第一章 仮面を脱ぐ日

 秋の風が、窓の隙間からそっと教室に入り込んでいた。十月に入ったばかりだというのに、陽射しはまだじんわりと肌を焼く。

 中村希望は制服の袖を肘までまくり上げ、腕を組んで椅子に身を預けていた。午後のHR、文化祭の出し物を決める話し合いが、ようやく佳境を迎えていた。

「やっぱ、演劇じゃない?」

 誰かがそう言った瞬間、希望の背筋が微かに震えた。

「賛成!希望がいるし、間違いないって!」

「元演劇部のエース様~!」

 軽口と笑いが飛び交う。教室の空気が一瞬にして「それしかない」と傾いていくのが分かった。

 希望は、口角をほんの少しだけ上げる。声が被らないタイミングを正確に見極め、「任せて!」と明るく返す。その声のトーンと表情のバランスは完璧だった。彼女が中学から培ってきた“演技”の技術は、誰よりも洗練されている。

 一方、内心では冷たい汗が背中をつたっていた。

 ──もう演劇だけは、やりたくなかったのに。

 だが、“中村希望”はそれを口に出すことはできない。

「じゃあ決まりだね、演劇で!」

 クラス委員長が黒板にチョークで「演劇」と大きく書き込むと、拍手が湧き起こった。希望は机の下で拳を握った。頬が引きつるのを自覚しながら、笑顔は崩さなかった。

 その瞬間、隣の席の男子が何気なく言った。

「主役はやっぱり中村だよな?」

「希望の演技、他の人じゃ絶対無理だし」

「演劇って言ったら希望でしょ。決まりだよ決まり」

 ──逃げられない。

 そう悟ったとき、希望は背筋をすっと伸ばし、椅子から立ち上がった。

「当たり前でしょ~!あたし以外に誰が主役できんの。主役、引き受けます」

 教室が一瞬静まり返り、次の瞬間、拍手と歓声が巻き起こった。「さすが!」「やっぱり希望だなー!」とあちこちから声が飛ぶ。

 その中で、希望は満面の笑みを浮かべた。

「楽しくやろうね!」

 そう言って、希望は両手を胸の前で軽く握り、小さくガッツポーズのような仕草をしてみせた。明るく、軽快で、親しみやすい。いつもの希望。

 だが、その笑顔の奥では、心のどこかが擦り切れていた。

 ──疲れた。

 それでも希望は、明るく振る舞い続ける。

 それが“中村希望”の役割だから。

「じゃあ、脚本は誰がやる? 経験ある人……」

 沈黙が落ちた教室に、誰かがぽつりと呟いた。

「大塚くん、読書好きだし向いてるんじゃない?」

「それだ!雰囲気あるし」

「え、ちょっ……」

 戸惑うように目を見開いたのは、大塚隼人。教室の後ろの席で、慌てて手を振っていたが、流れは止まらなかった。

「本、好きなんでしょ? だったら物語作るの得意そうじゃん!」

「……え、うん。わかった。やってみるよ」

 言い終えた大塚の声は、どこか遠くにあるように響いた。教室のざわめきにまぎれるように、小さな頷きが落ちる。

 希望は、その横顔を見つめた。

 彼は、机の縁を無意識に握っていた。指先にわずかに力が入っていて、爪が白くなっている。目線はやや下方を泳ぎ、表情には笑顔の輪郭がうまく浮かんでいない。かといって拒否するでもなく、ただ“そうするしかない”と受け入れるような曖昧さがそこにあった。

 ──ああ、大塚も……あたしと一緒だ。

 希望は、胸の奥で何かがわずかに共鳴するのを感じた。彼もまた、この空気の中で“それっぽい役割”を押しつけられたのだ。それは、見慣れた構図だった。

 ──“期待される役”を演じる。私と同じ。

 その後、大まかな役割を決め切ったところでチャイムが鳴る。

「じゃあ先生、うちのクラスは演劇で!」

 実行委員が、担任である澤田に声をかける。

「……演劇、ですか」

 普段と変わらない、静かで澄んだ声だった。だが、その返答までの一拍の間に、希望はふとした違和感を覚えた。

 澤田理央は、どちらかといえば生徒と一線を引いて接するタイプの教師だった。言葉づかいは丁寧で、笑顔も穏やか。だが、生徒に寄り添うようでいて、その実、いつも少しだけ線を引いている。相談ごとを持ちかけても、否定はしないが深入りもしない。優しいが、何を考えているかは見えにくい──そんな人だった。

