いた。氷の塊が胃の中に落ちたような、嫌な重さ。頭に浮かんだのは一つの言葉だった。


 献花――


 交通事故でもあったのか。それとも事件か。しかし花が供えられているということは、この場所で誰かが……命を落としたということになる。想像したくない光景が頭をよぎり、慌てて思考を振り払った。


 喉がからからに乾いた。唾を飲み込もうとしたが、口の中に唾液がほとんどなく、乾いた音だけが喉で鳴った。


 夜更けの住宅街は人影もまばらで、暗がりが至る所に潜んでいる。そんな闇の中に浮かぶ美しい花束は、今し方誰かの手によって置かれたかのように新鮮で、花弁にはまだ水分が宿っているようにも見えた。しかし、この時間に花を供える人間がいるだろうか。昼間に置かれたものなら、もっと萎れているはず……。


 背筋がぞくりと震えた。理由の分からない恐怖が、じわじわと心臓を締め付けていく。


 率直に言えば、気味が悪くて仕方がなかった。こういった死を連想させる光景は昔から苦手だった。幼い頃、一緒に暮していた祖父母を亡くした私は、死というものを人一倍身近に感じて生きてきた。それだけに、こうした場面に遭遇すると、得体の知れない不安が湧き上がってくる。


 足早にその場を去ろうとした。振り返る勇気はなく、ただひたすら前を見つめて歩いた。しかし背後に何かの視線を感じるような錯覚が頭から離れず、肩甲骨の間に冷たい汗が滲んだ。






 翌日の夜も、同じ道を歩いていた。


 今日もレジ業務と品出しで八時間立ちっぱなしだった。足の裏は痛み、腰も重く感じる。肩を回して凝りをほぐそうと大きく伸びをした瞬間——再びあの光景が目に飛び込んできた。


 昨日の記憶が蘇り、胸がざわついた。忘れようとしていたのに、結局気になってしまう自分が情けない。しかし、近づいて見ると明らかに昨日とは違っていた。昨日は白いバラの花束だったが、今日は薄紅色のガーベラが中心の花束が供えられている。包装紙も昨日のものより少し小ぶりで、リボンの色も違う。


 誰かが毎日新しい花を供えているのだろうか。それとも複数の人間が……?


 想像するだけで背筋が寒くなった。見たくなかった。見るべきではなかった。


 目を逸らし、意識的にその場所を無視して歩を進めた。急に心細さが込み上げ、きょろきょろと周囲を見回した。人影はない。


 住宅の窓からは相変わらず暖かな光が漏れているが、なぜかそれが遠い世界の出来事のように感じられる。街灯の薄い光だけが頼りで、その光が届かない闇の部分には何が潜んでいるか分からない。


 背後から視線を感じるような錯覚に襲われ、振り返ってしまった。しかし、そこには何もない。ただ暗い道が続いているだけ。それでも気になって、歩きながら何度も振り返った。振り返るたびに、心臓の鼓動が早くなっていく。寒気を感じながら、私は駆け足でアパートへと向かった。






 さらに翌日。


 空から細かな雨が降り注いでいた。傘の表面を叩く雨音が、パラパラと単調なリズムを刻んでいる。いつもの帰路を歩きながら、雨に煙る街の景色を眺めていた。雨の日の夜は特に人通りが少なく、いつも以上に静寂が深い。


 またあの場所が近づいてくる。


 見ないでおこうと心に決めていたのに、どうしても目がそちらへ向いてしまう。見たくないのに見てしまう自分への苛立ちと、あの花束への得体の知れない恐怖が混じり合って、胸の奥でどす黒い感情が渦巻いていた。


 案の定、そこにあった。


 今度は白い包装に包まれた花束が、雨に打たれながら佇んでいる。雨滴が花弁を濡らし、街灯の光を受けて不気味に煌めいている。雨に濡れているにも関わらず、花は全く萎れていない。むしろ雨を糧にして、より一層美しく咲き誇っているようにさえ見えた。


