第30話 湖で龍神に触れた日 後編

「んー……寒っ……」


 夜、麻斗は布団にうずまりながら、眠い目をこすって寝返りを打つ、部屋は暗い。

 隣には——


(……ん?)


 目を開ける。

 布団の中、優斗の気配が——ない。


「兄貴……?トイレ?」


 ぼんやりと身体を起こしたそのときだった。


——(…麻斗…)


 空気が震えた気がした。

 違う、空気じゃない。

 頭の奥、胸の真ん中。

 優斗の声、だけど、はっきりじゃない。言葉になってない、むしろ、届く寸前で掠れてるような“悲鳴”。


(……え……今の……)


 瞬間、心臓がドクンと鳴った。

 寒気じゃない。焦燥。

 そして——“やばい”っていう、確信。


「……兄貴……っ!?」


 立ち上がるよりも先に、

 身体が動いていた。


(テレパシーが……変だ。いつもなら、はっきり聞こえるのに。ノイズみたいに途切れていて…ってか、兄貴……今、苦しんでた……)


 麻斗の目が、冴え渡った。


「兄貴……どこにいんだ……!」


 部屋の窓を開ける。

 夜風が一気に吹き込んできて、でもその中に、わずかに漂う気配があった。

 ——水。

 ——冷たい、霊気混じりの湿気。


「……っ、まさか……」


 麻斗は全力で退魔の波長を練り、拳を握る。

 そして——


「兄貴に手ェ出したやつ……ぶっ飛ばす!!」


 そう叫んで、夜の闇の中へ、麻斗は駆け出した。


 ◆ ◆ ◆


龍神神社・社殿。

 外の世界から切り離されたその空間には、ただ重苦しい霊気と、朱に染まる術式の光が渦巻いていた。

 頭は少しづつ冴えてきた。けれど、優斗の体は、動かない。

 手足を縛る封神の鎖は、まるで皮膚の下にまで入り込んでいるかのようで、ひとつ霊力を伝うたび、体の芯に焼けるような熱と痛みが走る。


(……時間を稼がなきゃ)


 そう思っても、体は言うことを聞かない。

でも、耐える。だって、これ以上進めば——“本当に”封印が解けてしまう。


(ダメだ、落ち着け。冷静になれ……。龍神の怒りが、これ以上溢れたら……)


 その時だった、頭の奥、霊気の奥底に、重く、深く、古代の底から響くような“声”が伝わってきた。


『……怒りが……我、積年の恨みが……崩れるよう……』


 その響きに、優斗の全身がぴたりと凍る。


『縛られし小さな人間……貴様の霊気か?』


 それは龍神の声だった。

 明らかに、黒月の誰にも届いていない、術式によって“繋がれた”優斗だからこそ、この怒気の塊の奥の、意識に触れることができた。

 怒りで膨れあがっていたはずのそれが、ふわりと、噴き出しかけた沸点を少しだけ下げていく。噴きこぼれそうな鍋に、そっと蓋をするように。


『……まるで……神酒のように芳しい……面白い人間だ』


 ——優斗は目を、見開いた。


(…興味を……持たれた?)


 思いがけないその感覚に、痛みも熱さも忘れ、優斗は必死に心の中で言葉を紡いだ。


(……お願い……苦しませたのは謝る。だから……怒りを、おさめてほしい)


 ほんのかすかな声。

 けれど、それは確かに、龍神に届いた。


『……ほう……お前もまた……この忌々しい鎖で苦しんでいるというのに……なお我を、慮るか?』


 その問いかけは、まるで試すようであり、どこかにわずかな“戸惑い”が混じっていた。


(……貴方が苦しんでいるのは……僕らのせいだから)


 震える意識の中、優斗はただ、まっすぐに答えた——それが、ほんの一滴でも、龍神の怒気を静めるなら。

 突然、社殿が軋むように震えた。


『……ッ、ぐ……ゥ……!!』


 仮面の男が、低く呪文を唱えていた。

 それは優斗の精神を通して、湖の底へと干渉する術。と、同時に龍神の意識が再び大きく揺らぐ。怒りと、苦しみと、封じられた記憶が、ぶわっと吹き出す。


(……また、怒りが……!やめろ……やめろっ……!麻斗…、はやく…!)


