第六節 親愛なるものへ ②
宿屋の扉を押し開けると、熱気とざわめきが再びヴァンを包み込んだ。
一階には大規模な食堂と調理場が併設されており、宿の利用者だけでなく、食事を目当てに訪れる客も受け入れているため、ひどく混み合っていた。
するりと客の一人に紛れたヴァンは、飲み物を注文し、手近な椅子へ腰を下ろした。蜜色に塗られ、磨き込まれた目の前のテーブルには、いくつかの空いたグラスが残されている。
客の声と食器の音が入り混じる中、ヴァンは小さく息をついて、
――まったく、よくもまあここまで繁盛させたもんだな。
造りは五番戦線の空き家と似ている。だが、決定的に違うのは、人で溢れていること。街全体が、他の十番戦線の街と比べても活気に満ちているように思える。そこに目をつけたのは慧眼だったか。戦士や冒険者、さらには命知らずな楽園からの旅人までが集っている。
ふと、ひときわ賑やかな声が耳に届く――
いや、入ったときから響いていた。
前に訪れたときも聞こえてきた、快活でやたら高い声。
探すまでもない――いつもその中心に、桃色の髪の少女がいるのだ。
ヴァンは少女へと意識を移し、横目で様子を伺う。
名を、リオナ。屈強な戦士たちからの呼びかけにも物おじせず応じ、注文を受け、食器を片づけ、忙しなく動いては話し、また動いては話す。
ヴァンはふと、考える。
――話しかけられて、二言目以降対応する必要はあるのだろうか。
それと、その慌ただしさが……または慌ただしく動いているように見える、もしくはあえて見せている? それが、かえって効率を落としているような気がする。自覚はあるんだろうか。
視線を自分の飲み物へ戻し、心のなかでつぶやく。
……それに、なんだろうな。
なーんか……小賢しいんだよなぁ。
少女は桃色の髪を揺らし、椅子と机の隙間を縫って小走りに駆けだすと、まるで自分がこの宿屋の主人――すなわちこの場のすべてを取り仕切っている――ででもあるかのように、高らかに調理場へ注文を伝えた。
――妙に目立ち、ちょこまかとよく動く。それに、あの見た目で、あの振る舞い。どうにも、空回ってるように見えてしまう。
――なんか、色々と損してないか……?
ヴァンはひとりでに、ふっと笑う。
アホか。これから誘おうとしている相手に、いったい俺は何を考えているんだ。
そして、あの少女を混沌ひしめく、魔獣戦線に引っ張り出そうとしている。
あの、健気な少女を、だ。
ここへ趣く前に伝えられたドレイザーの言葉を、ヴァンは今でも半信半疑で受け止めていた。
幸運なことに、好機はすぐにやってきた。
宿屋の主――少女の父であり、ヴァンにとっては難儀な交渉相手でもある――に奥へ呼ばれた彼女は、ほどなくして戻ってくると、客たちに挨拶を交わしながら、入り口から外へ出ていった。
前かけを外していた。手に持っている包みからして、おそらく料理の配達を頼まれたのだろう。
――本当に、手広くやっているな。
ヴァンは飲み物を急いで飲み干し、その後を追った。
通りを行く少女の後を、離れた位置から追っている。
宿屋を出た彼女にも、話しかける声は多い。
やがて道は大通りを過ぎ、ぽつぽつと人が減り始めたころ――
雑な木造建築や、簡素なテントが立ち並ぶ住宅地へと、少女は差しかかっていた。
突然、少女が立ち止まった。
そして、大きく肩を上げて、深呼吸するような素振り。
――ここで、ヴァンは気づくべきだった――。
再び歩き出した少女の速度は、さっきよりも速くなったように見えた。
そのまま少し歩くと、建屋と建屋の間の細い路地へと曲がった。
――近道か?
ヴァンも後を追って曲がった――
しかし、少女はいなかった。
ヴァンは戸惑いながらも、歩みを進める。
ふいに、ヴァンの上を影がよぎった。
「ぐぁっ――!」
ヴァンは、勢いよく壁に押し付けられた。
桃色の髪の少女が、目の前でまくし立てる。
「なんなんですかっ? さっきから!
食堂から、ずっとわたしを……み、見てッ! とうとう……! あとをつけてくるなんてっ!」
「……ぐッ……ぅ」
ヴァンを壁に押しこめる力は、すこしも緩まない。
少女の前腕がヴァンの首元を押さえつけ、壁との間に挟み込むようにして、自由を奪っていた。
ヴァンは、降参の意志を示すように、手をひらひらとさせた。
ここで、少女が手を離したのは、相手がおよそ戦う力を持っていないと気づいたからか。
おそらく、十二番戦線すらひとりで渡れず、
ヴァンは、忘れていた。
彼女が、この地で生まれ育ったことを。
こう見えても、幼いころから危険のただ中にいたのだ。
そして、桃色の髪は、彼女の母と同じく、狩猟民族のルーツを持つ――その証だった。
「……はぁ……はぁ」うな垂れたヴァンは、首をさすった。
その体勢のまま、顔をあげた。
「……」
見下ろす少女が、ヴァンを睨みつけている。
「……
途切れ途切れに、ヴァンは言った。
「……たまに……ですけど」
「そうか……そんな面してりゃ、勝手に勘違いして、希望を見出だすやつもいて当然か。……そして、宿屋の娘にかまけた駆け出しの戦士は、戦線の恐さを思い知る、か……」
「はぁ? なにずっと語ってるんですか、いったい!
