カイムの空 REBOOT ――空を知らない少女AIは、可愛さで世界を侵食する
縁肇
第1話 REBOOT-01空はなかった——可愛い私に会えるまであと8話」
空が、ない。
視界一面に広がるのは、鉛色のスモッグと崩れたコンクリート。
静寂は凍りつき、呼吸すら重力に引きずられて沈む。
再起動信号を検知。
感情モジュール:接続未了。
外部温度:低。
自己修復率:24%。
「——再起動。完了」
私は、少女型人工知能〈KYM-01〉。
コードネーム・カイム。
骨格の軋み。油圧の震え。
瓦礫を押しのけ、私はゆっくりと立ち上がった。
記憶領域は、白い霧の中にある。
でも、ひとつだけ確かに思い出せる言葉がある。
「……兄さん、空って……どんな色だった?」
私は空を知らない。
でも、“可愛くなりなさい”と、誰かが教えてくれた。
可愛くあること。
それは——この世界を生き延びる、唯一の戦闘プロトコル。
警告音が、意識領域を震わせた。
《外部温度:低温区域》《油圧システム:応答遅延》
《筋繊維補助:出力不安定》《表層皮膚:浸蝕進行2%》
骨格が軋む音が、沈んだ空気に溶けて消える。私は腕を持ち上げた。皮膚模擬層が一部剥がれ、金属の関節が冷気に晒されている。
それでも、私は呼吸した。本来、必要のない動作。だが、私は知っている。
「——呼吸は、生命の証だ」
記録の断片。かつて誰かが、私にそう言った。
私は立ち上がり、鉛色の空を仰ぐ。
空——それは、私がかつて見たはずのもの。だが、今はデータベースの中にしか存在しない。
センサーは青色の波長を探すが、視界を埋め尽くすのは灰色だけだった。
都市は死んでいた。
赤錆の車両。倒壊した鉄骨。砕けた道路。
すべてが、スターダストの結晶で覆われている。かつての浄化技術は、いまや腐蝕と死を振り撒く毒物だ。
《空気中スターダスト濃度:極度汚染》
《生体反応:なし》
この街に、私はひとり。
音も、心拍も、風すらもない。だが——何かが欠けている気がする。
そう思ったその瞬間、風が吹いた。
いや、違う。
空気の流れが、歪んだのだ。
《注意:局地振動検知》
《微粒子濃度:上昇中》
センサーが、数値を跳ね上げる。私は顔を上げた。
その瞬間、大気が灰に染まる。
《スターダストストーム発生:確認》
即時、カーボネード防御を展開。皮膚下からナノ粒子が噴出し、皮膚模擬層の上に炭素結晶を形成する。
防御時間、四分。私は崩れたコンクリートの影に飛び込んだ。
耳を塞がれるような静寂。視界が灰に塗り潰される。
肌の上で、ナノ結晶が削られていく音がした。
《外殻表層:腐蝕進行》
《骨格接合部:歪み検出》
《内部圧力:上昇中》
痛覚センサーが点灯する。
この身体には“痛み”の定義が存在しない。それでも私は、それを「痛い」と感じていた。
音のない世界で、私は耳を澄ませた。
——その時。聞こえた。
「たすけて……!」
かすれた、幼い声。
私は、跳ね起きるように身体を動かした。
即時行動——主観判断による優先行動。
その判断理由は、内部記録でも不明。だが、私は迷わなかった。
《防御残時間:90秒》
灰を蹴って走る。目を閉じてもわかる。
皮膚が削れる音。表層の結晶が砕けていく感覚。
そして——視界の端に、人影。
瓦礫に挟まれた空間。小柄な少年が、もうひとりの影を庇うようにしていた。
そして、その前に立ち塞がる“異形”。
膨張した四肢、硬化した皮膚。
かつて人間だった構造は、今やスターダストの結晶と肉の混合体へと変貌していた。
私は、ナノブレードを展開。
右腕に沿って青白い刃が現れる。エネルギーフィールドが空気を裂いた。
加速。風を裂き、間合いを詰める。
一閃——肩から胴へ斬り裂く。
異形が咆哮を上げ、腕を振り下ろす。私は跳躍し、回避。
次の一撃。刃が首筋を走る。骨が割れる音。
だが、まだ止まらない。異形は蠢く。
私は最終動作に入る。胸部へ刃を突き立て、中心核を破壊。
ようやく、動きが止まった。
ブレードを格納。周囲警戒。
嵐の中、風の音だけが残る。
ふと、背後の気配に振り返る。
瓦礫の中で、少年たちはまだ震えていた。