 だけど、止まらない。

 術式は完成に向かって動いていた。

 床の封神陣が、焼き焦がれるような赤に変わり、社殿の奥——湖の水面が、ぼうっと光を帯びる。

 水面に、何かが浮かび上がる。

 巨大な、螺旋を描くような、うねる気配。

 ——龍神。

 その体の輪郭が、術式によって強引に“こちら側”へと引きずり出されていく。

 重たい水の膜を割るように、鱗の気配、禍々しい尾、まるで雲のように渦巻く気の塊が、空間に広がる。

 術式の中心、優斗は鎖に雁字搦めのまま、膝をつき、強すぎる霊気に押し潰されそうになっていた。


(……このままじゃ……僕が……龍神の怒りを解き放ってしまう……!)


 刹那、バンっと社殿の戸が爆音とともに吹き飛んだ。

 風のような疾走音、破られた結界の残響。

 そして——


「優斗ッ!!!」


それは、魂に響くような声だった。


(麻斗…!)


 闇を蹴り裂いて走ってきた弟の姿が、燃え立つ術式の中に飛び込んでくる。

 その瞬間、優斗の閉じかけた目に、一筋の光が映った。術式の炎が渦巻く中、麻斗は社殿に踏み込んだ。

 麻斗の視界の奥、ぼんやりと浮かぶ巨大な龍の影。その気配に——麻斗の退魔の波長が、一瞬で反応した。


「……なんだ、こいつ」


 怒り。殺気。この空間すべてを焼き払おうとする、神の怒気。

 麻斗の全身が、戦闘態勢に入るり、波長がびりびりと肌にまとわりつき、拳の中に、熱が滾る。

 その時——


『……神殺しの矛を持ちし人間……』


 龍神の声が、空間を震わせた。


『神酒の波長をもつ魂の欠片……我を、殺すか?』


 優斗を通して感じていた怒りが、麻斗の出現によって“はっきりとした敵意”へと形を変える。


(……やば……)


 麻斗も直感で悟った。

 これは、斃せる相手じゃない、けれど、兄貴がこの中で囚われているなら——俺が行くしかない。だが、


(やめてくれ、麻斗!)


——脳内に、息も絶え絶えな兄の声が飛び込んできた。


(龍神は……悪くないんだ。封印されて、痛みに耐えて……怒ってるだけなんだ。頼む、だから……ぶつからないでくれ)


 苦しみの中から、必死に叫ぶような声。

 麻斗の拳に込めた波長が、すっと沈んだ。

 そして、静かに息を吐いた。


「……分かった。じゃあその鎖だけ、ぶっ壊す」


 仮面の男が、即座に叫ぶ。


「バカが!!その鎖を外せば、龍神はお前に襲いかかるぞ!!」

「……うっせぇよ」


 麻斗は、スッと足を踏み込み、

 次の瞬間には、優斗の前に立っていた。


「兄貴がそう言うなら、それが正しい……そんだけだろ」


 拳に宿るのは、怒りでも破壊でもなく——“精密な破砕”。

 まるで、ワダツミの穢れを払った時のように。優斗と龍神の間を繋ぐ、霊気の鎖だけを、ピンポイントで捉える。

 波長が一点に集中し、空気がピキリ、と静かに割れた。


「……はああああああッ!!」


 その瞬間、ズバァァンっと鎖が音もなく砕け散った。術式が一部、軋んで崩れ、空間を支配していた“引きずり出す力”がスパッと断ち切られる。

 優斗の身体が、がくりと傾いた。


「兄貴!」


 麻斗がすかさず受け止めたその背に、龍神の声が、ふと穏やかに響いた。


『……“面白い”……双子だ……な……』


 風が、ふわりと吹き抜ける。

 術式の光が、静かに消えていった。

 龍神の姿は、術式の断ち切りとともに徐々に薄れていった。

 その気配は、もはや荒れ狂うものではない。

怒りに燃えるでもなく、喜ぶでもなく、ただ静かに——淡々と。


『……興が削がれた』


 その声は、まるでひとりごとのようだったが、確かに空間すべてに響いていた。


『だが、面白いものも見れた』


 龍神の目が、優斗と麻斗を見下ろす。

 その瞳は、もう怒りではなく、観察する者のそれだった。


(……怒ってない?)