 その澤田が、黒板に書かれた「演劇」の二文字を、ほんの数秒だけじっと見つめていた。まるでここではない、どこか別の景色を見ているような視線だった。

「構いません。みなさんで、しっかり準備を進めてください」

 いつもの口調だった。抑揚もない、落ち着いた声音。だが希望には、それが少しだけ硬く聞こえた。

 拍手が引いていく中、希望は窓の外に目を向けた。校庭では、サッカー部の男子たちがボールを追いかけていた。夕焼けにはまだ早い、少しだけ色の落ちた空が広がっている。

 ──私のことなんて、誰もちゃんと見てない。

 一度でいいから「役じゃない私」を誰かに見てほしかった。

 そんな願いに蓋をしていることさえ、自分で気づかないふりをして。

 希望は、今日も“中務希望”を演じ続ける。

 

 

 一週間後、放課後の教室ははやくも小さな劇場のようになっていた。机と椅子が端に寄せられ、即席のステージが黒板前に作られている。背景画はまだ未完成。クラスメイトたちがそれぞれの役を読み合わせながら、あちこちで声が飛び交っていた。

 その中心に、希望が当然のように立っていた。

「……ねぇ、私の気持ちなんて、誰も興味ないの?」

 台詞を読み上げる彼女の声には、感情が乗っていた。怒りと悲しみの交錯したようなニュアンスに、数人が「すげえ……」と呟いた。

 けれど、それは希望にとっては当たり前のことだった。台本に記された感情を、どう声に乗せて、どう届けるか。それはもう、体が勝手に覚えている。

「やっぱ、中村がやると違うなぁ」

「安心して見てられるねー」

 そう言われるたび、普段の希望は完璧な笑顔で「ありがとう」と返していた。

 けれど──心の奥では、どこか冷めた声が響いていた。

 ──違う。これは、私じゃない。

 読み合わせの後、希望は台本をパタンと閉じた。最後のページには、空白のままの一行があった。

 『  :             』

 主役が、劇の終わりに観客に向けて語る台詞。それだけがまだ書かれていない。脚本担当の大塚が「ごめん。まだ考え中なんだ」と説明したが、希望はその空白が気になって仕方がなかった。

 ──何を言えば良いの。この主役は、なにを考えているの?

 台本に書かれていないことには本当に弱い。

 そのときだった。

「きゃっ……!」

 鋭い声があがった。振り向いた瞬間、教室の端に立てかけてあった舞台装置が、大きく傾きながら倒れてきた。

 ドン、と鈍く低い音が、教室の床を震わせた。埃が舞い、あたりにいた数人がざわめく。

「危ないっ!」

 希望のすぐ横をかすめて、パネルの角が床に突き刺さる。紙の装飾がばらばらと散った。

「中村さん!」

 叫ぶような声が響いた。澤田先生だった。彼女は希望に駆け寄ると、希望の肩に手を置いた。

「大丈夫? どこも怪我してない?」

 いつもの穏やかな口調とは違っていた。声音には、明らかに焦りと強い緊張が混ざっていた。

「大丈夫です! 当たってませんから」

 安心させるように明るく言う。しかし、澤田の手はしばらく希望の肩を強く掴んで離れなかった。

「ごめん、土台が甘かったみたいで!」

 背景係の男子が、顔を青ざめて駆け寄ってきた。教室の空気は、まだざわめきが渦となっていた。

 その中で、澤田が静かに、だがはっきりと口を開いた。

「何をやっているんですか」

 その声に、教室が一瞬で静まった。

 普段の澤田は、生徒に対してどんなときも声を荒げることはない。注意をするときも穏やかで、どこか感情を削ぎ落としたような口調で話す。けれど、そのときの彼女の声には、明らかな怒気が含まれていた。

