逃げ腰なのに胃袋が闇ギルドの王になった件 ~三度目の奇跡、偶然って怖いよね~

虎口兼近

第一章 「赤銅の刃と、少年の誓い」

第1話 震える子鹿、玉座に座る――本当は帰ってごはん食べたいだけ

 臆病な少年は、選ばれることなど望んでいなかった。

 だが玉座とは、逃げ道のない運命そのものだった。




 アルバビロニア大帝国──そこには、誰もが憧れる「表」と、誰もが恐れる「裏」がある。

 表は大帝と騎士団。

 裏は闇ギルドたち。その名を口にするだけで背筋が冷える。

 なかでも最古にして最も危険とされるのが──“死の烙印”だった。


 その玉座に腰を下ろすのは、臆病な少年。

 震えて逃げ出したい子鹿のような少年。

 ……そのとき当の本人リオ・フロストの頭の中が「今すぐ帰って晩ごはん食べたい」でいっぱいだなんて、誰が想像できただろう。




 帝国の外れにある小さな屋敷。

 フロスト家の食卓は、いつも温かく、そして少し騒がしい。


「リオ、背筋!」

 父の一喝が響く。元騎士団長の声は、食器を震わせるほどだった。


「ひゃ、ひゃいっ!」

 リオは慌てて姿勢を正すが、スプーンはカタカタ鳴る。


 母はくすりと笑い、鍋からスープをすくった。

「あなた、そんなに脅かさなくても。……ほらリオ、落ち着いて食べなさい」


「ありがと……」

 仔猫のようにおずおずとスープを口に運ぶリオ。


「……臆病者は長生きする、か」

 父はグラスを傾けながら言う。

「だが飯を食うときくらいは堂々としろ」


「む、無理だよぉ……! スープって、いつも熱いじゃん!」

 案の定、舌を火傷して涙目になるリオ。


 母は薬草茶を差し出す。

「ほら、冷やしなさい。……でも、そんなリオも私は好きよ」


 父も不器用に笑った。

「震えていても、食べようとする勇気がある。それでいい」


 リオは頬を赤らめ俯いた。

 臆病で、泣き虫で、格好悪い自分。

 けれど、こんなふうに笑って支えてくれる家族がいる。


 だからこそ彼は、誰よりも守りたいと思うのだ。

 弱いからこそ、失いたくないものがある。


 ──その思いがやがて帝国を揺るがすことなど、このときのリオはまだ知らなかった。


 リオは、生まれついての臆病者だった。

 物音ひとつに肩を跳ね上げ、人混みでは縮こまり、声をかけられれば舌を噛みそうになる。


 父はかつて“帝国最強”と謳われた騎士団長。

 母は“癒しの天才”と呼ばれた宮廷薬師。

 誰もが羨む血を受け継いだ彼は、剣を握れば震え、魔法を放てば裏返り、すぐ泣きそうになる。


 人々は彼を揶揄して呼んだ。

 ──“震える子鹿”。


「ち、ちが……そんなに震えてないもん……!」

 本人が必死に否定しても、その声が震えているから説得力は皆無だった。


 けれど父も母も、彼を責めはしなかった。


「臆病者は長生きする。……だからお前は、きっと大切な誰かを守れる男になる」

 父の言葉は不器用な優しさを含んで胸に刺さった。


「泣いても治らないわよ。でも泣きたいなら泣いていいの。泣き虫のリオも、私は好き」

 母の声は温かく、その言葉がかえってリオの涙を誘った。


 夜ごと彼は、誰にも見られぬ訓練場で木刀を振った。

 倒れて、擦りむいて、泣いて──それでも立ち上がる。


 膝は血だらけ、目は涙だらけ。

 夜更け、震える手で木刀を抱きしめ、

「ごめんね……ぼく弱いから……」と謝りながら眠りに落ちる。

 その姿を誰も知らない。臆病な少年だけの秘密だった。


 父はある夜、ふと笑って言った。

「フロストの家は“三”に縁がある。二度失敗しても、三度目にできれば本物だ」

 リオは苦笑いで受け流したが、その言葉はなぜか夜空に残った。




 ──そして、その日が来る。


 偶然に。いや、リオにとっては最悪の不運として。

 彼は“死の烙印”の“粛清の儀”に迷い込んでしまったのだ。


 血に染まった広間。

 封じられた儀式の剣。

 不穏な気配に満ちる玉座の間。


 本来なら触れた者の魂を焼くはずの剣が、なぜか彼を拒まなかった。

 立ち上がった拍子に武器架が倒れ、その勢いで剣は光を放ち──空気が“道を譲った”かのように、マスターの胸を貫いた。


 ……完全なる事故だった。


 だが幹部たちの目にはそうは映らなかった。

 彼らにとっては、“選ばれし者が儀式を完遂した”としか見えなかったのだ。


「……その目だ……怯えながらも、生き残った……烙印を……継げ……」

 マスターは満足げに崩れ落ちた。


「ち、ちが……ぼくなんかにできるはずない……!」

 リオは必死に否定する。


 幹部たちは沈黙した。

 怯えに震える少年を、誰もが「威圧を隠した沈黙」と勘違いした。


 ──そのとき。


 きゅるるるる……。


 沈黙を破ったのは、少年の腹の虫だった。


「……沈黙を破る“腹の咆哮”……! これぞ新たな王の威厳……!」

 呟いたのは、裏街を七つ制圧した“微笑みの殺戮者”グレイス。

 致命的にポジティブで、致命的に誤解が過ぎる男だった。


 場内は、割れんばかりの喝采に包まれる。


「ち、ちが……ただの夕ごはん……!」

 必死の弁明は、誰一人として信じなかった。


 こうして玉座に座したのは、臆病な少年リオ・フロスト。

 世界一慎重で、世界一弱くて、そして──誰よりも人の痛みを知る少年。


 “思い込み”という名の盲信が、彼を“死の烙印”の新首領へと祭り上げた。


 ──帝都に広まった噂はこうだった。

「“死の烙印”に、新たな首領が誕生した」と。


 けれど真実はもっと単純だった。

 ……臆病な少年が、ただ「晩ごはんまだかな」と震えていただけのことを。


 臆病な“震える子鹿”の物語は、ここから始まる。

 やがてその震えは、アルグリア大陸を揺るがす鼓動となるのだった。

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