 優斗は、解かれた鎖の余韻に震えながら、息を整える。先ほどまで全身を焼いていた激情は、嘘のように静まり返っていた。


『神殺しと、神慰み——真逆の波長を持つ魂……』


 静かに呟くように、龍神は続けた。


『それを繋ぐ、もうひとつの魂は……忘れ去られているのだな』

(……もうひとつの、魂……?)


 その言葉に、優斗は眉をひそめる。その一瞬、胸の奥がきゅうっと締めつけられたような、言葉にできない感覚が走った。

 けれどそれは一瞬だった。

 龍神は微かに笑ったように目を閉じ、その鱗を煌めかせながら、静かに湖へと身を沈めていった。

 水音ひとつ立てずに、ただ“帰っていった”。


「……龍神が、帰った……?」


 優斗が呟く。だがその言葉を、乾いた絶叫が遮った。


「クソがぁぁぁ!! クソがクソがクソが!!」


 仮面の男が、絶望に打ちひしがれたように地面を蹴りつける。その目は血走り、泣き喚く子どものように言葉にならない怒声を吐き続ける。


「なぜだ!?なぜ暴れない!?なぜ帰った!?!?」

「……あんたには、見えてなかったんだろ」


 麻斗が静かに呟く。


「龍神が……あんたに興味なんて、これっぽっちも持ってなかったこと」

「黙れぇぇぇぇぇ!!」


 仮面の男は、自分の胸に——束ねた呪符を次々と貼りつけた。


「最後の手段だ!!我が身を贄として、“神の器”を起こす!!!」


 周囲の空気が、ぐにゃりと歪み、結界が、再び揺れた。仮面の男が、自らに呪符を貼りつけながら絶叫する。


「我が身を贄として……神の器をッ……!」


 術式の残骸が再び光を帯び、男の体から黒煙のような霊気が噴き出す。それは神でも霊でもなく、ただ“力”だけを欲した渦。

 ボグゥッ!っと肉が裂けるような音と骨の軋む音がして、仮面の男の身体が膨れ上がり、悲鳴とともに、腕が、脚が、背が、異形に歪む。

 湖が赤く染まり、社殿がきしむ。

 そこに現れたのは——おおよそ“神”などと呼べるものではなかった。

 長く、禍々しい鱗に覆われた体、泥にまみれたような牙、異様に肥大化した瞳孔と、泡を吹くような口、それは、決して神ではない。

 龍神を模した“醜悪な大蛇”。

 怒りと憎悪と、破壊衝動だけが詰まった、偽りの神。


「……っ!」


 優斗は崩れるように地面に手をつく。

 霊気はもう残り少なく、結界も張れない。


「……兄貴……!」


 麻斗の拳が、ビリビリと波長を帯びて震えていた。その怒りは龍神に向けたものではない。

 ——兄貴をこんな目に遭わせた“こいつ”に。


「……お前みてぇなもんが、神とか……笑わせんな」


 偽りの大蛇が唸る。刹那、地を這うようなうねりとともに襲いかかる!


「優斗、動けるか!」

「……少しだけ。……補助、任せて」

「十分だ!」


 麻斗が真っ向から飛び出し、拳に籠めた退魔の波長を全開にして、蛇の巨体に跳びかかる!

 ドガァッっと拳と鱗がぶつかる激しい衝突音がして、鱗が砕け、波長が内部を抉る!