「安全確認は何度も言いましたよね? 万が一、中村さんに当たっていたらどうするつもりだったんですか」

 言葉は冷静に選ばれていたが、言い回しは鋭く、語尾には強い力が込められていた。息を呑むような静けさが、教室全体に広がっていく。

 希望は近くにいた女子に、「ちょっと、外の空気吸ってくるね」と小さく告げると教室を出た。

 廊下に出ると、秋の空気が顔をなでていった。夕陽はまだ沈みきらず、校舎の窓ガラスに淡い橙色を映している。そのとき、廊下の端から足音が近づいてきた。

「希望、今ちょっといいか~?」

 声をかけてきたのは新聞部の木村だった。カメラのストラップを肩にかけ、手にはスマホが握られている。

「文化祭特集の記事で、主役のコメント欲しいんだけど──」

 希望は足を止めたが、すぐに視線を逸らした。

「……ごめん、木村。今そういう気分じゃないから」

 言葉はやわらかだったが、その声には明らかな拒絶がにじんでいた。普段なら笑顔で受け答えする希望の、見たことのない冷めた表情に、木村は戸惑ったように立ち止まった。

「お、おう……また今度取材させてくれ」

 木村の返事を背中で聞きながら、希望は足早に廊下の突き当たりへと向かっていった。

 ──ラストの台詞。

 あの一行を思うたび、胸の奥がざわついた。

 台本がなければ、何を言えばいいのか分からない。それが、怖かった。

 

 

 稽古が終わって誰もいなくなったあとの教室は、昼間のざわめきが嘘のように静けさが漂っていた。

 机と椅子は戻されていたが、教室の後方には紙くずや台本のコピー、破れたガムテープが散らばっている。その空間の真ん中で、希望はぽつんと立っていた。

 手にしていた台本のページが、風に揺れてばさりと音を立てる。

 カーテンがふわりと膨らみ、窓の隙間から入ってくる秋風が教室の空気を冷たく撫でていく。

『  :             』

 最後の一行。何も書かれていない、その空白だけが、あれからもずっと胸に刺さっている。他の台詞はすらすら読めるのに、この一行だけは、どうしても言葉が見つからなかった。

 演じること自体は、嫌いじゃない。

 舞台の上では、感情の形を借りて笑える。台本に沿っていれば、声も自然に出る。誰かの言葉を話している限り、自分を見失うことはなかった。

 ──けれど、自分の言葉は、持っていない。

 その空白は、彼女の“本当の声”を要求している気がして、恐ろしくてたまらなかった。

 台本を持つ手を下ろし、希望はゆっくりと息を吐いた。笑うでもなく、怒るでもなく、何の感情も貼り付けていない顔──そのままの自分が、教室にひとり残されていた。

 ふと、視線を上げた。

 黒板の隣、壁際に立てかけられた背景画。

 クラスの誰かが描きかけのまま残したそれは、森の風景だった。褪せた緑と茶の混じる木々が並び、ところどころに差し込む木漏れ日が絵具の白で抜かれている。絵は柔らかく淡いタッチで、舞台装置の一部として主張しすぎないように、意図的に静かに仕上げられていた。

 何気なく視線をなぞっていくうちに、希望の目が一点で止まった。

 ──あれ……?