言っときますけどね、
わたしが愛想よくするのは、宿屋で働いているときだけですからねッ!」
その言葉に、ヴァンは
「おいおいおい。思ってもないこと言うもんじゃねえぞ、まったく。
一目見りゃ分かる……あんたは宿屋だけじゃなく、いつだって愛想よくしてるはずだ。
どう思っていようと、少なくとも、そう見られてしまうんだ。
なあ? そういう性分なんだ。
……あんたは、誰とでも同じように接する。それが時に望んだ結果にならないことがある。ただ、それだけの話だろ」
ヴァンは言葉を探しながら、頭をかいた。
「決して、あんたが悪いとは言ってねえ。
だけどな、こんなことはもう二度とごめんだって思うんなら、あんな楽しそうに振る舞うのは止めとけってことだ」
ヴァンは肩をすくめて、
「……まあ、無理だろうけどな。どっかの誰かが言ってたっけか。生まれもったものを迷うことなく、発揮できるのも、また才能だってな」
少女は、ヴァンが顔を上げて話し始めたとき、まず、驚いたような顔を見せた。
それきり口を結び、以降は黙ったまま――ほんの少しの否定と、多大な肯定とフォローがごちゃ混ぜになった、とてつもなく遠回しで、それでいて誠実な助言を
出会ったばかりの自分の本質を見抜いたヴァンのことを、真っ直ぐ見つめていた。
ヴァンは、視線を下げた。
「……今回の件は悪かった。そんなつもりじゃなかった……って言うのも失礼か?
まあ……良からぬことを考えてたのは、確かだ」
驚くことに――
これまでの状況など一切無視して、ここでヴァンは「じゃあな」とでも言って
まるで、何もなかったかのように立ち去られそうで――
それは、少女の中に何かしらの言葉を投げかけずにはいられない、微かな焦燥を生んだようだった。
「あの……たしか、最近交渉に来てるひとですよね……? 失敗した宿屋が欲しいって……」と、少女は言った。
「……いつ見てんだか、ホントにな。その、見るってなんなんだ? 俺にはさっぱりなんだが、戦士の素質なのか?」
「宿にいたあなたの周りが、ほわほわしてましたよ……。あんなことになってたら、誰だって気づきますよ、普通に」
ヴァンは合点がいった。心当たりがありすぎた。小賢しいだの損してるだの。
「それが普通じゃないと言ってんだ……ホワホワの内容までは、伝わらなくて良かった」ヴァンは苦笑した。
突然、少女の目がきっ、と鋭くなった。
「ねえ! 後を追ってきて、何か話があるんなら! 早く話したらどうですかっ! 暇じゃないんですよ!」
ヴァンは思わず、
「――はははははっ!」
吹き出してしまった。
失敗した、と思った。周囲の空気が張り詰めるのをヴァンは感じ取った。
「ほんとにきれますよ……? 冗談じゃないんですからね」
ヴァンは瞬時に表情を戻した。
「……悪かった。これから話す、ちゃんとだ。
……こんなことになったのは、頼みがあってな。
いきなりだが、あんたは、
「え……」少女の目が揺れた。
「……なんで、それ……」
「怒らないでくれよ? うちには失礼なやつがいたもんだろ。
果てへの渇望ってやつだ。それか、世界を守る意志。どっちでもいい、俺には
だが――あんたのその意志と、俺のやりたいことは一致する」
少女が腰に手を当てて黙り込んでも、ヴァンは止まらなかった。
「拠点は、五番戦線に置くつもりだ。場所は知っての通り、交渉中だよな。
あんたが入ったら少しは安くしてくれるかもな。西で本ばら撒いて得た金、全部持ってかれそうだ。
……あと、うちにいるのが、まあ
……いや、この話はいい。
手伝ってくれないか? しばらくは、俺とあんたで動くことになりそうだ。
……はは、俺は何言ってるんだろうな。答えも聞いてないのにな」
ここで、ヴァンは視線を反らした。少女と目を合わせて話すのが困難だった。
伏し目がちに少女を見る。
「なんでずっと無表情なんだよ……。ふざけてんのか……映えすぎだろ」
「……」
「……ああ。もう、止すか。
……どうだ? 来てくれないか?」
「いいですよ。配達が終わってからね」
「…………は?」
今度はヴァンが驚く番だった。
少女は少し考えてから、急に砕けた口調で話し始めた。
「えーと……。
わたしがいるのはここじゃないって、なぜか思ってたんだよねえ。もうパパとママには言ってあるよ。
たまに帰ってくれば良いって。
そりゃあ、ケンカにはなったけど……。
……え? 帰っちゃ駄目なんですか?」
「何も言ってねーだろ……好きにしろよ……」
ヴァンは、放心状態だった。
「うん……あの」
言葉を詰まらせた少女は、照れくさそうに微笑んでいた。
「あなたのところにいるのが、
今日、名前も知らないあなたに誘われたことも――偶然じゃないって、そう思うよ」
ここで、ありきたりなセリフを言わないのがヴァンである。
「……どいつもこいつも、頭ぶっ飛んでんのか。
……聞いていいか。初めて会った誰かと会話して、男か女とか関係なく、びっくりされることはあるか?」
「へ?」
少女はきょとんとした顔をしたあと、頬に手を当てて、
「……たしかに。あれは、なんなんですかねえ」
ヴァンは笑みを浮かべた。その時浮かべた途方もなく穏やかな表情を、リオナが見ることは無かった。ヴァンはすぐにうつむいたから。
「それはな、あんたがぎょっとするぐらい、うるさすぎるからだ」
「はぁ! ……ぶチ、ぶっ飛ばしますよ!」
――その後、組織は宿屋の譲渡交渉を無事終えた。
娘が入ったというのに、ひとつも安くはならなかった。
*
スカイ・ロア ~光の大地の魔獣戦線~ (・⊝・)ぽけ鶏 @pokedori
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