この小さな揺れを、恋と呼んでもいいですか

汐音 -Shion-

【1話完結】小さな揺れと小さな想い

終業時間をとっくに過ぎたオフィスは、冷えた蛍光灯の光にだけ照らされていた。

ポツポツと点在するデスクには、まだ帰り支度をしていない数人の社員が残っている。けれどその誰もが、黙々とパソコンの画面と向き合っていて、声を発する気配はない。


白石美羽(しらいし みう)は、資料の最終チェックを終えると、そっと肩を落とした。

今日も、なんとか一日を乗り切った。

けれど、少しだけ、遅くなってしまったことが気がかりだった。


パソコンをシャットダウンし、カバンに手を伸ばす。

廊下に出ると、夜の空気のにおいがした。誰もいないフロアに、ヒールの音が控えめに響く。


エレベーターホールに向かう途中、ふとスマホを取り出して時間を確認する。

21:48――、22時近く。

こんな時間に、誰かと一緒にエレベーターに乗ることなんて、滅多にない。


――たぶん、今日も一人だろう。


そう思いながら、軽く小走りでエレベーターに向かった。

そのとき、ドアが開きかけているのが視界に入る。


思わず駆け込んだ美羽の目に飛び込んできたのは、

すでに乗っていた、藤井悠真(ふじい ゆうま)先輩の、驚いたような、それでいて優しい笑顔だった。


「間に合った……」


美羽は、小さく息をつきながらエレベーターの奥へと滑り込んだ。

乗り込んだ瞬間、ゆっくりとドアが閉まる。

がらんとした箱の中に、二人分の呼吸の音だけが静かに混ざった。


「お疲れさま。」

先に声をかけたのは、藤井悠真だった。


驚きと、ほっとしたような感情が胸の中で交錯する。

美羽は慌てて頭を下げた。


「あ……お疲れさまです!」


思ったよりも大きな声が出てしまい、自分でも可笑しくなる。

けれど、悠真はふっと口元を緩めただけで、何も言わなかった。


エレベーターは、カクンと軽く揺れながら下降を始める。

行き先階数は、1階。

けれど、こうしてふたりきりの空間に閉じ込められるのは、なんだか妙に緊張した。


静まり返った空気の中、背中に当たる壁がやけに冷たく感じる。

何か話さなきゃ、と焦る気持ちだけが空回りして、結局、口を開けないまま数秒が過ぎた。


そんな空気を察したかのように、悠真がぽつりと口を開いた。


「今日も帰るの遅めだね。」


その声は、想像していたよりもずっとやわらかかった。


「あ……はい。ちょっと、資料まとめに手間取っちゃって……。」


美羽は、ぎこちなく笑った。

ダメだなあ、もっとちゃんと返事すればいいのに。

心の中で自分を責めながら、視線を床に落とす。


「でも、ちゃんとやりきってるの、知ってるよ。」


悠真の声が、ふわりと降ってきた。


顔を上げると、彼は真正面を向いたまま、少しだけ微笑んでいた。

特別な言葉じゃない。

派手な褒め言葉でもない。

けれど、そのさりげなさが、逆に胸に刺さる。


美羽は、思わず両手でカバンの持ち手をぎゅっと握った。

熱くなりかけた顔を、なんとか隠すために。


エレベーターは、静かに階数を下げていく。

あと少しで、1階に着いてしまう。


そんなことが、なぜだか少しだけ寂しかった。


チャラン、と乾いた音が鳴った。

エレベーターは、もうすぐ1階に到着する合図を告げる。


そのときだった。


エレベーターが、ふわりと一瞬だけ揺れた。

ほんのわずかな振動。

でも、不意を突かれた美羽は、反射的に体のバランスを崩してしまった。


「わっ……」


咄嗟に一歩踏み出したそのとき――


軽く、美羽の肩に手が添えられた。


「大丈夫?」


耳元で、悠真の声が落ちる。


その声も、肩に添えられた手も、驚くほど優しかった。

力任せではない。

けれど、しっかりと支えてくれる、そんな触れ方だった。


顔を上げると、至近距離に悠真の顔があった。

思わず、心臓がドクン、と大きな音を立てる。


「すみません……!」

美羽は慌てて姿勢を立て直し、そそくさと一歩、後ろに下がった。


そんな彼女の様子に、悠真はどこかおかしそうに笑った。


「エレベーター、たまに古さがでるからね。気をつけて。」


そんなふうに、なんでもないことみたいに言う。

その何気ない気遣いが、また胸に沁みた。