 画面の奥、森の影のあたり。

 他の人物よりもずっと小さく、色も薄く描かれた一人の人物がいた。全体の構図に溶け込むように配置されていて、注意して見なければ通り過ぎてしまうほど、控えめな存在。

 希望は近づいて、その人物に目を凝らした。

 髪が肩まであり、制服のような服を着ている。立ち姿ははっきりしているのに、顔だけが──描かれていなかった。

 目も、鼻も、口もない。表情の痕跡すらなく、白く抜かれたままぽっかりと空いた“空白”。

 他の登場人物たちが皆、ぼんやりでも顔を持っている中で、その人物だけが“誰でもなく、何者でもない”存在として、ひっそりとそこにいた。

 まるで自分を見ているような気がして、希望は思わず息を呑んだ。

 誰かを演じているときは平気だった。用意された表情、与えられた言葉があれば、笑えるし、泣けるし、伝えることもできた。

 けれど、“自分”という素の存在で舞台に立つとなると、何も出てこない。

「……この絵、私だ」

 この顔のない人物は、まるで舞台の外に立つ自分自身のようだった。

 目立たない場所にいて、誰からも見つけられず、ただ背景の一部として流されていく──そんな自分を。

 ぽつりと言葉がこぼれる。けれどその一言は、飾りのない本音だった。

 そのとき、背後の引き戸が、ゆっくりと横に動いた。レールの擦れる低い音が、静まり返った教室に微かに響いた。

「……中村さん?」

 振り返ると、大塚隼人が教室に入ってきた。片手に台本を持ち、鞄の肩紐をかけたまま立ち止まる。

 希望は、表情を戻すのに少し時間がかかった。自分でも知らない顔をしていたことに気づいて、急いで“中村希望”を思い出そうとした。

「あれ、大塚くんも居残り?」

「ちょっと職員室に行ってて」

 彼の目が、希望の手元の台本に一瞬だけとどまった。

 そして、ためらいがちに言葉を探すような間のあと、ぽつりと呟いた。

「……ラストの台詞、だよね? ごめん。良いセリフが思い浮かばなくて」

 希望は、台本を閉じたまま、彼を見つめた。

 教室の窓の外から、部活のかけ声が遠く聞こえる。夕暮れの光はすでに褪せかけていて、教室の隅は少しだけ暗かった。

 大塚は真っ直ぐこちらを見ていた。その目には、どこか申し訳なさそうな色が混じっていた。

「本番までには絶対見つけるから」

 しかし、希望はゆっくりと首を横に振る。

「……ありがとう。でも、大丈夫。自分でも考えてみるから」

 言葉にすると、自分でも驚くほどその声は小さかった。

 “台詞がないと動けない私”が、“自分で言葉を探したい”なんて──矛盾だらけで、どこか滑稽に思えた。

 うつむいたまま、希望は台本の表紙を指でなぞった。

 タイトルの黒いインクが、すっかり薄れて見える。

「……自分の言葉で、終わらせてみたい」

 沈黙が落ちた。

 大塚は何も言わず、教室の中央に踏み出してきた。歩幅はゆっくりで、歩く音さえやけに遠くに感じられた。

 彼は、机の一つに手をかけ、鞄を置いた。

「……うん。わかった」

 それだけだった。

 でもその短い言葉に、押しつけがましさも、ためらいもなかった。

 ただ静かに、希望の決意を受け止めてくれた気がした。

 

 

 本番当日。体育館の中は、幕の奥に広がる舞台に、観客の視線が集中していた。

 ステージの上は、しんと静まり返っていた。足音、衣擦れ、遠くで鳴るマイクの微かなノイズ。誰もが緊張を息に押し込み、主役の出番を待っていた。

 舞台の袖。希望は、開きかけた台本の端をそっと閉じた。

 ページの最後には、まだあの空白が残ったままだ。

『  :             』

 台本を持つ手のひらが、じんわりと汗が滲んでいる。

 ──ちゃんと、言えるかな。

 照明係の合図が、手で送られる。

 それに続くように、舞台の上では、最後のシーンが進行していた。

『……そんなふうにして、この物語は幕を閉じる──はずだった』

 希望は、一つの台詞を合図に、舞台の中央へと歩き出した。

 ブーツの靴音が、板張りの床に小さく響いた。

 ステージの上には、彼女ひとりを照らすスポットライトだけが灯る。

 客席の顔は、明るさのせいで見えない。

 けれど、その見えない気配が、幾重にも重なって希望の胸を圧迫してくる。

 心臓の音がうるさい。口の中が乾いている。

 でも、逃げ出したいとは思わなかった。

 ここに立つと決めたのは、自分で考えると言ったのは、ほかの誰でもない自分自身だ。

 台本を持たない手が、無意識に震えている。

 けれど、希望は深く息を吸い込み──その空白へ、声を注ぎ込んだ。

「……誰にも届かなくてもいい」

 言葉は、自分でも驚くほど静かだった。

 けれど、はっきりと、客席の奥まで伸びていった。

「うまく言えなくても、誰かに笑われても、間違っていても……これが、私なのだから。──私はここにいる!」

 言葉が自分の中から出ていくたびに、胸の奥で何かがほどけていった。

 灯りの下で、自分の存在がじわりと浮かび上がっていく気がした。

 仮面のない、自分そのものとして、今ここに立っている。

 沈黙が落ちた。

 演出では照明が消えるまで間を取ることになっていた。

 だがその数秒が、希望にはやけに長く、けれど不思議と怖くなかった。

 ──言えた。

 台本ではない。自分の考えた言葉を言えた。

 そう認識した瞬間、体の奥から静かに安堵が溢れてきた。

 照明がふっと落ち、暗転。

 次の瞬間、体育館に拍手が起こる。最初は一人、また一人。やがて、それが大きなうねりとなって広がっていった。

 希望はゆっくりと頭を下げると、袖へと歩き出した。

 舞台裏に戻ってクラスメイトに迎えられながら、希望は視界ほんのり滲ませる。額の汗をぬぐいながら、希望は小さく、けれど確かな笑みを浮かべた。

 それは、“中村希望”という役を生きてきたどの瞬間よりも、自分らしい笑顔だった。

 今、ようやく一歩。

 仮面の外側に足を踏み出せた気がした。

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