「オラァァァァァァ!!!!!」


 大蛇が呻き声を上げ、のたうちまわるその隙を見て、優斗がギリギリの霊力で式符を投げる。


「結界・封壁式!ここに固定!」


 地面に封印陣が浮かび、大蛇の動きが一瞬止まる。


「今だ、麻斗!!」

「おうよぉぉッ!!ぶっ潰れろッ!!」


 麻斗の全身に波長が集まり、跳躍とともに大蛇の頭へ、回し蹴りの一撃を食らわした。

 ズガァァァァァンッと激しい衝撃が社殿を揺るがし、偽神の体が崩れ、黒い霧となって吹き飛ぶ。

 砕けた術式の残骸が、静かに風にさらわれていく。あれほど渦巻いていた霊気も、今はもうほとんど残っていなかった。

 麻斗は拳を握り締めたまま、しばらく黙っていた。そして、ふと後ろを振り返る。

 そこには、膝をついて俯く優斗の姿があった。肩で息をして、顔は真っ青。

立ち上がろうとしたのか、力なく片膝をついて、そのまま止まっていた。


「……兄貴」


 ゆっくりと歩み寄る。

 優斗の肩に手をかけると、彼はうっすらと目を開けた。


「……やっぱ、無理……ちょっとだけ……休ませて……」

「……ったく」


 麻斗は苦笑した。


「そんだけボロボロになって、俺のこと止めてくれて……最後まで龍神庇ってさぁ……マジで変なとこだけ頑固だよな、兄貴は」


 返事はなかった。

 優斗はもう、完全に気を失っていた。


「……はいはい、わかったよ。今日はもう、いい子で寝とけ」


 しゃがみ込んで、そっと背中に腕を回す。


「いくぞ——っと」


 ひょい、と軽々と背負い上げると、思ったより体が熱くて、思ったより軽かった。

 麻斗は、背中に伝わる優斗の呼吸を確かめながら、静かに社殿をあとにした。

 空は、もう夜明け前の蒼。

 風はひんやりとして、でも、なぜか少しだけ優しかった。


「……あーもう、あとで絶対怒られるなこれ。

“勝手に来るな”とか“もっと慎重に動け”とか言われるんだろうな」


 それでも。


「俺は、お前が呼んだら絶対来るからな、兄貴」


 そう、ぽつりと呟いた言葉はまだ寝ている優斗の耳には届かなかった。


 ◆ ◆ ◆


 柊神社の門が、朝焼けに照らされていた。

 空はうっすらと白み、鳥の声が聞こえ始めている。その境内に、ひとりの少年が足を引きずるようにして帰ってきた。

 麻斗は、背中に優斗を背負ったまま、ふらふらと石段を登っていた。どこかで転んだのか、肘が少し擦りむけている。

 けれど何よりも、その顔に浮かんでいたのは、安堵と疲労。


「……戻ったぞー……」


 そう呟いた声に、社務所の戸がカラリと開いた。


「おう、おかえり」


 煙草を指に挟んだまま、柊が顔を出す。

 だるそうな顔の奥で、何かを察しているその目だけが少し鋭く光った。


「……随分と遅かったな。報告、聞こうか」


 麻斗はふらりと中に入り、そのまま優斗をそっと布団の上に横たえた。


「兄貴は……途中で意識飛んだ。たぶん、今日いっぱいは寝る」

「そりゃそうだろうな。体から術式の残滓がまだ残ってる。しばらくは大人しく寝かせておけ」


 柊が立ち上がり、優斗に近づいて額に手をかざす。霊気の流れを確認するその手つきは、普段よりも少し真剣だった。


「……ちゃんと生きて帰ったんだな。よしよし」

「……なあ、柊」


 麻斗がぽつりと声を落とす。


「龍神が……最後に、変なこと言ってた。

“神殺しと神慰み”、“もうひとつの魂は忘れ去られている”……って」


 その言葉を聞いた瞬間、柊の手がピタリと止まった。

 数秒、沈黙。

 煙草の火が、静かに揺れていた。


「……そうか。そこまで言ったか」

「……なあ、おっさん。あれ、なんなんだよ。

あれって……兄貴のこと、関係あるのか?」


 柊は静かに煙を吐き出した。


「……あいつが目を覚ましたら、まとめて話してやる。お前だけに話すと、どうせどっちかが背負い込むだろ。今は、ふたりで聞いた方がいい」

「……そういうの、マジでムカつくくらいわかってんな」

「伊達にお前らの親戚やってねえからな」


 苦笑しながら、柊は立ち上がる。


「とりあえず、今日は休め。話はそれからだ」


 ◆ ◆ ◆


 朝日が障子越しに差し込む頃。

