神社の杜(もり)は恋結び ~世話焼き巫女とぐーたら神様~

猫森ぽろん

第1話 巫女の務めと、腹ぺこの神様

 春浅き、朝の空気はまだ少しだけ肌寒い。ひんやりとした静寂の中、私は白衣と緋袴の巫女装束に身を包み、掃き清められたばかりの玉砂利を踏みしめていた。水杜(みもり)神社。それが、私の家であり、職場であり、そしておそらくは、私の人生そのものとなる場所だ。


 港町を見下ろす小高い丘の上にひっそりと佇むこの神社は、正直に言って、今ではすっかり寂れてしまっている。かつては海の安全と豊漁を願う人々で賑わったと聞くけれど、時代の流れと共に信仰は薄れ、今では熱心な氏子さんも数えるほど。観光客が物珍しそうに立ち寄ることはあっても、本殿にまで足を運び、手を合わせる人は稀だ。


 それでも、この場所が好きだった。古いけれど手入れの行き届いた社殿、苔むした石段、季節ごとに表情を変える木々。そして何より、ピンと張り詰めたような、清浄な空気。まるで、世界から切り取られたかのように、ここだけ時間がゆっくりと流れている気がするのだ。


「―――かけまくも、かしこき、みもりのおおかみ……」


 誰もいない早朝の本殿で、私は日課の祝詞を奏上する。その声は、しん、と静まり返った空間に吸い込まれていくようだった。ここに祀られているのは、古くからこの土地を守ってきたとされる土地神様。けれど、その御名を知る人も、もうほとんどいない。神様だって、忘れられてしまえば、その力は弱まってしまうのだろうか。そんなことを考えると、胸の奥が少しだけ、きゅっと締め付けられるような気がした。


 私が、この神社のたった一人の跡取り娘、宮森 詩乃(みやもり しの)、この春で高校二年生。両親は神職の傍ら共働きで家を空けがちなため、神社の維持管理と巫女としての務めは、物心ついた頃から私の肩に重くのしかかっていた。それが少しだけ息苦しく感じることもあるけれど、同時に、この大切な場所を自分が守っているのだという、小さな誇りも感じている。


 朝の務めを終え、急いで自室に戻って制服に着替える。私のもう一つの日常、高校生活の始まりだ。台所に立ち、自分と、後で食べるであろう両親の分の朝食を手早く準備する。今日の味噌汁の具は、裏の畑で採れたばかりの小松菜。うん、上出来だ。料理は得意な方だと思う。というか、私が作らないと、我が家の食卓は成り立たない。


「いってきます」


 誰もいない家に向かってそう呟き、私は鞄を手に玄関を出た。境内の隅に植えられた桜の木が、ここ数日の暖かさで、ようやく蕾をほころばせ始めていた。薄紅色のかけらが、春の訪れを告げている。それを見ると、少しだけ沈んでいた気持ちが、ふわりと軽くなる気がした。


 学校での一日が終わり、夕暮れのチャイムと共に、私は再び神社の石段を駆け上がっていた。制服から巫女装束に着替え、夕方の務めを始めなければならない。日が長くなったとはいえ、春の夕暮れはあっという間だ。


 本殿の扉を開け、中に入る。昼間の喧騒が嘘のように、そこは静寂に包まれていた。蝋燭に火を灯すと、頼りない光が薄暗い空間をぼんやりと照らし出す。奥には、御簾(みす)がかかった一角があり、そこにご神体――古い鏡が安置されている。普段は、そこから何か特別な気配を感じることはない。ただ、ひたすらに静かで、永い時間が堆積しているような、そんな場所。


 けれど、今日は何かが違った。


 ぴり、と肌を刺すような、微かな気配。それは、私が時折感じる、場所に残った想いの欠片――ナゴリとは明らかに違う。もっと強く、古く、そして……どこか、弱々しいような、不思議な気配だった。まるで、長い眠りから覚めたばかりの生き物のような。


(……気のせい、かな)


 そう思いつつも、足は自然と、気配のする本殿の奥へと向かっていた。心臓が、どきり、どきりと少しだけ速く打っている。


 御簾の手前で足を止め、息を呑む。気配は、この奥からだ。覚悟を決めて、そっと御簾を掲げる。中は、外よりもさらに薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。


 そして、私は見た。


 御神体の鏡が置かれた台座の前に、小さな影が座り込んでいるのを。

 白い、裾の長い着物のようなものを纏った、小さな女の子? いや、でも、その雰囲気はただの子供ではない。陽の光を知らないかのように白い肌、床に広がる長く艶やかな銀色の髪、そして、暗がりの中でも分かる、驚くほど整った顔立ち。見たこともない、この世のものとは思えないほど美しい少女だった。


「……っ!」


 驚きと、それ以上に得体の知れない存在への畏れで、体が竦む。誰? どうしてこんなところに? 不法侵入? いや、でも、この気配は……。


「あ、あなたは……誰ですか? どうして、こんな場所に……」


 震える声で、なんとか問いかける。

 すると、少女は億劫そうに、ゆっくりと顔を上げた。伏せられていた長いまつ毛が持ち上がり、大きな瞳が私を捉える。それは、夜空をそのまま閉じ込めたような、深い、深い青紫色をしていた。神社の薄明りの中、その瞳だけが妖しく光っているように見える。


 少女は、値踏みするように私をじっと見つめ、そして、小さな唇を開いた。


「…………腹が、減った」


 凛とした、でもどこか気だるげな声で、彼女はそう言った。


 はら、が、へった……?

 予想外すぎる、あまりにも俗世的な第一声に、私の思考は完全に停止した。恐怖も、畏敬の念も、一瞬でどこかへ吹き飛んでしまう。


 目の前にいる、この神々しいほど美しい、しかし腹ペコな少女は、一体何者なのだろうか。

 まさか、とは思う。けれど、この尋常でない気配、この場所……。


 忘れられていたはずの、この水杜神社の神様が、数百年ぶりに目を覚ましたとでもいうのだろうか?


 少女の、有無を言わせぬ、しかし同時に、どこか助けを求めるようにも見える不思議な眼差しを受けながら、私はただ、呆然とその場に立ち尽くすことしかできなかった。


 私の、そしてこの寂れた神社の、止まっていた時間が、今、動き出そうとしているのかもしれない。そんな、途方もない予感が、春の夕暮れの静寂の中に、波紋のように広がっていった。

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