美羽は、うまく言葉を返せないまま、ただ小さく頷いた。


ドアの向こうには、ビルのロビーが広がっている。

あと数歩。

あと数秒。

この、小さな空間で生まれたぬくもりは、もうすぐ、夜の冷たい空気にさらされてしまう。


それが、なんだか、もったいないような気がした。


ビルを出ると、オフィス街特有の静けさが辺りを包んでいた。


美羽は、エレベーターを降りたときと同じように、悠真のほんの少し後ろを歩いた。彼との間に流れる空気は、どこかやわらかかった。


歩道に出ると、遠くで車のクラクションが短く鳴った。

それに続くように、どこかの居酒屋から笑い声がこぼれてくる。

喧騒から少しだけ距離を置いたこの道は、まるでふたりだけの世界みたいに静かだった。


コツコツと、ヒールの音が夜道にリズムを刻む。

隣を歩く悠真の足音は、それよりもずっと落ち着いていた。


こんなふうに、誰かと並んで歩くのは、いつぶりだろう。

美羽は、ふとそんなことを考えた。

誰かの隣にいるだけで、こんなに安心する夜があるなんて、きっと少し前の自分なら想像もできなかった。


「今日、あの資料、けっこう大変だったよね。」


不意に、悠真が口を開いた。

振り返ることなく、ただ前を見たまま、穏やかな声で。


「あ、はい……!なんか、途中で仕様が変わったりして……。」


思わず早口になりかけて、美羽は慌てて笑った。

悠真も、それに釣られるように小さく笑った。


「そっか。でも、最後までちゃんと仕上げてた。さすがだね。」


「いえ、そんな……先輩のおかげです。」


たどたどしい言葉だったけれど、悠真はまた、やさしく笑っただけだった。


会話は、ふいに途切れた。けれど、その沈黙が怖くなかった。

歩くスピードも、呼吸のリズムも、自然と合っていた。


信号に差しかかる。

赤信号を待ちながら、ふたりは隣に並んで立った。


美羽は、こっそり横目で悠真を見た。

スーツの袖口から覗く腕時計に、彼は無意識に触れている。

指先でバンドをなぞる仕草が、どこか名残惜しそうに見えた。


もっと、この時間が続けばいいのに。

心の奥で、そんなわがままな願いがふわりと浮かぶ。


けれど、青信号がそんな思いを遮るように、静かに灯った。


悠真は、右手を軽く上げて美羽を促した。

まるでいつもあわただしく働く美羽に「焦らなくていいよ」と言うみたいに、やわらかな仕草だった。


横断歩道を渡る間、美羽は何度も今日の出来事を思い返していた。

エレベーターの小さな揺れ。肩に触れた、やさしい手。

あの、あたたかな声。


全部、胸の奥で、大事な宝物みたいに光っている。


大通りに出る手前で、悠真が足を止めた。


「ここからは、気をつけて帰ってね。」


それだけ言って、ふわりと笑った。

それは、仕事の先輩としての自然な気遣い。

だけど、美羽には、それが何よりもうれしかった。


もっと話したかった。

もっと、隣にいたかった。


けれど、そんなわがままを口にする勇気は、まだなかった。


「はい。……先輩も、気をつけてください。」


言葉が少し震えたのは、夜風のせいだと、自分に言い聞かせた。


悠真は軽く手を振ると、反対方向へと歩き出した。

スーツの背中が、夜の街に少しずつ溶けていく。


美羽は、すぐに歩き出せなかった。

その背中を、ただじっと見つめた。


信号が赤に変わり、数分後、進めを示した。

ポケットに手を入れてスマホを取り出すと、ちょうどメッセージの着信音が鳴った。


画面には、悠真からの一言が光っていた。


【いつも頑張ってるね。たまには無理しないで。】


胸の奥が、また、あたたかくなる。

夜の冷たい空気なんて、どこかへ吹き飛んでしまいそうだった。


美羽は、スマホを胸に当てて、そっと目を閉じた。


――次にエレベーターに乗るとき、私はきっと、今日のことを思い出してしまう。


小さな揺れと、小さな想い。

それは、確かにこの胸に刻まれていた。


夜空には、滲むような月が浮かんでいた。

美羽は、それを見上げながら、ゆっくりと歩き出した。


この小さな気持ちが、きっと、これから少しずつ育っていく。


そんな予感を、胸に抱きながら。

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