 静かな畳の部屋で、優斗はゆっくりとまぶたを開けた。


「……っ、ん……」


 身体は重い。

 全身が鉛のようにだるく、喉の奥にはまだ、龍神の怒気の残り香がわずかに残っていた。

 視界の隅、すぐ横に麻斗がいた。

 寝ているわけではないらしく、優斗が目を開けた瞬間、その視線がピクリと動いた。


「兄貴……目、覚めた?」

「……うん、なんとか……」


 すると、すぐ近くで椅子に座っていた柊が、煙草の火を指先でトントンと落としながら言った。


「……目が覚めたか」


 優斗が身を起こそうとすると、麻斗が素早く背を支える。柊はちらりとだけ見て、特に何も言わず話を続けた。


「麻斗がさっき聞いてきた、“神殺し”と“神慰み”についてだが……」

「あー、そういや。麒麟にも言われた気がする。“神殺しの波長”とかなんとか」

「うん、あの龍神にも言われた。“神殺しと神慰み”……それを繋ぐ“もうひとつの魂”って」


 優斗が小さく頷くと、柊は静かに言葉を選びながら語り出した。


「“神殺し”ってのはな。神に対する“三つの罪”のひとつ……とされてる」

「罪……?」

「そう。だが実際には、神を“殺す”ことなんてできない。人の手で神を斃すことは基本的に不可能だ」


 柊は煙草を灰皿に押し付けた。


「だから“神殺し”ってのは、神に対して“殺意”を抱いたことを――もしくは、神を否定するほどの“力”を持ったことを、そう呼ぶらしい」


 麻斗は眉をしかめた。


「……力があるだけで、罪?」


「神の力を拒絶するってことは、“与えられた秩序を壊す”って意味でもある。“神”ってのは、世界そのものに近いからな」


 柊は少しだけ息を吐いて、今度は優斗を見た。


「で、“神慰み”のことだが、」

「僕の……惹魔体質?」

「ああ。それは言葉の通りだろう。お前の惹魔の波長は、神や霊性の高い存在に“安らぎ”や“魅力”を与える。それこそ、“慰め”の力に近い」


 静かに部屋に沈黙が落ちた。

 それぞれの言葉が、胸の奥にじんわりと沈んでいく。

 そして――柊は一拍、間を置いた。


「で……“もうひとつの魂”」


 再び、重い空気が室内に流れる。

 柊は手を組み、背もたれに寄りかかった。


「このことだが――」


 柊は、一拍、静かに間を置いた。

 その静けさに、優斗の方から口を開く。


「……そういえば、徹にも言われた気がする。

“もうひとつの魂”がどうとかって……」


 その瞬間、柊は、ふぅ……と深く息をついた。まるで、何か覚悟を決めたような、そんな吐息。


「……やっぱりか」

「やっぱり、って……?」


 麻斗が怪訝な顔をする。優斗も、静かに視線を向けた。そして柊は、正面から二人を見て、淡々と告げる。


「お前らはな、本当は……双子じゃねえ」


 その言葉に、空気がぴたりと止まった。


「……え?」

「……三つ子だったんだよ。姉貴……お前らの母親から、昔に一度だけ聞いたことがある」


 柊の声は、どこか遠くを見つめるようだった。


「ただし……生まれた瞬間に、死んだってな」


 優斗も麻斗も、言葉を失っていた。


「双子とか三つ子ってのは、どうしても死亡率が高い。母体への負担も大きいし、生まれつき弱かったり、途中で命が続かなかったりするのは珍しくない」


 静かに語られるその声は、冷静で優しい。

 でも確かに、その場の空気を、確実に重く変えていった。


「……多分な。龍神や麒麟、あるいは他の“神の目”から見れば、この世に存在しなかったはずの“魂の気配”ってのが、……まだどこかに残ってるのかもしれない」

「魂だけが、残ってる……?」

「あるいは、“お前たち”に宿ってる。“3人だったはずの命”が、“2人で補っている”……そんな見方もあるかもしれんな」


 言葉が、部屋に沈んだ。

 静かに目を伏せた優斗の隣で、麻斗が口を開く。


「……なあ、おっさん。それってさ……その魂が、今もどっかに残ってたら、俺ら、どうなる?」


 柊は、はっきりとは答えなかった。ただ、目を細めて言った。


「……“神”が興味を持つってのは、大抵、ろくな結果にならねえってことだ」


柊はしばらく何かを考えるように、煙草の火を見つめていて、ふとくぐもった声で口を開く。