 その光景が酷く不吉に映った。死者の魂が花に宿っているかのような、背筋の凍るような美しさだった。


 もう限界だった。我慢の限界だった。


 ここ数日、帰路でこの光景を目にするだけで、呪いにかけられたような気分になる。日中は忙しさにまぎれて忘れていても、夜になってこの道を歩くたびに、あの花束のことを思い出してしまう。そして毎日、必ず新しい花が供えられている。誰が、なぜ毎日……。


 苛立ちが日に日に募っていく。誰が供えているのかは知らないが、毎日毎日、なぜこのような場所に……。私の神経を逆撫でするように、そこにあり続ける。


「いい加減にしてよ……」


 雨音にかき消されるような小さな声で呟いた。足音を荒げて、その場を素通りしようとした。雨で濡れたアスファルトに靴音が響く。早く通り過ぎて、家に帰って温かいシャワーを浴びたい。この不快な気分を洗い流してしまいたい。


 しかし、その時——


 私の足が止まった。


 花束の中に、何かが紛れ込んでいるのが見えたのだ。雨に濡れた花々の隙間から、白い何かが顔を覗かせている。紙のような、カードのような……。


「何だろう、あれ……?」


 好奇心と恐怖が入り混じった複雑な感情が胸を支配した。見るべきではないような気がした。触れてはいけないもののような気がした。しかし、どうしても気になってしまう。磁石に引き寄せられるように、体が勝手にその場所へ向かっていく。


 躊躇いながらも、震える手が伸びていた。雨に濡れた冷たい空気が頬を撫でていく。


 それは白いカードだった。名刺ほどの大きさの、真っ白なカード。


 激しい動悸が胸を支配し、鼓動が耳の奥で太鼓のように響いている。震える指先でそのカードに触れると、雨に濡れて冷えきったカードの感触が、死者の肌に触れているかのような錯覚を起こさせた。ぞっとするような冷たさだった。


 恐る恐る手に取る。表面には何も記されていない、無地の白いカード。雨滴がカードの表面を滑り落ちていく。何のために、誰が、こんなものを花束に忍ばせたのか。


 何気なく裏返した瞬間——


 私は絶句した。


 全身の血が一気に逆流し、心臓が止まったかのような感覚に襲われた。背筋に悪寒が駆け抜け、膝が震えて立っていることすら困難になった。震える唇からは声にならない呻きが漏れ、焦点の定まらない視線がカードに釘付けになった。


 そこに映っていたのは、紛れもなく——


「なぜ……これは……私の……」


 間違いなく私の写真だった。


 しかも、つい最近撮影されたと思われる鮮明な写真。いつ撮られたものなのか、どこで撮られたものなのか、誰に撮られたものなのか、全く記憶にない。しかし確実に、それは私自身の姿だった。


 写真の中の私は、今この道を歩いている時の姿だった。疲れた表情でとぼとぼと歩いている私。


 誰が。いつ。なぜ。


 疑問が頭の中で渦巻き、パニック状態に陥った。手が震えて、カードを持っていることすらままならない。


 突然、背後から強烈な光が射した。


 ヘッドライトの光だった。反射的に振り返った瞬間、車のエンジン音が雨音を破って耳に届いた。光が眩しくて目が眩み、何も見えない。そして次の瞬間——


 甲高いタイヤの摩擦音が夜の静寂を引き裂いた。ブレーキをかけたタイヤがアスファルトを削る音、金属の軋む音、そして鈍い衝撃が全身を襲った。


 体が宙に浮いた感覚の後、激痛が全身を駆け抜けた。意識が薄れていく中で、雨の冷たさだけが妙にはっきりと感じられた。


 薄れゆく意識の中で見えたのは、雨に打たれながらも凛として咲く花束だった。次なる供養を静かに待ち続けているかのように——そして、その花束の横に、新たに一束の花が供えられる光景が、朦朧とした意識の中に浮かんだ。

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