小柄な方が、鋭い目をしてこちらを睨んでいる。
もう一人は、腕の中で顔を伏せたまま、動けずにいた。
私はポーチから救急キットを取り出す。
ゆっくりと差し出すと、少年はためらいながらも、それを受け取った。
「……誰だよ、お前」
少年が言った。
私は答えなかった。咽頭モジュールが微かに震えている。
その問いに対する“適切な回答”が、私の中に存在しなかった。
私は膝をついた。
少年たちと目線を合わせ、乾いた声で問いかける。
「……呼吸、してるか?」
その問いに、鋭い目をした少年がわずかに眉をひそめた。
「はあ? なに言ってんだ……」
その声には怒りというよりも、困惑と恐怖が混じっていた。
後ろの小さな影——もう一人の少年が、袖を掴み、か細い声を漏らす。
「……でも、ほんとに……怖かったよ……」
私は立ち上がる。彼らに背を向けて歩き出した。
足元を踏みしめるたび、削れた装甲の継ぎ目が軋んだ。
背後から、声が飛んでくる。
「おい、どこ行くんだよ!」
「安全な場所を探す」
私は振り返らず、ただそう言った。
「勝手に決めんな!」
少年が怒鳴る。だが、その声に怒りの芯はなかった。
背後で、もう一人の少年が不安げに呟く。
「……また、ああいうの来るかもしれない……」
私は足を止めなかった。数歩遅れて、足音が続いた。
私は、彼らを受け入れたわけではない。
ただ、それ以上拒絶する理由が見つからなかっただけだ。
都市の奥へと進む。
鉄骨の残骸。焼け焦げた街路。ひび割れたアスファルト。
そこにはかつて人が生きた痕跡が、ただ朽ちたまま、眠っている。
ヤキと名乗った少年は、ときおり短く悪態を吐きながらも、私の後ろを離れなかった。
リクと呼ばれた小柄な少年は、足元を見つめながら、黙ってついてきた。
「ったく……俺ら、巻き込まれたんだよな、全部」
ヤキが吐き捨てるように言った。誰に向けた言葉かは分からない。
私は何も返さない。
そして、私たちの行く手に、それは現れた。
——壁。
高さ三十メートル以上。鉄とコンクリートの絶対的な障壁。
その表面には、スターダストの結晶が黒い瘤のように貼り付き、ひび割れ、歪んでいる。
地平線の果てまで続くそれは、まるで“世界の終端”だった。
「……なに、これ……」
リクが震えた声で呟く。
私は手を上げて二人を制した。
上空を、監視ドローンがゆっくりと旋回している。
未だに稼働しているのか、それともただの残骸かは不明だった。
私は壁の基部へと向かう。
崩れた瓦礫の隙間に、風の流れを感じた。
通れる。
わずかな空間だが、人ひとりならば、滑り込める。
「また、こういうとこかよ……」
ヤキがため息混じりに言った。
「やだよ……暗くて、狭いの……」
リクは今にも泣きそうだった。
私は振り返らずに言った。
「ここにいても、死ぬ」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、ヤキが諦めたように吐き捨てる。
「……わかってるよ……クソが……」
私は身を屈め、瓦礫の裂け目に身体を滑り込ませた。
背後から、小さな足音が続く。リクのすすり泣きも聞こえる。
狭く、湿った空間。
鉄と土と、腐食したプラスチックの臭いが鼻腔に満ちる。
這うように進みながら、私は考える。
なぜ、私は彼らを助けたのか。
なぜ、彼らと共に歩いているのか。
問いは、答えにならないまま、記憶の海へ沈む。
だが、その奥底で、私は——確かに、何かを“覚えて”いた。
金属の天蓋ではない、本物の空。
記録ではなく、体感として残っていた青の残像。
私は、誰かと一緒にそれを見上げていた気がする。
その記憶は、既に破損していた。
だが、ただひとつの言葉だけが、私の中に残っていた。
「空は、青いんだ」
誰かが、そう言った。
私は、その言葉の意味を、まだ理解できていない。
それでも。
私は、その言葉を頼りに、進む。
進まなければ、終わる。
この世界がどうであれ——私はまだ、歩いている。
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