「……龍神は、俺の先祖が封印していたもんだ」


 優斗と麻斗が目を向ける。


「封印に使われた式の写しが、ウチの蔵にも残ってる。当時の記録、術式構造、神との契約文……全部な」


 煙草の火が、小さく燃え尽きた。

 柊はそれを灰皿に押しつけながら、ゆっくり立ち上がる。


「……俺が、改めて封印しに行く」

「……え?」

「お前らは、もう十分やった。身体も霊気も限界だ。今度は、俺の番だ」


 そう言って、軽く背を向ける。


「ま、あとで文句言われても知らんぞ。“お前らも連れてけ”とか言われても、置いてく」

「……言うと思ってんだ」


 麻斗がぽつりと呟く。

 柊は振り返らず、肩をひとつだけ揺らして笑った。


「休め。しっかり寝て、飯食って、次に備えとけ。俺は行ってくる」


 戸を開ける音とともに朝の光と風が、静かに流れ込む。

 柊は、煙草の箱をポケットにしまいながら静かに部屋を出て行った。

 柊が出ていったあとは、静けさが戻った部屋に、しばらくの間、ふたりは無言で座っていた。

 畳の上、ぽつりと麻斗が呟く。


「……三つ子、か」

「……うん」


 優斗は横になって、天井を見ていた。

 目の奥には、まだうっすらと熱が残っていたけど、声は思いのほか、落ち着いていた。


「なんか、覚えてないのに……不思議と“懐かしい”って感じたんだ。あの時」

「……あの時?」

「龍神に言われた瞬間。なんでか、心がギュッてなって。何も知らないはずなのに、“失った”っていう感覚だけが、ずっと残ってる感じでさ」


 麻斗は黙って、少しだけ目を伏せた。


「……それってさ、兄貴の中に、その“もうひとつの魂”が少し、残ってるってことか?」

「分からない。でも……もしかしたら、僕たちは……“ふたり”で、三人分を生きてるのかもしれないね」


 優斗の言葉に、麻斗がそっと眉を寄せた。


「……なんか、ずるいな」

「え?」

「いや……そういうの聞くと、俺、もっとちゃんとしなきゃって思うじゃん」

「……別に、僕はそんなこと言ってないよ?」

「でも俺は思ったんだよ!そーいう兄貴がしんどくなった時、俺が引っ張れるくらいでいたいって!」

「……もうちょっとだけ静かにして。耳に響く」

「すんません」


 少しの沈黙。

 そのあと、優斗が小さく吐息をついた。


「……ホント、ひどい目に遭った。いっつも僕が、ひどい目に遭うんだよね……」


 天井を見つめたまま、言葉をこぼす。


「まあ、仕方ないけど」

「いやいや、仕方なくないだろ!?兄貴マジで毎回メインヒロインみたいな災難巻き込まれ方してるじゃん!」

「……それ、どういう意味で言ってる?」

「いや褒めてんの!ヒロイン体質ってすげーんだよ!人気投票で1位取るやつだよ!主役より存在感あるやつ!」

「……それ、僕を慰めてるつもり?」

「うん!あと兄貴は俺の大事な“兄貴”だし!」

「うるさいな……」


 そう言いながらも、優斗の口元にはわずかに、笑みのようなものが浮かんでいた。

 窓の外では、いつも通りの朝の風が吹いていた。


 ◆ ◆ ◆


 秋の午後。

 少し肌寒くなった放課後の教室で、鞄に教科書をぐいぐい詰めていた。

 授業も終わって気が抜けた空気の中、後ろの席のグループがわいわい話している。


「ねーねー、知ってる?隣町のカラオケボックスでさ……」

「404号室で歌うと、なんかヤバいんだって!」

「声出なくなったとか、“ハモってくる誰か”がいたとか……うっそくさ〜い!」

「でもさ〜、うちの先輩も一回それで……」「マジ?ちょっと怖っ……!」


 麻斗はその話を、鞄を閉めながらふふんと聞き流していた。ただの噂話。よくある流行りの怪談。

 でも、“404号室”っていう具体的な番号と、

「声が出なくなる」「誰かが勝手にハモる」なんてリアルなワードに、少しだけ眉が動いた。

 ——妙に、気になる。

 そのとき。


「日吉ー、今日ヒマ?カラオケ行かね?」


 後ろの席の男子が、声をかけてきた。


「店、あそこの……あの例の404があるとこ!」


 その瞬間、麻斗の目が、キラリと光った。

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